上
公園のベンチに座って、一人バス停を眺めていた。
バスは嫌いだ。後ろの乗車口は大きな口みたいで、たくさんの人を呑み込んで行ってしまうから。
僕の大切な人も呑み込まれた。それは今から三週間前のことだった。
僕には好きな人がいた。
同じ中学二年生の倉橋詩織さん。彼女を好きになったのは一年生の春だった。
放課後、帰り道の途中の公園で彼女を見つけた。なにやら猫のお世話をしているようだった。
入学したてな上に女子と話すのが得意でない僕は、公園の入り口でただその様子を見ていた。
いや、どちらかというと猫を見ていた。無類の猫好きだと自負しているからだ。
すると、そのうち彼女がこちらに気づき、
「あ、えっと…笠木君?」
と声を掛けてきた。正直、同じ小学校の人以外にに名前を覚えられてないと思っていたので驚いたが、名前を呼ばれたからには行かない訳にはいかなかった。
「倉橋さんだよね。何してるの?」
「見ての通り猫の世話だよ。この子捨て猫でね、家に連れて帰るとお母さんが怒るからこの公園でお世話してるの。うちのお母さん、世間体を気にし過ぎる人でね、ご近所から文句言われたりしたら嫌だからなるべくそういうことは避けてるの」
世間体という言葉は小学校を卒業したばかりの僕にはイマイチわからなかったが、大体の内容はつかめた。
「雨の中ずっと震えててね、ちょっと見捨てられなかったんだ」
「優しいんだね」
そんなことないよ、と照れながら彼女が笑った。今まで見た中で一番明るい笑顔の持ち主だった。
その後、猫を撫でてから少し話して帰った。僕にしては良く話せた方だった。
それからは会う度言葉を交わす程度の仲になった。そのなかで触れた彼女の優しさに僕は惹かれていったんだ。
二年に進級して、学校にも随分慣れてきたある日のことだった。
僕がいつも通り学校に行くと、クラスの中はざわめき、人だかりができていた。
何事かと背伸びをして見てみると、その中心には倉橋さんと先生がいた。そして倉橋さんの机の中からは茶色い毛に覆われた棒状の物が見えた。
それが動物の尻尾であることに気づくと急に怖くなった。
近くにいた人に何があったのか尋ねると、
「なんか、倉橋さんの机の中に猫の死骸が入ってたらしいよ」
と答えてくれた。ある程度予想していた答えだったが、動物の正体が猫というところに傷ついた。
猫、いや、猫だったものは先生が処分し、机は別の物に変えられて一旦事は静まった。
昼休みになると緊急集会が開かれ、その後倉橋さんは多くの人から質問責めにあった。その間、ずっと彼女は泣きそうな顔をしていた。
放課後になって一番乗りで話しかけようとすると、彼女はそれよりも早く教室を出て行ってしまった。一瞬、追いかけようか迷ってとりあえず廊下に出てみると、もう彼女の姿は見当たらなかった。
家に帰りながらずっと倉橋さんのことを考えていた。
何よりもわからないのは、あんなことをされたのが何故彼女なのかだ。
優しくて人当たりが良く、女子からも好かれている。真面目で先生からの信用もある。その上、学年では上位十位以内に入るくらいの美貌の持ち主なので男子からも人気がある。友達もちゃんといるし、学校では常に一緒にいるくらいの親友もいる。およそ、嫌われる理由が見つからないのだ。
そうなると無差別の嫌がらせか、嫉妬ぐらいしか…。
あ、嫉妬か。自分で言ったことに対して、二秒遅れで気づいた。
なるほど嫉妬なら動機になりうる、と言ってもあんなことをしていい理由にはならないけど。
自分の中で嫉妬が理由だと決め付け、考えごとを続けながら歩いていると、いつの間にか公園にたどり着いていた。自然と彼女を求めて来てしまったのか。
公園の中を覗くといつもの場所で彼女が猫の世話をしていた。いつもと違うのはその目から涙が流れていたところだ。
「倉橋さん」
近づいて声をかけた。彼女は振り向いてはくれずに猫を撫でていた。
「今日は大変だったよね。…ちょっと話さない?」
そう言ってベンチに腰掛けた。彼女は少しこちらを見た後、猫を抱えて僕の横に座った。
「こんな時何て言えばいいのかわからないからさ、僕なりにできる事を考えたんだ。で、犯人を探してみようと思う。倉橋さんの場合なら無差別にやったか、嫉妬してやったかのどちらかだと思うんだ。だから僕が放課後に教室を見…」
「やめて」
僕の言葉を遮るように彼女が言った。
「犯人探しなんてしてもあの猫は返ってこないよ。それに犯人が見つかっても私、どうしようもできない。ただ悲しくなるだけ」
「そんな…」
彼女の為に唯一できることだと考えていたことを否定され、不覚にも感情的になってしまう。
「でもこのまま泣き寝入りしてちゃ、また何されるかわからないよ。犯人が図に乗ってまた同じことをされるかもしれないしさ」
「だからって犯人を見つけて、私はどうすればいいの!?怒るの?謝らせるの?許すことができるの?」
初めて彼女が声を荒げるところをみた。
「怖いよ…」
彼女はうなだれてしまった。
僕はどうすればいいのかわからなくなって、二人の間には重い沈黙が流れた。
なんて声をかければいい?大丈夫だよとか無責任なことは言えない。気の利いたことが言えない自分が歯がゆい。
そうやってしばらくの間流れていた沈黙を破ったのはバスの音だった。ベンチから見えるバス停に一台のバスが停まって、乗車口が開く音に二人とも顔を上げた。
バスに乗り降りする人たちを眺めていると、意外なことに彼女が口を開いた。
「私ね、バスが嫌いなの。小さい頃、お父さんが出張に行く時にバスに乗って行くことになったからお母さんと一緒にお見送りに行ったの。その時の私には乗車口がとても大きな口に見えて怖かった。そしてお父さんを乗せたバスは出発して一時間後くらいに交通事故を起こして、乗ってた人はみんな死んじゃった。それ以来、バスはその口で大切な人を呑み込んで、もう会えないような場所に連れて行ってしまうように思えて怖いんだ」
僕は絶句した。想像を絶する話が飛び出してきて、頭の中が混乱した。
「ごめんね、急にこんな話して。なんかバスを見たらつい言っちゃって。なんでだろ、ストレス溜まってるのかな。話聞いてもらうとストレス解消になるっていうでしょ、初めて人に話したことだったから、多分そのためかな」
「いや、そんな、その…」
やっぱり言葉が出なかった。何か慰めるようなことを言いたいのに。
すると、彼女がベンチを立った。
「ほんとごめんね、心配かけちゃったみたいで。大丈夫、明日からも普通に学校行けるから。じゃあね」
そう言って彼女は走り去ってしまった。残された僕は一人ポツンとベンチに座っていた。
余計なお世話ってものはこの世にはないと思っていた。誰かに助けてもらって嫌になる人なんているわけないじゃないか。最終的にはみんな笑顔になるはずだ。
そういうわけで、倉橋さんに断られたにもかかわらず、翌日から犯人探しをすることにした。とりあえず犯人を見つけて謝らせる、それで充分だ。
目撃証言を集めるとか探偵ごっこのように思われそうなことはしたくなかったので、僕は密かに見張りを行うことにした。
僕の学校には自習室というのがあって、教室棟の反対の校舎の一室に三十の椅子と机が並べられている。その中の窓際の席からは僕たちの教室が見える。そこで自習するふりをしながら教室を見張った。
もう一度犯人は現れるという根拠のない自信があった。その自信が起こす出来事を、この時の僕は考えもしてなかった。
見張り開始から二週間が過ぎようとしていたある日、ついにその時がやってきてしまった。
自習室のいつもの席に座り、見張るのにも少し疲れてうとうとしていた時だった。生徒がいなくなって別の場所のようになった教室の前に人影が見えた。
目を覚ましてよく見ると女子生徒であることがわかった。こんな時間に何か用事があるのか?もしかしたらこの人が…。
急いで自習室を出て教室へ向かった。入り口のドアに隠れて様子を伺おうとすると、中から机が揺れる音が聴こえた。机の脚の高さが合ってないことで生じる、ガタゴトというあの音だ。
意を決して中を覗く。教室の中は薄暗かった。
倉橋さんの机の所で何かをしている者がいる。字を書いてるようだ。
ついに犯人を見つけた!校則違反になるのでバレたら没収されるスマホを躊躇なく構えた。
「おいっ、何してる!」
犯人が驚いてこちらを振り返った瞬間を逃さずカメラのシャッターを押す。
やった、決定的証拠を抑えたぞ。
写真を確認して驚いて実物の方を見る。そこにあったのは倉橋さんといつも一緒にいる親友、岡本比奈子の姿だった。
「なんで君が…」
彼女の方へ近づく。倉橋さんの机をみると赤いペンでめちゃくちゃな暴言が書かれていた。
「笠木くん…何で…」
それはこっちのセリフだ。僕には羨ましいくらいの仲の良さに見えてたのに。そんな人がなぜこんなことを。
「この前のも君がやったのか?」
彼女は俯いて黙ったままだった。動揺してるせいか、目が揺れている。
「答えろよ!」
「うっ」
体をビクッとさせて彼女は喋り出した。
「だ、だっていつも詩織ちゃんと比べられて、親には怒られるし友達にはばかにされるし…それなのに詩織ちゃんは優しく慰めてくれるんだよ。誰のせいかなんて考えてない、そんなことされても余計差が開くってことをわかってないんだよ」
彼女の目から涙が溢れ出した。
「だからってあんなことするなんて、友達じゃないのかよ!」
そう言うと、とうとう本格的に泣き始めてしまった。それを見ると少しかわいそうに思ってしまったが、僕は情には流されなかった。
「この写真を倉橋さんに送る。僕からは先生には言わないから、どうするかは倉橋さんに決めてもらう」
「それだけはやめて!」
制止しようとする彼女の手を払いのけ写真を倉橋さんに送った。犯人見つけたよ どうする?というメッセージを添えて。
「ああ…」
岡本さんはその場に座り込んでしまった。涙で制服の袖がぐしょぐしょになっていた。
机をそのままにしておくわけにはいかないので、雑巾で拭いてみると字は消えた。水性ペンで書かれていたのは不幸中の幸いだった。
その作業が終わると、ずっと座り込んで泣いていた彼女に向かって、
「君が悪いんだからな」
と言って教室を出て行った。その後の帰り道の途中で僕も少し泣いてしまった。
翌日、学校に着いて倉橋さんの元に行くと、こちらが話し出す前に「ごめん」と言って逃げられてしまった。彼女の気持ちを考えると仕方ないことなのかもしれないけど、好きな子にそれをされるのは辛かった。
それでもこの事件に関する事が全部終わってしまえば、また元どおりの関係に戻れると信じていた。
そんなことを思っていた最中の終礼の時のことだった。
昼休み中姿が見えなかった彼女が、みんなに話があると言って教壇の横に出てきた。
彼女は一度深呼吸をして口を開いた。
「この前の事件、机の中に猫を入れたのは私なんです」
…は?何を言ってるんだ、君は。犯人は岡本さんだったじゃないか。僕が昨日突き止めたじゃないか。
僕はポカンと口を開けていた。目は彼女という一点を見つめていた。
「ちょっと注目されたくて、それであんなことを…すいませんでした!」
そう言って深々と頭を下げた。教室中がざわめき出す。
「はい、静かに。この前のことは今、倉橋が言った通りだ。でも自分から言いに来て、今では心から反省してるようだから、みんなどうか責めないでやってくれ」
一瞬静まって、先生の事務的な声が教室に響いた。教室内はまたざわめきを取り戻した。
そして終礼が終わると、倉橋さんは一目散に教室を出て行った。
今度は追いかけようとさえできなかった。
〈続く〉