第二十五話 るいさん展示デビュー
「あぁぁぁぁぁ、来てしまった、とうとうこの日が、来てしまったぁぁぁぁ」
私は三番機の周りをグルグルと回りながら呟いた。
「落ち着け浜路。見ているこっちが目が回る」
「習志野の降下訓練と同じだ。思い切って飛んでみたら意外と簡単なもんだからな、力を抜けよ」
「赤羽が言うように、思い切ってジャンプをすればなんてことはない。とにかく落ち着け」
「ところで浜路、昨日の練習につきあった飴玉をまだもらってないんだが」
「そう言えば俺ももらってないな」
「うるさいですよ、二人とも。今日はなにを言っても飴玉はなしです。あああ、あと十分切ったぁああああっ!!」
さっきから念仏のようにあれこれつぶやいている私を、坂東三佐と赤羽曹長は、気の毒そうな顔をしつつも面白がって遠巻きに眺めては声をかけてくる。傍から見れば、きっとウォークダウン前の点検か、呑気にウォーミングアップをしているドルフィンキーパーだと思われているだろう。その点では、表情が見えにくくなる帽子に感謝しなければいけない。
「お、出てきたぞ、ライダー達が。そろそろ覚悟を決めろ、浜路」
その声に顔を上げると、向こうから玉置隊長を先頭にドルフィンライダー達が歩いてくるのが見えた。始まる直前に足元に大きな穴でもあらわれて、地球の裏側まで逃げられたら良いのになんて現実逃避をしていたけれど、もうダメだ、ここまで来たら逃げられない。
それぞれが搭乗する機体の前で立ち止まり、整備員と機体チェックを始めるライダー達。白勢一尉も、坂東三佐に一言二言話しかけてから、機体の鼻先の下をのぞき込むにかがみこむ。そして顔を上げてから、初めて私の様子がいつもと違うのに気がついたようだった。
黙ってこっちにやって来た一尉、それまで浮かべていた口元の笑みが消えている。
「どうしたんだ?」
「……わわ私のことは気にせずきききき機体点検どどどどうぞっ」
もうまともに通じるように話せる気がしないので、身振り手振りで機体を見るようにうながした。
「展示デビュー直前だから気持ちは分からないでもないが、るい、落ち着け」
仕事中、しかも航空祭で衆人の目があると言うのに、白勢一尉が私のことを名前で呼んだ。だけど今の私には、それをとがめてモンキーレンチを持ち出す余裕なんて、一ミクロンもない。
「だ、大丈夫ですよ!! わ、私は十分におおおお、落ち着いてますから!!」
「ぜんぜん大丈夫じゃないだろ、その状態」
一尉はやれやれと首を横に振った。それから私の腕をとると、前に集まっている人達から死角になる三番機の後ろへと引っ張っていく。そして、かけていたサングラスをずらしてこっちをのぞき込んできた。
「初めてのことで緊張するのは分かるが、緊張しすぎだ」
「わわわわ分かってますよっ」
そう、今日は私が初めて、大勢の人の前でエンジンチェックと飛行前点検をドルフィンライダーとする日。つまり私の展示デビューの日だ。昨日から緊張しまくりで、ろくにご飯も喉を通らないし眠れないしで、今日のコンディションは超御機嫌な三番機とは正反対の絶不調。もう最悪の気分だ。
「し、白勢さんこそ、こんなところでおしゃべりしてる場合じゃないでしょっ、そろそろウォークダウン開始の時間ですよっ、さっさと点検しなきゃっっ」
「わかっている。だけどるい、そんな状態じゃ始まっても、まともにプリタクなんてできないだろ?」
せわしなく足踏みしている私の足のことを指摘する。とにかくじっとしていられなくて、ここで走り回るわけにもいかず、さっきからずっとこんな感じで足踏み状態が続いていた。
「だだだだだ大丈夫ですって、い、いっつもやってることだから、始まったらきっとなんでもないですから多分っ、それと仕事中に名前で呼ぶのは禁止って言ったじゃないですかっ」
少しだけ余裕が出てきたので、名前呼びされたことを抗議をした。
「ここでモンキーレンチを手にして、俺を相手に暴れまわるのは得策とは思えないけどな。まさかジュニアとは別の演目でも作るつもりか?」
「私もモンキーレンチも見世物じゃありませんよ! それと、モンキーレンチがなくても殴る手段はいくらでもあるんですからね! 私だって自衛官なんだから!」
一尉と言い合いをして気がまぎれたのか、バクバクする鼓動と気分が少しだけ落ち着いてくる。せわしなく動かしていた足踏みがやっと止まった。
「少しは落ち着いた?」
「……多分」
「緊張しすぎだから、おまじないのキスでもしなくちゃいけないんじゃないかって、心配したよ」
「そんなのしたら余計に引っ繰り返っちゃいますよっ。仕事中なんだからお行儀よくしてください!」
「そっちの展示デビューまではって我慢してあげているのに、まったくひどいよな、俺のドルフィンキーパーは」
妙に「あげてる」を強調してきたのでムッとなる。
「ここにはモンキーレンチはありませんけど、ゲンコツぐらいならありますよ。誠とワルガキ達をさんざんぼこってきた伝説のゲンコツが」
グーにしたこぶしを一尉の前にかざすと、一尉がニヤッと笑った。
「その調子だ。ショー形式とは言えT-4を飛ばすのに大切な手順なんだ。たよりにしているからな、ドルフィンキーパー」
そう言って、私の帽子のつばをつまんでグイッさげる。
「大丈夫です、大切なことっていうのはわかってますから」
「あそこに並んでいるのはカボチャとキャベツ。自衛隊の敷地内で叩き売りをされている、無農薬野菜達だと思えばいいんだよ」
「ひどい。みんな、朝早くからゲート前で並んでいた人達なのに」
「だから少し高級そうに聞こえるように、無農薬野菜にしてみた」
あまりの言い草に、帽子をかぶりなおしながら笑ってしまった。
『会場にお越しの皆様、大変お待たせいたしております。本航空祭での、ブルーインパルスの飛行展示の時間が迫ってまいりました。まずは本日、皆様にショーをお見せするドルフィンライダーを御紹介いたします。一番機は……』
今月から松島基地にやってきた、新しいドルフィンライダー候補の古賀一等空尉の声が会場に流れた。白勢一尉ほどのイケボじゃないけれど、笑顔がとてもチャーミングなので、展示デビューをしたらきっともてるだろうなというのが私達の予想だ。
「いよいよだ。ブレーキリリースはOK?」
「……はい、OKです! 始まっちゃうから白勢一尉も急いでください」
大きく深呼吸してうなづくと、坂東三佐と赤羽曹長が立っている場所に向かう。白勢一尉は私がそこに立つのを見届けてから、サングラスをかけなおすと、五人のドルフィンライダーが集合しているところに歩いていった。
音楽が流れ始めいよいよショーが始まった。六人が横一列に並んでこちらに歩いてくる。そして一尉が私達の前に立って敬礼をした。
「……るい、初の展示に向けて Let’s go だ」
一尉がコックピットの横に立つすれちがいざま、小さな声で私にささやいた。
三番機の横で、お客さん達が見守る中、一尉が耐Gスーツを身につける。そして全員がそろったところで、コックピットに乗り込んだ。
コックピットの安全チェックが完了して、一尉が帽子とサングラスをはずしヘルメットをかぶると、曹長によってタラップがはずされる。
右のエンジンに灯が入り、いつもの聞き慣れた高い音を上げながらエンジンが動き出した。今日も三番機は御機嫌だ、それだけは間違いない。一尉がいつものように、コンソールでエンジンの回転数を確認しながらにハンドサインで回転数を知らせてくるので、私もそれに合わせて再確認のハンドサインを一尉に送り返す。
そして次は左のエンジン。こちらも順調に回転数を上げていく。
すでにバイザーをおろしているから、どんな顔をしているのかは分からないけど、ダブルチェックをする間も、一尉が私のことをしっかりと見つめているのが感じられた。前にハンガーで向かい合って練習をしていた時は、目が合うだけで転げまわるぐらい恥ずかしかったのに、今は一尉にじっと見られているほうが落ち着いた気分になるんだから不思議だ。
それでも早く飛行前点検が終わってほしくて口元をムニュムニュさせていると、なぜか一尉が口元をゆがめるのが見えた。もしかしてあれって私のことを笑ってる? そう思ったらちょっとムカついたので、お客さんに見えないのをいいことに口をへの字に曲げてみせた。
エンジンの回転数が規定値に達して安定すると、外部電源のケーブルをはずせという指示が送られてくる。それに私が応えると、坂東三佐が電源のケーブルを抜き、ケーブルと機体をつなぐ部分のカバーを閉じてロックを確認してからこちらにOKサインを送ってきた。
エンジンチェックの後は、私の指示でスピードブレーキ、フラップなどすべての計器類を動かして、正常に反応するかの飛行前点検をしていく。もちろん、コックピットの計器類に関しては私はのぞくことができないので、それは一尉の役目だ。当然のことながらすべて異常なし。
六機すべての飛行前点検が終了し、全機が異常なく離陸できることが確認されると、玉置隊長の指示で機体下のランディングライトが点き、車輪止めがはずされた。そしてキャノピーが閉じられる。
さあ、いよいよ滑走路に出てテイクオフ、ショーの始まりだ。ここからはいつものように彼等が主役で、私達ドルフィンキーパーはイルカ達を黙って送り出すだけ。
一列に滑走路に向かいながら、手を振るお客さん達に対してコックピットの中から応えるドルフィンライダー達。チラッと白勢一尉がこっちを見たように思えたのは、きっと気のせいに違いない。