第六話
佐々木さんの強面の顔や威圧感のある体格は恐怖を掻き立てるはずなのに、怖いなんて思ったことは一度もない。素敵だと思うし、色んな表情を隣で見ていたいと思う。対峙する今だって、心臓はバクバク脈打っているけれども、それは佐々木さんの言葉を待つ緊張からだ。
やっぱり、私にとっても佐々木さんが特別だ。
他の人じゃダメ。佐々木さんが良い。
「岡部さん、あの日…俺の心の弱さから貴女を傷つけてしまった。本当に申し訳ない。
俺はこんな外見だし、岡部さんの隣に立つのに相応しくないと思う。けれど、岡部さんを好きだと思う気持ちはもう止められない」
そこで佐々木さんは一度深呼吸をした。そして、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「俺は、貴女が誰よりも好きだ。真っ直ぐな目も笑顔も心も、すべてが好きだ。俺は貴女の隣に立つ権利が欲しい。
貴女を俺の全てで守る。もう、こんな下らないコンプレックスで貴女を傷つけたりしない。だから、俺の手を取ってほしい。
俺と、付き合ってください」
武骨で真っ直ぐな想い。私は返事もできずに、滲んでいく佐々木さんを目に映していた。
息が、できない。
心臓が、止まりそう。
気づけば私の頬には涙が伝っていた。それは次から次へと溢れて止まらない。
佐々木さんは私の前にしゃがむと、親指で涙を拭ってくれた。それがあまりに優しい仕草で、更に涙が溢れた。
「岡部さん、泣かないで。貴女が泣くと、俺も息ができないくらい苦しくなる」
切なげに眉がしかめられる。
「違うの…っ!今、私…幸せ、だもの…」
涙でぐちゃぐちゃの顔で精一杯笑いかける。この涙が、私の全てだと伝わってほしい。
佐々木さんはそれを見て、泣きそうな表情になる。
「佐々木さん、好き、大好き」
私は彼の頭を抱き寄せた。ちょうど心臓の辺りにおでこが来る。そしたらきっと、速すぎる心音が聴こえるはずだ。
佐々木さんは頭を私の胸に押し付け、そして縋るように私をきつく抱き締めた。
「満里子ちゃん、良かったね」
優しい響きを持った一希さんの言葉が聞こえ、彼がその場を去っていったのが分かったが、私たちは抱き合ったままでいた。
ずっと欲しかった。
ずっとずっと。
やっと、隣にいられるんだ。
その想いが私を満たして、胸を甘い痛みが突く。切なくて苦しくてでもそれが嬉しくて。
愛しい人が自分の腕の中で肩を震わせるのを、満たされた心で受け止めたのだった。
こうして始まったお騒がせな私たちの恋は、ゆっくりとゆっくりと時を重ねている。ほぼ恋愛初心者のような二人だから、周りがヤキモキするくらい不器用なものだ。けれども、佐々木さん…ううん、凌馬君が私のことを何よりも大切にしてくれているのが伝わってくるから、不安は無い。ゆっくりだって良い。愛されてるって感じるもの。
そんなことをぼんやりと考えて幸せに浸っていると、息を切らしてこちらに走ってくる彼が見えた。身長185センチ、体重は75キロある大柄な彼だが、運動神経はかなり良い。足も速くて、50メートル走は何と5秒7。
あっという間に私との距離を縮めた凌馬君は軽く息を乱しながら、私に頭を下げる。
「満里子、ごめん。待たせた」
「大丈夫だよ。本読んで待ってたから。それより、院試の話はどうだった?」
今日はゼミの教授に院試の話を訊く予定になっていたはずだ。他学部のことは知らないけど、色んな準備や司法試験の勉強もあるみたいで、ここの所凌馬君は慌ただしくしている。
私は、服で額を拭おうとする凌馬君にタオルを渡し、顔を覗き込んだ。
「ん。やっぱり勉強が大変だというのが分かった」
「それはそうだよね、きっと。六法全書を覚えるなんて、私には無理だなぁ。途中で心が折れちゃいそう」
司法試験に合格するには10年近くの年月をかける人もたくさんいるという。凌馬君はその合格に向かって勉強するのだから、喩え院試が受かっても気の休まる日はないだろう。
「俺も初めて六法全書見た時は心折れるかと思った。でも、今は頑張れる気がする。満里子の頑張ってる姿を見てるから」
「それは私もだよ。凌馬君がいて、一緒に頑張ろうって言ってくれるから私も頑張れるの」
「そっか」
照れ臭そうな顔をして笑う凌馬君。近頃はよく見るようになった表情に、心が温かくなる。
私は凌馬君の右腕に抱きつき、にっこりとしてみせた。
「大好き、凌馬君」
不意打ちだったからか、凌馬君の顔が真っ赤になる。
「凌馬君、か〜わいいっ!」
「満里子…そんな風にからかわないでくれ」
心臓に悪いだろ。
そう言いながらも口元がしっかりと弛んでいる彼に満足して、私は腕を離すと今度はその手に指を絡めて恋人繋ぎに変えた。大きくて竹刀ダコのある手がたまらなく愛しい。
「これからもずっと凌馬君といられたら良いな」
ぽつりと呟くと、手をぎゅっと握られた。
「そうだな」
言葉少なに答えた凌馬君が私のおでこに唇で優しく触れる。
幸せだなぁ。
こんな風に大好きな人を愛して愛されて。これから先もこうしていられたら良いな。
季節はいつの間にか春に変わっている。私たちも4年生になり、卒業が迫ってきた。こうして学生としてゆったりと過ごせる時間は少ない。社会人になれば凌馬君との時間はぐっと減るだろう。
それでも、これから先の未来に凌馬君がいてくれるように、私も努力するから。凌馬君も私を見捨てないでね。
「桜吹雪だ」
見上げた先に桜の花弁がひらひらと舞っている。
自然な動作で手を伸ばした凌馬君の手のひらに一枚の花弁。
「あ」
二人、顔を寄せて笑い合う。
私たちに訪れた春は、まだまだ始まったばかりだ。
おまけ
〜満里子が一希と一緒にいた頃〜
「夏木先輩!部長が…部長が怖いです!」
泣きついてきた数人の後輩たちの言葉に、篤史は首を傾げた。凌馬が怖いだの鬼だのと言われて恐れられているのは今さらだ。そもそもお前ら、毎日見てるんだからいい加減慣れろよ。
胡乱げな目で一瞥した篤史に、後輩たちは副部長が言わんとすることを瞬時に悟ったらしい。各々が首を横に振り、そして悲壮な声を出した。
「違うんです、先輩!普段の恐ろしさだったら俺たち何も言いません!そうじゃなくて、部長が…おかしいんですってば」
「は?」
「心ここに在らずといった感じで、剣先は乱れてるし…さっきなんか、部で一番弱い安藤に一本取られたんですよ!?」
その言葉に篤史は自分の額を押さえた。
瑞希…お仕置きが効きすぎだ……。
篤史は自分の彼女の所業の結果、ボロボロになっている友人を憐れに感じてしまった。
元々は凌馬がヘタレて満里子を泣かせたのが悪いのだが、情状酌量の余地はあっただろうに。俺だって、凌馬の外見だったら同じことをした自信がある。何と言っても相手は文学部の一番人気の女の子なのだ。凌馬が釣り合わないと怖じ気づいたって仕方ない。
…と言っても、満里子ちゃん大好きな瑞希が許すわけないもんなぁ…。
深い深いため息を吐いて、篤史は後輩たちを見た。
「とりあえず、しばらくはそっとしてやってくれ。アイツも悩むことだってあるよ。…俺が何とかするから」
「…はい。部長が元気無いと自分たちも気合いが入らないです。よろしくお願いします」
口々に凌馬を心配する内容の言葉を漏らす後輩たち。思った以上に慕われてるんだなと思いつつ、このままじゃマズイと篤史は感じていた。
「本当に世話がやける奴だなぁ、アイツも」
とにかく、俺から瑞希に弁解してやろう。話はそれからだ。
「まだ、お仕置き3日目なのにねぇ」
うちひしがれる親友のために、篤史は腰を上げたのだった。
〜満里子と凌馬が無事にくっついた後の話〜
自宅のリビングで、瑞希と一希はまったりとココアを飲んでいた。冬になり登場したこたつは、寒がりの二人が大抵は占領していたりする。
今日もぬくぬくと温まりながら、兄妹で仲良くテレビを見ていると不意に一希が口を開いた。
「なぁ、瑞希。満里子ちゃんと佐々木君なんだけど…俺が当て馬になる必要あった?普通にイチャイチャしてたけど」
「ん〜…たぶん放っておいてもそのうちまとまってたと思うよ。けど、私が気に食わなかったから。だってさ、難攻不落で色恋に疎かった満里子が好き好きオーラ出してるのに、それを拒否するなんて有り得ないもの!鬼瓦のくせに!!」
「………何というか、それに振り回された二人と俺、可哀想…」
一希の心からの嘆きに、じろりと瑞希が兄を睨む。
「何言ってんの。文学部のアイドルと疑似恋愛できるだの、満里子にお兄ちゃんって言われたいだのって浮かれてたのはどこのどいつよ。大体さ、2週間近くも満里子にべったりできるなんて、有り得ないから。感謝してほしいくらいだわ」
鼻息荒く捲し立てる妹に、一希はぐっと言葉を詰まらせた。
満里子のことは好きだけど、それは妹みたいな存在としてであり、異性としてではない。だから、あわよくばなんて下心は全く無かったが、最初落ち込んでいた満里子がだんだん明るくなり笑顔を見せてくれるようになった時、それに一希といるようになって急に洗練された姿を見た時は嬉しかった。こんな美人を連れて歩ける男なんだと優越感もあった。
…最後の馬鹿らしい演技とその後の茶番を除けば、瑞希の言う通り、最高の日々だったのだ。
黙りこくる一希に、瑞希はほれ言わんことないという顔をしたが、すぐに俯いてカップに口を付けた。
「まぁ…確かに今回のは私の八つ当たりと余計なお節介だったから、一希には感謝してる。ありがと」
もごもごという姿は、可愛い。さすがに文学部の美人四姉妹の一人だなぁと、どうでもいいことを考えて感心する一希。なんだかんだ言っても、一希は家族大好きなので妹が可愛くて仕方がない。だから、無理なお願いでも叶えてあげたくなる。…それを見越して瑞希も一希に頼み事をするのだろうが。
それにしても。
「俺も役得だったからな。…でも、ああいうバカップル姿を間近で見せつけられると、彼女欲しくなるな〜。どこかに満里子ちゃんみたいな健気で可愛い子落ちてないかな」
暫くは研究一筋で頑張ろうと思っていたが、やっぱり可愛い彼女とイチャイチャして癒されたい。
テレビの画面でも、今売り出し中の若手女優が人気俳優とキスをしている。…ドラマであっても羨ましいな。
じ〜っと画面を恨めしげに見る一希に、瑞希がクスクス笑い出した。
「そんな物欲しそうな顔しないでよ。今回のお礼に、可愛くて性格の良い女の子紹介するから」
「えっ、本当に?!」
瑞希の言葉を聞いて目を輝かせる兄に、彼女の笑いは止まらなくなる。
「ほんとほんと。だから、そんなに羨ましがらないの、お兄ちゃん」
「瑞希ありがとう!!お前やっぱ最高!愛してる!!」
感極まって瑞希の手を掴んだ一希の手を払いのけ、瑞希はしっしっと兄を追い払う。
「調子に乗んな、バカ兄貴。キモい。やっぱ可愛い子紹介するの止める」
「えっ!それは無しだって!瑞希〜頼む!!」
「どうしようかな〜」
じゃれあいながら軽口を叩き合う兄妹の会話は少しずつヒートアップし、喧嘩に発展するまであと少し。そしてココアを溢して母の雷が落ちるまで1時間もない。
本編はこれにて完結です。
何はともあれ、各々が平和な日々を送っています。
ここまでお読みくださり、感謝しています。ありがとうございました。