3. 醒めない悪夢
朋美はほぼ即死だったはずだ。それなのに早智子は、なおも狂ったように刺し続けている。何度も何度も。ダイニング・キッチンは鮮血に染まり、家庭的だったはずの光景は地獄絵図と化した。
凄惨な現場を目の当たりにした理佳は、まるで悪夢を見ているかのように現実味を感じられなかった。
「う、嘘でしょ……朋美が……死んだなんて……そんな……夢なら……醒めて……ねえ……お願いだから夢なら醒めてよぉ……!」
だが、これは夢などではない。現実は非情だ。朋美を無残に切り刻んだ早智子の目が、次の標的――すなわち理佳へと向けられる。
理佳は逃げた。玄関へ。そして、ドアノブをつかむ。
だが、あまりにも焦っていたせいで、ドアの鍵はドアノブを回すのと同時に解除したものの、チェーン・ロックのことを失念していた。ガツン、という無情な手応えと共に、ドアはほんの十数センチしか開かない。
「ああっ、もおっ!」
自ら冒した失敗を呪いつつ、早くチェーン・ロックを外そうと、理佳は躍起になる。
しかし、一旦ドアを閉めるということをしないまま外そうとしたため、何度試しても上手くいかない。そうこうしているうちに、理佳は背後に近づく不穏な気配を感じた。
「返して……!」
「ひっ――!」
理佳はドアから離れるようにしてしゃがんだ。そのすぐ横を包丁の刃が掠める。それは鈍い音を立て、木製の玄関ドアに突き刺さった。
勢いがあったせいか、刃は深く刺さり、南早智子がすぐに包丁を抜こうとしてもビクともしなかった。あの一撃を受けていたら、理佳の命はなかっただろう。
この隙に理佳は逃げようとした。今度は勝手口へ引き返そうとする。
ところがタイミングの悪いことに、早智子は意外に早く刺さった包丁をドアから引き抜いた。
ただ、力任せに引っ張ったため、抜けた拍子に身体がふらつき、逃げようとしていた理佳と背中同士がぶつかる格好になった。
「キャッ!」
早智子に押された理佳は、勝手口ではなく、二階へ通じる階段の方へ追いやられてしまう。
一方、玄関先で転んだ早智子であったが、すぐにでも起き上がりそうな様子だ。
勝手口や玄関から逃げるのを諦め、理佳は仕方なく階段を上がった。少しでも早智子との距離を取るなら、選択肢はそれしかない。
何度も遊びに来ている理佳は、二階にある朋美の部屋に駆け込んだ。この部屋は内側から鍵をかけられるようになっている。
素早く部屋の鍵をかけるのと、ドアの外で何かが激しくぶつかるような音が響いたのは同時だった。
「ひぃっ!」
ドスン、というビックリするような激突音に理佳は首をすくめた。そして今度はドアノブがガチャガチャと鳴る。開かないと分かると、荒っぽくドアがドンドンと叩かれた。
何か入口を塞ぐものがないか、と理佳はドアから後退りながら室内を見回した。
しかし、そんな都合のいい物など見当たらない。映画やドラマならクローゼットなどを動かしたりするのだろうが、衣類が詰め込んである状態のものを容易に動かせるものか。せいぜいあるのは勉強机のイスくらい。
どうしようか理佳がパニックに陥っていると、再びドスンという凄い音がして、包丁の刃先がドアから飛び出した。それが何度も何度も突き立てられる。
「あっ……ああ……」
何と早智子は包丁でドアノブの部分を削り取るつもりらしい。その証拠にドアノブの周りには次々と血まみれの包丁によって穴が開けられていく。
この部屋に早智子が入って来るのは時間の問題だ。何とかしなければ朋美のように殺されてしまう。
「神戸さん……」
自らを犠牲に理佳を逃がしてくれたあの若い刑事は、いったい、どうなっただろうか。杉浦同様、やられてしまったのか。考えたくはないが、こんな危機的状況では悪い方向にばかり想像が働く。
「どうしよう……どうしたら……」
方法はひとつある。窓だ。
理佳はサッシの窓を開けた。下を覗くと、足場になるような屋根はなく、コンクリートの地面がダイレクトに広がっている。わずか二階ながら、こうして眺めるととんでもない高さに思えた。
ここから飛び降りて近くの交番に駆け込めば、何とか助かるかも知れない。とは言え、高所恐怖症ではない理佳でも、さすがに尻込みしてしまう。
そうこうしているうちに、バキバキッとドアの壊れる音がした。振り向くと、今まさにドアノブが取り外されようとしているところだ。
躊躇している場合ではなかった。飛び降りなければ確実に殺されてしまう。
理佳は意を決して窓枠に足をかける。
そのとき、なぜか理佳は朋美が使っていた勉強机の上にふと目が行った。そこに置かれた一冊の本が目に飛び込んで来る。
「あれは……!」
飛田龍之介の『緋色の夢』だ、と思った刹那、とうとうドアが破られた。包丁を手にした早智子が物凄い形相で襲いかかって来る――
「――ッ!」
半ば落ちるような格好で理佳は飛び降りた。落下の感覚に身が縮む。心臓が今にも飛び出しそうだった。
理佳は足から着地し、勢い余って前に倒れ込むのを手で支えた。痛みも顧みず、飛び降りた二階の窓を振り返る。早智子が半身を乗り出して、こちらを見下ろすのが見えた。
理佳は立ち上がって逃げようとした。ところが、右足首に激痛が走る。そのせいで、また倒れてしまった。
どうやら着地のときに捻挫でもしたようだ。これでは急いで逃げられない。
すぐにでも早智子が飛び降りて来るのではないか、と理佳は恐怖し、再び頭上を振り仰いだ。
ところが、早智子の姿は消えていた。
果たして何処へ、という疑問を浮かべる間もなく、次の瞬間、派手な破砕音と窓から落ちてくる物体に理佳は目を見開いた。
降り注ぐガラスの破片。そして、朋美が使っていた勉強机のイス――
とっさに動けない理佳は身を丸め、頭を抱えるだけで精一杯だった。
窓から落とされたイスは理佳の身体を逸れたものの、細かなガラス片のシャワーにさらされた。最早、悲鳴を上げる余裕すらない。
――殺される。本当に殺されてしまう!
理佳は絶望を感じた。
もう一度、二階の窓を仰ぎ見た。
そこには舌打ちする早智子の姿。ジッと理佳を見下ろす表情に悪寒が走る。
――死ぬのだ。本当に死んでしまうのだ!
これまでか、と理佳は観念しかけた。
その刹那――
「理佳さん!」
力強い声が理佳の名を呼んだ。その聞き覚えのある声を耳にした瞬間、思わず涙があふれそうになる。
それが神戸刑事のものだと分かると同時に、一発の銃声が轟いた。
窓から上半身をさらしていた早智子の右肩から血が飛び散った。その拍子に、手にしていた文化包丁を取り落とす。それは理佳のすぐ足下に落下した。
神戸は続けざまに発砲したが命中はせず、早智子はすぐに部屋の中へ身を引っ込めていた。
「探し物の本なら、そこにあるでしょ!? 早く持って行くといいわ!」
理佳は二階の窓に向かって大声を出した。早智子の目的は本の回収のはず。それさえ遂げられれば、凶行に走ることもなくなるかも知れない、と思って。
二階からは何の反応も返って来なかった。
しばらくすると、パトカーのサイレンが近づいて来た。おそらく、早智子を乗せて来たタクシーの運転手か、この騒ぎに気づいた近所の住人が通報してくれたのだろう。
理佳はホッとすると同時に、全身から力が抜けた。
「大丈夫ですか?」
拳銃を手にした神戸が駆け寄ってきた。早智子と揉み合ったときに傷ついたらしく、右胸の辺りから出血している。それでもさすがは刑事、市民を守る義務を怠ってはいなかった。
左手に切り傷を負い、右足首を捻挫したが、どうやら他にケガはなさそうだ。理佳はうなずいて、弱々しく微笑む。すると神戸の表情も安堵に和らいだ。
それから一分も経たないうちに駆けつけたパトカーが到着。倒れた杉浦刑事を目撃した制服警官たちにサッと緊張が走る。自身も負傷している神戸が、それらにテキパキと指示を与えた。
理佳はその様子を眺めながら、今度こそ本当に助かったと安心し、以後の意識を失ってしまった……。
それから三日後。
前代未聞の凶行に及んだ南早智子の姿は忽然と消えてしまった。神戸からの銃撃を受けた後、一階の勝手口から逃亡したらしい。現在、全国指名手配中である。
南早智子に刺された杉浦刑事は一時重体になったが、命だけは取り留めた。
だが、親友の朋美はもう帰って来ない。理佳のボーイフレンドだった由紀夫も、すべての元凶である松村勲も。痛ましいことである。
神戸刑事の傷は見た目ほど大事には至らず、現在、病院にて加療中だ。
奇跡的に右足首の捻挫と手の平の創傷だけで助かった理佳は、心配する母親の懇願により学校は休んでいたものの、比較的、元気であった。今も命の恩人である神戸刑事の見舞いに行こうとしている途中だ。
色々あったが、南早智子が逮捕されるのも時間の問題だろう。思えば心ないいじめから始まった事件だが、そのとばっちりを関係ない者まで受ける謂れはない。すでにいじめの加害者であった松村勲は亡く、早智子の自殺した息子、晋一も戻っては来ないのだから。
ちなみに朋美の部屋からは、早智子と一緒に飛田龍之介の『緋色の夢』も消えていたそうだ。多分、早智子が持ち去ったのだろう。これでもう理佳が狙われることはないはずだ。
それよりも今、理佳にとって最も重要なのは、どうすればもっと神戸と親しくなれるか、であった。
面食いな理佳が見ても、神戸は合格点だった。しかも命がけで自分を守ってくれた《騎士》である。不謹慎かも知れないが、これを機に親しい関係を築いておきたいと考えていた。どうやら特定の交際相手はいないようだし、ここは毎日でも病院へ見舞いに押し掛け、ポイントを稼いでおくべきだろう。
お見舞い用に持って行く花をフラワー・ショップで選んでいると、理佳のスマホに着信があった。クラスメイトの石田陽子からだ。
「もしもし?」
『あっ、理佳!? 今、大丈夫?』
「うん、大丈夫だよ」
同じく親友の朋美が死んでしまい、陽子の様子も心配だったのだが、割と明るい声だったので理佳は安心した。
『今、古本屋にいるんだけどさ、凄い本、見つけちゃった!』
陽子の声は興奮に弾んでいた。
「凄い本?」
理佳も調子を合わせながら尋ねる。
『ビックリするわよ! 何たって、飛田龍之介の『夢と記憶と未来とボクと』なんだから!』
その本のタイトルは理佳も知っていた。『緋色の夢』同様、飛田龍之介の初期の作品で、やはり現在は絶版になっている。確か文庫化はされていないはずで、ハード・カバーが現存するだけだ。
当然、理佳は未読であり、前々から読みたいと思っていた一冊だ。
「え~っ、いいなぁ~、私も読みた~い!」
理佳は鼻にかかったような声を出した。
『えっへっへ! 私、買っちゃおーっと!』
陽子は自慢げだった。
「私にも貸してよ~!」
『どっしよっかなぁ~』
もったいぶったような陽子の声。それが急に「あれっ?」という怪訝そうなトーンに変わる。
『ヤダッ! この本、持ち主の名前が書いてあったみたい!』
陽子の言葉に、理佳は背筋が寒くなるような嫌な予感を覚えた。
「なっ……何て書いてあるの?」
ついつい緊張した口調で理佳は尋ねてみる。
『一応、消しゴムで消してはあるんだけど……ミナミ……えーと、シンイチ……かな?』
「――ッ!」
ミ ナ ミ シ ン イ チ
理佳は心臓が止まりそうになった。
――元の所有者は、あの南晋一!!!
驚いた理佳の手からスマホが滑り落ちそうになる。
『ん? どうしたの、理佳?』
「よ、陽子……落ち着いて……その場を動かないで……!」
『何それ? 新しいギャグ?』
何処となく既視感のあるやり取り。
「バカッ! と、とにかく、すぐに私が行くから、そこで待ってて!」
『えっ、こっちへ来るの? まあ、別にいいけど……』
「で、何処の古本屋?」
『Y駅の前の……』
「あそこね! 分かった……絶対に動かないでよ、陽子! 絶対にだからね!」
理佳は通話を切るなり、捻挫した右脚がまだ痛むのも構わず、陽子が言っていた古本屋へと急いだ。
息子の持ち物であった飛田龍之介の本を、南早智子がまだ見つけていないことを祈りながら……。




