暮れの影
主人公である彼の状況と、カセットテープから流れてくる状況とが交差します。
わかりづらいかもしれませんが、お付き合いいただければ僥倖です。
彼はようやく立ち上がって、ぐうっと背伸びをした。
それから何回か腰をひねって凝りをほぐすと未だに散々な様子の部屋を見渡して溜息をついた。
高校最後の夏の大会を準々決勝敗退という結果で終えて、悔し泣きで夜を明かしてから四日経っていた。
三年間ほとんど休みなく部活一本に捧げてきたが、ついにベンチにすら入ることなく、応援席から声を枯らして仲間たちに声援を送り続けた。ずっと憧れていた戦いの場に立つことも許されない自分の力不足が情けなく、選手たちの背中が眩しくて仕方なかった部活生活に終止符を打たれ、彼は悄然としたままだった。
しかしそうしているうちにも日々は過ぎる。いままでうるさいだけだった進路や受験や勉強といった話題が実態をもって迫ってきて、いよいよ本腰を入れて机に向かわなければヤバイんじゃないか、と家族にせっつかれたのだ。
自分の現状くらいわかっている。過去のテストの点数を思い返し、教科書を広げてみても視界の端にある部活道具が彼の意欲と焦りを削ぐ。
少しも進まなかった勉強道具を片付けて、部活の道具を整理し始めたのがたしか昼あたりだった。
気になったところに手を付けていたら、結局大掃除をする羽目になったのだ。せっかくだからと押入れの中にまで及んだのが悪かった、窓にかかるレースのカーテンが夕焼け色に染まり始めてもまだ床は足の踏み場もない有様だ。
買い物に行くから、と声を掛けにきた母親がクーラーをかけたまま掃除をするなと怒鳴ったので仕方なく開け放した窓からはぬるい風すら吹き込まない。だらだら流れてくる汗を首にかけたタオルで拭う。
もうひとつ、大きく溜息をついてから彼はしゃがみこんで押入れに突入した。
長く整理もせず、放り込むばかりだった押入れには彼が幼稚園の頃に使っていたものや失くしたとばかり思っていたものや、家族分のガラクタが積み上げられている。
ぶつぶつ悪態をつきながらガラクタを出していくと、錆びたお菓子の缶が出てきた。元は明るい色彩でも模様が描かれていただろうその缶は、蓋との隙間をガムテープで厳重に固めてあり、さらに上から縦横十字に封じてあった。
「なんだ、これ」
押入れから這い出して缶を振ってみると缶と中身がぶつかる硬い音がした。
彼はビニール紐と一緒に放ってあったハサミを手に取ると、刃を開いて蓋のふちを強くなぞってガムテープを切っていく。
意外に抵抗なく開いた缶の中にはカセットテープがひとつ入っていた。
タイトルテープは貼ってあるものの、タイトルの上から黒のマジックで塗りつぶされていてなんと書いてあったのかわからない。
「これ、カセットテープだっけ。てことは父さんのか?」
彼の父には以前カセットテープ収集の趣味があった。販売されていたものからラジオを録音してあるような個人的なものまで、内容は多岐に渡った。彼も幼い頃は父の膝の上に乗って一緒になって聴いていたが、いつからか父はその収集をやめ、同じようにカセットテープを聞くこともなくなった。
「懐かしいなー。これ、まだ聞けるか?」
彼は押入れからカセットテープのプレーヤーを発掘していたのを思い出した。
積み上げていたガラクタからプレーヤーを引き出し、首にかけていたタオルをとって汚れを拭った。乾電池を入れ替え、ボタンを押したりして問題なく使えるのを確認するとカセットテープの巻き戻しがしてあるのかを確認してから一応タオルで拭いてセットした。
「あ、これってA面B面てあったんだっけ? うわー、聞き方とかすっかり忘れてんな」
ま、いいか。と呟いて彼は再生ボタンを押した。
カチッ......ザー
「あれ?」
スピーカーからは耳障りな砂嵐の音しか流れない。プレーヤーの窓からはきちんとテープが回っているのが見えているので、セットの仕方も動作も問題ないはずなのだが、もしかしたら面を間違えたのだろうか。
彼は停止ボタンを押して、今度は反対の面をセットして再生してみた。
カチッ......ぁー、ぁー、うん、よし。
「おっいけた」
まだ背後に砂嵐がかすかに聞こえはしているものの、溌剌とした印象の若い男性の声が聞こえてきた。
えー、19××年7月24日、水曜日です。場所は××県の××市、取材内容はあなたの怖い体験です。あ、心霊経験って意味ですよ、今更ですが取材と録音の協力ありがとうございます。
いえ、暇でしたし。あ、ここの支払いって。
もちろんこっちで。
あ、はい。
おっ、と彼は声をあげた。音楽のテープやラジオの録音テープなどは数々聞いてきたが、こういう取材に使われたテープを聞いたのははじめてだった。
若い声は取材者らしい。もうひとりの、どこかおどおどした感じの男の声が取材を受けた方だ。支払いと言っているし、背後の砂嵐はもしかしたら店内の雑音かもしれない。
汚れを拭ったせいで汚れた部分を裏返したタオルで、汗濡れの顔を雑に拭いてから彼はラジオに聞き入った。
では早速伺っていきますね、お名前とか聞いても大丈夫でしょうか。
偽名とかでも。
いいですよ。
じゃあ"メガネ"で。昔のあだ名なんです。
ああ、いまも掛けてますもんね、小さい頃からですか。
そうです。クラスでひとりだけ眼鏡だったんで、あだ名も安直なんですよね。眼鏡かけてるやつがもっといたら、きっとほかのあだ名が付いたんだろうけど。
あはは、そうかもですね。"メガネ"さんの怖い体験も学校に行かれてた頃なんですか。
小学生の頃だったと思います。僕、霊感とかまったくない人間で、そういう経験ってあの時の一度っきりなんですよね。ずいぶん前のことだし、正直、あれは僕が頭の中で脚色した部分も多いんじゃないかって。
あー。
いままで人に話したことなかったんですよ。なんか気味が悪くて、話して出来事を形にするとなんか、あれが、やって来る気がして話せなかったんですよね。
あれ、ですか。
はい、あれです。でもそろそろ話すのもありかなと思いはじめたんですよ。僕にとって気味悪いし怖い経験でしたけど、自分の中だけで溜めておきたくない事でもあるんで。なるべく思い出すままに話すんで、飛び飛びになったらすいません。
気にしないでいいですよ。思うまま、お話ください。
すいません。
少し間が空いて、カラン、と氷が触れあうような音がした。
えー、たしか僕が小学校の低学年だったころかな。蒸し暑い夏の日でした。お盆で帰省してきた親戚たちを見送って、片付けで家が忙しなかったんです。だからろくに手伝いもしない男共は遊びに行ってこいって放り出されたんですよ。父はパチンコを打ちに、兄は友達の家に、僕は公園に行って同じように追い出された同級生たちと遊んでました。兄が5時のサイレンが鳴ったら迎えにくるからって約束してくれたんで、それまで遊んでいようって。蝉がよく鳴いていて、とてもうるさかった。夕方、5時になって"夕焼け小焼け"が流れてきました。僕は帰るという同級生たちと渋々別れて公園の前の道に出て兄を待ちました。最近の公園と違って、遊具も置いてなくて、ほんとに空き地のような何もない公園でした。幼い頃の僕は臆病で、広い場所にひとりで居られない子供だったので、公園じゃなくて少しでも人通りのある道に出たんだと思います。しかし兄はなかなか迎えに来てくれなくて、僕は待ちくたびれてしゃがみこんでいました。日が落ちるにつれて、視界が朱くなっていったのを覚えてます。見事な夕焼けでした。僕の影がずーっと長く伸びていくのをぼーっと眺めてたんで、夕日に背を向けてしゃがんでたんですかね。で、ふと、蝉の鳴き声にまぎれて何か聞こえてくるのに気がついたんです。兄が迎えに来たのかもしれないと僕は立ち上がって周りを見渡しました。公園の前の、僕が出ていた道は西に向かって緩やかな坂になってたので、ちょうど夕日に道が登っていくようになってました。その坂のてっぺんあたりに人影を見つけたんです。夕日にあたっているせいか、真っ黒に見える人影は、うつむいてゆらゆらと揺れていました。僕は待ちくたびれていたのでその影が兄だと疑わず、大きく手を振っておーいと叫びました。しかし反応がありません。僕は聞こえていないのか、と思って爪先立って両手を振ってさらに大きな声でおーい、にーちゃーん、と叫びました。何度かそうするうちにその影が僕を見つけたのがわかりました。僕は嬉しくなって呼び続けたのですが、不思議なことに気がついたんです。夕日に照らされて黒く見えるなら、足元に影が伸びているはずなのにあれには影がないんです。それに思い至った瞬間、僕はぞっと背筋が凍りました。あれが、なにかを呟きながら、僕に向かって一歩足を踏み出したからです。口に当たるところから白いものがチラチラ見えました、途端、耳に届いていた音の一切がなくなってキーンと高い耳鳴りがしました、焦げた脂と腐ったような匂いがしました。ガチガチに固まった体が無意識に足を後ろに引いた時、
かえるぞー!!
と、後ろから兄の声がしたんです。振り返るとバットを肩に担いだ兄が僕を怒った顔で睨んでました。僕は一目散に駆け寄って兄に飛びついて泣きました。兄は困惑しましたが、すぐ鬱陶しくなったのか音がするほど強く頭を殴ってきたので、僕も同じように殴り返して小競り合いながら家に帰りました。
......あれ、終わりですか。
あは。はい、終わりです。
後日談があったりとか。
いやー、ありませんね、僕も兄も無事に家に帰り着きましたし、あれを見たのは一度きりで、それからは霊体験なんてありませんから。
はー、そうですか。そのあとーってつづける方もいますんで、てっきりそういう話だと。
ああ、あんまり怖くなかったですか。すいません。
そんなそんな! あなたの怖い体験、と銘打ってますけど結局なにを怖いと思うかなんてそれぞれですしね。貴重な体験談でした。
んー。後日談、てわけじゃないんですけど。
え?
あれが立ってた所の近くに、××さんって方が住んでる家があったんです。
ええ。
あそこの家は通るときにうっと息を詰めるほどに臭うことがあるんですよ。僕が嗅いだような、焦げと腐臭が混ざったような。
へー。
それにーーーーーーーーーーーーーー
「ん?」
いきなり砂嵐が強くなり、なにも聞こえなくなった。
ここまできて故障はないだろう、と彼はプレーヤーを手に持った。
ーーー
ーーーーーんーーでーーよねーーー
ーーな、わかーーですよね。
スピーカーに耳を近づけると、ひどい砂嵐の中から言葉が拾えた。
ーー名前をよーーです、あーー
なーーをですか
ーーーれはあーーないはずなのに、わかーーーす。
でも、ほんーー
本当です。
急に砂嵐が遠くなった。二人の声がはっきりと聞こえ出す。
あれは兄の名前を呼びました、あのとき、兄の名前を呼んで、そして白く焼け残った歯を見せて笑ったんです。ああ、やっぱり話すんじゃなかった。辛抱して辛抱して、僕は死ぬまであれのことを話すべきじゃなかったんです。
"メガネ"さん?
僕の体験は本当にこれだけです、でもあれに名前を呼ばれた兄は、死ぬまでずっとあれに憑かれていました。
お兄さん?
13年前に兄は火事で命を落としました、兄の部屋から出た火元のわからない不審火が原因でした、夏の日の夕方でした、夕日よりも赤く黒く燃え盛る炎がうねり、消防車のサイレンと人の怒声と悲鳴の中で僕は兄が叫んだのを聞いたんです。
"メガネ"さん!
くるなって叫んでました。あれに名前を呼ばれてから兄は夕暮れ時になると何かを怖がるようになりました。きっとあれが怖かったんです、あれが兄を殺したんです、そう、僕はあれを兄だと思って呼びかけたとき兄の名前も叫びました、僕があれに兄の名前を教えてしまった。あにはぼくがころしたもーーー
"メガネ"さん、おちーーて。あ、クサッ、なーー、このにーーは。まるでなにーー腐ったよーー。
ああ、僕のせーー、ほんーーにごめーーーい。
え、あれは。
誰にもあれのことは話してきませんでした。あれを呼ぶかもしれないと思ったからです。でもこの罪悪感から逃げたくて、僕はあなたの名前を知らないし、あなたも僕の名前を知らないから大丈夫だと、最悪あなたにあれが憑くことはないだろうと。ほんとうにごめんなさい。見えるんですね、あれが。
"メガネ"さん、外に、窓の外に。
僕には見えないんです、あれの姿は。においも。
そんな。
名前をーーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーーーーーーーーーー
スピーカーから聞こえるのが砂嵐だけになっても、彼は動けなかった。
背中にじっとりと暑さのせいじゃない汗をかき、見える肌には鳥肌が立っている。心臓がバクバクと耳の奥で脈打ち、呼吸は浅く早くなっている。
口で息をしているのに、鼻が焦げと腐臭を嗅いでいた。
瞬きはできなかった。なぜなら夕日に染まった薄いレースのカーテンの向こう側、開け放った窓の向こうに白い歯を出して笑う黒い影があるのだから。
スピーカーから流れてくる砂嵐の音が、だんだんと言葉を成していく。
ぬるく弱い風が薄いカーテンを揺らした。
あれが、口を開いた、砂嵐がしっかりと言葉を成した。
みぃつけた
補足的設定や書けてない所の説明も活動報告に載せてます。
よろしければご意見ご感想を寄せていただけたら嬉しいです。
最後までお付き合い、ありがとうございました。