蒼い姿
「大丈夫だよ。」
彼女は僕が心配をするたびに、そう言ってくる。
その時彼女は誰にも真似できないとてもにこやかな笑顔でこちらを向く。
僕はその笑顔を見るのがとてもつらかった。
それは僕の無力さを直に表しているようで、耐えがたい苦痛だった。
僕が彼女の存在に気づいたのは、野球部に入ってからの事であった。
部活動が終わる夜の事、とある顔つきの悪い先輩が僕を体育倉庫まで誘った。
僕はそれについていき、その倉庫に入るとそこには複数の先輩から暴力を受けている野球部マネージャーである彼女の姿があった。
あまりの恐ろしさに僕は絶句したが、その表情を見せたら誰に何をされるかわからない。
僕はあくまでも平然とした表情で、それを見守っていた。
やがて時間がたち、順番は僕の方へと回ってきた。
先輩たちは彼女の髪を引っ張ってその顔を僕に向けた。
彼女の顔は暴力の傷と打撲傷でボコボコになっていた。
僕は唖然としてその場に立っていた。
「おい、殴れよ。」
そう言ってくる先輩の圧を感じ危機感を察した僕は彼女を殴った。
何回も、何回も。
僕は涙が出そうになるのを必死で抑えて、先輩の命令通り殴った。
何回も。何回も。
そうして先輩たちが満足するまで彼女は殴られた。
何回も、何回も。
そして先輩は殴るのに満足すると、彼女の髪を引っ張って壁にぶつけて、帰っていった。
僕は先輩たちが居なくなるまで彼女を見守った。
そうして先輩たちが居なくなると、僕は彼女に駆け寄った。
「大丈夫ですか!?」
「うん……大丈夫……大丈夫だから……心配しないで……」
彼女はそう言っていたが、どう見ても大丈夫な状態ではなかった。
「とりあえず、ここを出ましょう!」
僕はそう言って、彼女の肩をしょって、体育倉庫のすぐ近くにあるベンチに彼女を座らせた。
そして慌てて自販機に行き、コーヒーを買い、彼女に渡した。
「ありがとう……」
彼女は不思議そうな顔をしながら礼を言った。
その彼女を見ながらつい、僕はこう訊いた。
「何で、何も文句を言わずに、あんなひどいこと受けてるんですか……?」
彼女はその質問にフフフッとと笑いながらこう答えた。
「何でって、そう言ってくる人今までいないからちょっと驚いちゃった。まあいいわ。詳細を話すとね……」
そう言って彼女はこれまでの経緯を話した。どうやら彼女は野球部のとある先輩と交際をしていたらしく、分れる際に彼氏に持っている写真を使って脅されて、現在に至っているらしい。
「誰にも相談してないんですか?」
「相談も何も、自業自得だから……」
そう言って、彼女は口を閉ざした。
「でも……心配してくれてありがとう。」
「いやいや、こんな姿を見たら、誰だって心配しますよ!」
「キミは優しいね。ねぇ一つお願いがあるんだけど、いい?」
「なんですか?」
「また、こうやって、コーヒーをもらってもいい?」
そのお願いをする彼女は傷だらけでありながら、きらびやかな笑顔を見せた。
その笑顔に、思わず僕は
「はい!」
と返事をした。
その後は、部活動をやるたびに、彼女と話すようになった。そしていつもコーヒーを渡した。男くさい野球部の中で一輪の花であったため、それはそれは至福の時であった。僕たちはいろんな話をした。世間話や笑い話、時には恋愛の話もした。そして彼女は僕が心配する度に、「大丈夫だよ。」と言っていた。
そうして日々を送ると自分の心には変な感情が芽生えてきた。
それは彼女を守りたいという気持ちだけでなく、彼女と一緒にいると緊張するようになってきた。
毎日、「大丈夫だよ」と言ってくれることがつらくなってきた。
その負荷は日に日に強くなっていき、ついに限界が訪れた。
その違和感が限界点に達してから1週間後、僕は野球部を辞めた。
そして彼女に会わなくなった。
それから1カ月後、彼女はとある昼休みの事、急に僕を呼び出した。
呼び出し場所は学校の屋上だった。
僕は階段を駆け上がって、屋上へと向かうと、彼女は屋上のフェンスの向こう側にいた。
僕は思わず叫んだ。
「何をするつもりですか!」
「何をするって……ここから飛び降りたら楽になれるかなって、そう思ったの。」
「やめてください!そうなったら先輩は死んでしま……」
「それでいいの……この世はあまりにも私には合わなかったの。今までありがとう。」
「死なないでください!あの時はごめんなさい……でも……最近来れてなかったのは……」
僕は大きく呼吸を整えて叫んだ。
「貴方が好きだったからです!」
初めての告白だった。
「ありがとう。でもごめんね。もう決めたんだ。」
その言葉を聞いた瞬間、僕は両膝をひざまついてしまった。
「貴方には本当に感謝してる。ここまで頑張って来れたのもあなたのおかげだった。」
そう彼女は言ってにこやかな笑顔でこちらを向いた。その目には少しながら涙が出ていた。
「私、キミのその声を聞いて嬉しかった。ありがとうね。もう大丈夫だよ。」
彼女はそう言うと、青い空の向こう側へと消えてった。
とある昼休みの時間。その自殺で学校は騒然となった。
僕は思わず屋上から駆け下りて、校庭へと向かった。
もう既に人が群がっていた。しかし、誰もその死を悲しむことは無く、聞こえるのは自殺への興味本位による心無い一言。そして、自殺した彼女への悪口。
僕はその声を聞いて唖然とした。悲しくなった。
それから数日後、自殺騒動は落ち着いたが、僕の頭からはあの衝撃は忘れられていない。多分は忘れることは無い。いや、一生忘れたくはない。
幻聴だとは思いたくないが、毎日彼女を思うと
「大丈夫だよ。」
という声が聞こえる。
その声が聞こえるたびにあの笑顔が思い出されて、つらくなる。
あの大丈夫とは何だったのか。
でも、もうそれに思いを馳せても、彼女は帰ってこない。
だから、僕だけでも、あの蒼い姿を忘れることは無いと誓おう。
僕は「大丈夫。」という言葉を聞くたびにあの蒼い姿を思い出す。