番外編〜ふわふわ王子と綿菓子姫 第3話〜
先輩と映画に行った翌週、私は法学部の友人と会う約束をしていた。法学部棟は文学部棟からだと少し離れていて、2つの棟の間に理学部棟と外国語学部棟がある。
買ったばかりの黒のピンヒールをカツカツと鳴らして、私は法学部棟への道を歩いていた。デニムジャケットに白いニット、ミルクティ色のタイトスカートというカジュアルな格好だが、秋色を取り入れて落ち着いたコーデになっている。
外国語学部棟を越えた辺りで、私は楽しそうな男女の声が聞こえた気がした。夕方になると一気に人影がなくなるのに珍しい。足を止めてさりげなく周りを見回してみたが、それらしき姿は見つからない。
「気のせいか…」
昨日は遅くまでレポートを仕上げていて寝不足だから、幻聴だったのかもしれない。ふぅと息を吐き、また歩き出す。
そういえば、さっきの幻聴…先輩の声に似てたな。
先輩恋しさにとうとう聞こえもしない声を脳内で作り出してしまったのだろうか。自分の思考がどれだけ先輩のために使われているのかと思うと、我が事ながら滑稽に感じてしまう。
「やっぱり、早く帰ろ」
こんな日は家に帰ってすぐに寝るにかぎる。
そう考えながら曲がり角を曲がった時、私は目の前の光景に言葉を失った。
「先輩…」
掠れた声が風に流されていく。
理学部棟の脇の道、ここからは10メートル以上遠くに先輩と満里子が見えた。二人は和やかに話をしていて、時折顔を見ては微笑んでいる。私にはそれが、恋人同士の仕草にしか見えなかった。
呆然とする私を嘲笑うように、先輩が満里子の髪を撫で、顔を彼女の頬に近づける。私はぎゅっと目を瞑り、その光景をシャットアウトした。
キス…した。
それが何よりの答えだった。
辿り着いた結論に、全身の血が凍りついていく。
先輩は満里子の隣に立っても遜色がない。細身でスラリとした先輩と華奢な満里子が並ぶと、一枚の絵のように美しい。お似合い、だと思う。
本当に、お似合いだ。
涙が、頬を伝っていく。
私は二人に声をかけることもできずに、来た道を引き返して走った。ピンヒールは不安定で走るには適していないけれど、そうせずにはいられなかった。
私はもう、先輩の隣に立つことはできない。
いつか訪れる未来だと理解しているつもりだった。それでも大丈夫だと、思っていた。
でも違った。
文学部棟へ向かう小道(あまり人の通らない抜け道)で私は足を捕られてその場に転んだ。コンクリートに勢いよく膝をついたせいで膝から血が滲み出す。焼けるような痛みが、膝に集まる。それを触媒として、胸の奥から何かが突き上げてきた。
「大丈夫、じゃない…」
私はその場にへたりこんだまま、両手で顔を覆った。
「うぅっ…大丈夫、じゃ…ないよ…」
胸が痛い。
痛くて痛くて張り裂けそう。
心が、血を流している。
失恋がこんなに辛いだなんて知らなかった。先輩が他の人のものになることがどういうことか、分かってなかった。
大好きで、失いたくなくて。
いつもは欲しいものを我慢して、大切なものを譲っても笑顔を作れた。けれど、先輩だけは無理だ。笑顔なんか、作れるわけない。
「好きだったの…っ!」
悲痛な叫びが喉から飛び出す。暗くなってきた空の下、なかなか来ない私を心配して探してくれた法学部の友人が見つけるまで、私はその場で泣き続けていた。
失恋した日から4日間、私は下宿先のアパートに閉じ籠っていた。授業やバイトはあったけれど、泣き腫らした顔で出かけることなんてできない。幸い、2日間は瑞希や満里子と同じ講義は無かったから、体調不良だと多江に伝え代返を頼んで大学は休んだ。残り2日は休日で大学に行く必要はない。バイトもシフトを交代してもらったから、今週は出なくてよいことになっている。
膝を抱えてベッドで丸まり、ぼんやりと壁を眺めて、何をするでもなく時間をやり過ごしていく。
何もやる気が起きない。どうしようもない喪失感と時折襲ってくる衝動に身を任せては泣き、そしてまたぼんやりとする。無為な時間に揺られて、私は目を閉じた。
今はまだ、何も考えたくない。
目の前の現実から目を背けて、幸せな夢の中で漂っていたい。
そう思っているのに微睡んで見た夢は先輩と満里子の仲睦まじい姿で、やっぱり泣いてしまった。
そんな4日間を過ごすうちに、先輩への想いは胸の奥底に押し込められていき、5日目の朝、ようやく私は部屋から出ることができた。腫れぼったい目は冷やすのと温めるのを交互に行って何とか見られる状態まで戻し、いつもより濃い目にメイクをした。
丸4日、まともにご飯を食べてなかったから、げっそりとしてしまった。仕方なく今日は体型の隠れる白のシフォン素材のガウチョパンツにし、トップスには濃紺のニットにした。髪はフィッシュボーンに編んで一纏めにする。目元を強調しないように今日はコンタクトじゃなく黒縁眼鏡をかけた。
鏡の中の私は若干浮かない表情だけど、それでも泣き暮らしたようには見えない。
「大丈夫」
唇の端を吊り上げ、私は鏡の中の自分に笑いかけた。
スマホにはメッセージやら何やらが溜まっていて、4日間放っておいた分が溢れかえっていた。
「あ…」
スライドさせていた手が止まる。そこには何通も先輩からのメッセージが入っていた。大半は連絡のない私を心配した内容で、気遣う言葉がちりばめられている。
その優しい言葉を読むと、胸がちくんとした。また涙が溢れてきそうになる。
好きだと思っても、報われないよ。
耳元で誰かが囁く。
先輩への気持ちは眠らせるんじゃなかったの。
誰かが鼻を鳴らして笑った。
「大丈夫。いつも通りでいたら良いんだから」
私は滲んだ目元を拭い、差し障りのない返事を返す。
先輩が後輩を心配するのは特別なことじゃないんだから、いちいち動揺しても仕方ない。それに今までが距離が近すぎただけで、これからは先輩後輩として適正な距離を保っていけば何も問題はないだろう。
特別になりたかったから、先輩の私に対する言動に特別を求めてただけ。
勘違いしちゃ、ダメ。
私はただの後輩なんだから。
心の中で何度も繰り返し、刻み付ける。
先輩と満里子が恋人同士なら、私は二人の幸せを願おう。二人のためにできることをしよう。
そう思うと先輩への想いが少しだけ報われるような気がした。
失恋してから数日間、全てのことをサボっていた私は気合いを入れ直して就活に取り組んでいる。
求人倍率がドン底だった数年前よりも今は安定していて、比較的就活はしやすい。けれど、大手企業が人気なのは当たり前のことで、就職したい企業から内定がもらえるかはまた別の話だ。
私が希望するのは外資系企業。父が世界中を飛び回っているのを見てきたから、私も同じように世界を見てみたいと憧れている。幸いに日本語、英語、あとは片言だがフランス語(幼少時、数年フランスにいた)を話せるから、それは他の人よりも有利だと思う。まだ内定はもらえてないけど、手応えはあるのだ。
ふと自分の姿を眺めた。黒いスーツは大学に入ったことを期に購入したものである。
就活を始めた頃は着慣れなかったリクルートスーツも、今や立派な私の戦闘服となり、これを着ているだけで背筋がピンと伸びる。嫌なことや辛いことがあっても、割り切っていられた。
スマホで面接の日程を確認しながら、パックの野菜ジュースを飲む。電車を待つためにベンチに座る時間はゆっくりするのではなく、この後の行動の予定を立てたり面接で話す内容を考えたりするために使う。大学の講義やバイトなどと並行するには、一つにのんびり向き合っている暇はない。
「えぇっと…次の電車に乗ったら3つ目の駅で降りて、と」
面接の時間に合った電車の時刻を確認し、間違っていないか見直していると、メッセージが入ったという通達が画面に表示される。
何で、今なの…。
画面には先輩の名前。
私はため息をついてメッセージを見た。
『おはよう、友里亜。最近連絡無いけど、忙しいのか?』
いつもと変わらない気安い言葉が胸を刺す。
そっか…変わらないんだよね。
何も、変わらない。
変わったのは私の心だけ。
それを突きつけられた気がして、私は目の前が暗くなった。
『おはようございます。今日も就活です。しばらく忙しいと思います。先輩もお体には気をつけて。では』
無難な返事を送り、私はホームに滑り込んできた電車に乗った。すぐに先輩から返信が届いたが、それには無視をして面接のことに集中する。今は先輩や満里子のことに気を取られたくない。
電車の窓に映る私は泣きそうな顔をしている。唇の端を吊り上げて無理矢理笑顔を作ると、一筋涙が頬を伝った。
先輩からの連絡はそれからも届いていたが、私は忙しいの一点張りで押し通した。
『バイトのシフトが詰まっているから』
『就活で出ている』
『レポートに追われてる』
など、言い訳を捻り出しては先輩と話をするのを避けた。先輩から満里子とのことを聞くのが怖かったし、そのことでまた傷つくのは嫌だったからだ。
連絡がピタリと止まれば、きっと私は辛くなる。けれども先輩の隣に平然と立つ方がもっと辛い。
ぼんやりと講義を受けていると隣から声がした。
「友里亜、元気ないね」
横目で見れば、多江がこちらをじっと見ていた。何を考えているか分からない静かな目が、私をただ映している。
「そんなことないよ」
私はその揺るがない視線から逃げるように前方のスクリーンに目を戻した。スクリーンには講義の資料が映し出されており、教授が説明を加えていた。
ノートに内容を書き込んでいくが、隣からは尚も多江の視線が注がれているのを感じる。
「友里亜はいつもそうだよね」
ポツリと落とされた言葉に手が止まる。
「うまく隠せてるつもりだろうけど、心ここに在らずって顔してる」
「そんな、ことは」
「大丈夫じゃないくせに。今にも泣きそうだよ」
俯いて手元に目線を落とすと、多江が小さくため息を吐くのが分かった。
「理学部の土橋先輩から伝言。この講義の後、友里亜に会いに行くから、だって。わざわざそれを伝えに昨日、文学部の講義に顔を出してたよ、先輩。…メールやLINEじゃ埒が空かないからって」
え…?
ハッと顔を上げると、少しだけ困ったような笑顔が目に入った。
「友里亜。私は友里亜の事情は知らないけど…相手に伝えなきゃ分からないことってたくさんあるんだよ。頑なになって我が儘も言わずにお利口さんでいなくたっていいと思う」
「多江、」
「私も友里亜と同じことした経験があるから。それで大切なものを失いかけた」
私は講義の最中だということも忘れて、彼女を穴が開くほど見つめた。多江は切れ長の目を細めて、小さく顎をしゃくった。
「…貴女の王子様は堪え性がないみたい」
多江の視線を辿り、私は目を見開いた。
「先輩…何で」
少し離れた斜め前の席に、先輩は座ってスクリーンを気怠げに見つめていた。
先輩には関係ない講義を受けている事実に思考が止まる。
「お姫様の奪還、かな?」
クスクス笑う多江に、私は今度こそ完全に停止してしまったのだった。