番外編〜ふわふわ王子と綿菓子姫 第2話〜
土橋先輩は大学4年だから、卒研発表のレポート制作に追われているらしい。時々送られてくるメッセージには
『眠い、死にそう』
『今日も研究室に泊まり込み』
『実験失敗した。また帰れん』
などと、何を求めているか分からない近況報告が書かれていて、私は毎回返答に困る。仕方ないので先輩の体を心配し労る言葉を返すのだが、そんなありきたりの言葉が欲しいのだろうか。…尤も、ただの後輩である私にそれ以上のことを送る権利は無いから、悩んだ所で詮無いことなのだが。
それでも、他愛のないやりとりに私の心は温かくなる。就活の合間に気の抜けた会話をしていると気持ちが楽になって、また頑張ろうと思えた。
やっぱり、先輩が好き。
そんなことを何回考えたのだろう。先輩の笑顔が脳裏を過るだけで、体の奥からじわじわと切なさが込み上げてくる。
最近は先輩に全然会ってない。
会いたい。
先輩の傍にいたい。
どうしようもない淋しさに胸がきゅっと締め付けられて、私は目を閉じる。
「大丈夫」
私は大丈夫。
魔法の呪文は、そんな私をそっと包むように慰めてくれた。
その日は本当に偶然だった。私は講義の関係で満里子と一緒にいた。相変わらずの美貌を飾ることなく晒す彼女は、のほほんと笑って最近読んだ本について話している。私は読んだことがないので共感できないが、満里子が嬉しそうに笑うので相づちを打ち、その話に耳を傾けた。
そんな時だ、スマホが鳴ったのは。
「ごめん、満里子。電話出ていい?」
「うん」
「ありがと」
画面を見れば先輩の名前が表示されている。
「もしもし」
『あ、友里亜。久しぶり、今大丈夫?』
少し気怠げな声。久々に聞いた先輩の声に、胸がじんとする。
「大丈夫ですよ」
『うん、卒研の目処が立ってきたから一息ついた所。…今から会えない?』
その言葉に私は思わず満里子の顔を見た。突然のことに満里子はきょとんとしている。
私は彼女に首を横に振って微笑むと、こくりと喉を鳴らした。
「え?あ、はい。…良いですよ、満里子もいるし」
『え…?』
戸惑った様子の先輩。
それは、何に対する戸惑い?
下腹に何か重いものがズドンと落ちる。
「先輩のご希望通り、紹介しますから。学生課の前にいてください」
『……………うん。わかった』
先輩から返ってきたのは喜びでも何でもなく、ひどく静かな答えだった。
「先輩?」
『あ、いや。じゃあ今から行くから』
「はい」
電話を切ると私はスマホの画面を見つめる。
「友里亜、何だったの」
「あ、今から先輩に会うんだけど…満里子も来てくれる?」
「それは良いけど…友里亜、顔色悪いよ」
心配そうに覗き込んでくる一対の真っ直ぐな目。私は直視できずにさりげなく視線を外すと、明るく笑ってみせた。
「大丈夫。行こ」
「う、うん」
吃りながら返事をした満里子を急かして、私は学生課に向かう。
大丈夫。
最初から先輩は私のものなんかじゃなかったんだから。
欲しくはないんだから。
甘くて切ない長い夢から、やっと目覚めるだけ。
だから、大丈夫。
体がバラバラになってしまいそうな自分を叱咤しながら、私は空を見上げた。澱んだ青色には雲が広がっている。
雨が降ったら、泣いたって誰にも気づかれないから。
大丈夫。ちゃんとうまくやれるよ。
私は何度も心の中で「大丈夫」を繰り返していた。
学生課に着くと先輩は既にその場にいて、ぼんやりとインフォメーションを眺めていた。元々細身な人だけど以前よりかなり痩せていて、横顔だけでも頬が痩けてるのが分かる。服はまともな物を着ているみたいだけど、髪の毛はフワフワというより鳥の巣状態になっていた。
「土橋先輩」
声をかけると、弾かれたように顔を上げた先輩が振り返り、そしてフワリといつもの甘くて優しい笑みを浮かべた。
「友里亜、久しぶり」
「お久しぶりです。…先輩、痩せましたね」
見ていて痛々しいくらい、痩せた。眉をしかめた私に、先輩は困ったように頬を掻いた。
「研究が忙しくてさ。寝食を惜しんだ結果がこれ」
悪戯が見つかった子供みたいな申告に、思わず頬が弛む。
「もう…自分の体を大事にしてください。
…で、先輩。この子が岡部満里子。満里子、この人は理学部4年の土橋薫先輩だよ」
「あ、え…岡部満里子です」
挙動不審だが、辿々しく満里子が頭を下げる。何で紹介されたのか分からないけど、とりあえず自己紹介をしたという感じだ。
先輩はどんな顔で彼女を見ているんだろう。さりげなく見上げて、私は言葉を失った。
何で、そんな顔するの?
あれだけ絶賛した相手が目の前にいるのに、先輩は見惚れるでもなく笑顔になるでもなく無表情に満里子を見ていた。それは満里子の美貌に目が眩んで、頭が真っ白になっているということなのだろうか。
私と初めて出会った時、そんな表情見せなかったじゃない。
やっぱり、先輩も満里子が良いの?
「…土橋です。よろしく」
数拍の後、先輩は柔らかく微笑んだ。女の子たちが魅了される、蜂蜜みたいな笑顔。
満里子はぎこちなく、お願いします、ともう一度頭を下げた。
「じゃあ…」
何かを言いかけた先輩の声を遮り、満里子はあわあわと言葉を紡ぐ。そしてその言葉に、私は目を丸くした。
「あの、私…お邪魔だよね?友里亜、彼氏さんとのデートに私は要らないと思うし」
彼氏…?誰が、誰の。
反射的に先輩に目を向ければ、先輩も驚きの表情を隠しもせずに満里子の顔を穴が空きそうなほど凝視していた。
私たちの反応に、さすがの満里子も何か感じるものがあったらしい。二人の顔を見比べ、焦ったように手をパタパタさせた。
「え?私、変なこと言った?ご、ごめん…っ!」
「…別にいいよ。私たち付き合ってないのに恋人同士に見えるんだなって驚いただけだから」
苦笑してみせれば、満里子の強張った顔から力が抜ける。
「そうなんだ。私、てっきり恋人同士だと思って。だって二人とも雰囲気似てるし、外見もぴったりだから」
その場を取り繕うための言葉が、私に突き刺さる。
それでも、先輩が私に振り向くことなんかないのに。
先輩が欲しがっているのは貴女なの。
私はただの後輩なんだから。
「何せ、理学部の王子様と綿菓子姫だからね。同族だから似ているように見えるだけよ」
物語では王子様の隣はお姫様がセオリーでしょう?
そうおどけると、満里子がクスクス笑った。
「そうだね。でも本当に雰囲気似てて驚いたんだよ?」
「…だそうですよ、先輩」
「まぁ友里亜は大切にしてる後輩だから。似てきて当然だよな」
後輩、ね。
笑顔を貼り付けたまま、私は先輩の言葉の意図を考える。わざわざ後輩だと強調した理由は、間違いなく満里子に誤解されたくないから。
それだけ、満里子を気に入ったってこと、なんだろうな。
「ところで岡部さん、今から時間ある?俺たちと一緒に喫茶店でも行かない?」
軽い調子で先輩が満里子を誘っている。
「今からバイトなんです。ごめんなさい」
満里子は申し訳なさそうに眉を下げ、先輩のお誘いにはっきりと断りを入れた。
…さっき、今日はバイトが休みなんだ〜って言ってたくせに。
満里子を見れば、いたずらっ子の顔でニコニコしてる。
「そっか、じゃあまた今度ね」
さして残念そうにも聞こえない声色に、彼女は頷いた。
「はい、ぜひ。じゃあまたね、友里亜」
「うん、わざわざごめんね」
白々しく挨拶をするとクルリと背を向ける満里子。
「…さらりと交わされちゃったなぁ」
「とりあえず紹介はしたから、後はお好きにどうぞ」
「興味ありませんって言われて手を出すほど時間は無いんだよな。…それにしても嘘の下手な子だね。目が泳いでたよ。バイトなんて言ったけど、どうせ俺たちに気を遣っただけだろ?」
そう冷静に分析した先輩は小さく笑う。その顔は楽しそうで、新しいオモチャを見つけた子供みたいだ。
「…余計なお節介。あ〜あ、あんな天然ちゃんに気を遣われるなんて、世も末だわ。ごめんなさい、先輩。もう少しシチュエーション考えれば良かった」
「良いよ。そもそもそこまで期待してなかったから。…そんなことより、」
謝る私に、先輩はフワリと優しく笑う。
「俺の鈍感なお姫様の可愛い顔が見れたからいい」
「へ…ぇ?」
「いい加減気づいてくれないかな〜と思うけど、まぁそれも一興だし」
先輩はニコニコしながら意味の分からないことを言うと、私の背中を押して歩き出した。
「せ、先輩?」
戸惑って見上げれば、ん?と鼻にかかる声が降ってくる。
「さっきの、どういう」
私の問いかけを遮り、先輩は鼻歌混じりにこちらを見下ろした。
「友里亜は気にしなくていい。それより映画に付き合って。今、観たいのがあるんだ」
いつも通りの口調。いつの間にか先輩のペースに飲まれて、沸き上がった疑問を横に押しやってしまった。
お姫様って、満里子のこと?
聞きそびれたことに後で気づいたが今さら聞けなくて。
今思えば、あの時聞いておけばこんなことにはならなかったのに、と後悔するのはそう遠くはない未来の話である。