第三話
恋愛初心者な満里子ちゃんに、恋愛猛者の美人なお二人が恋愛指導します。
一頻り笑った後、私たちは道場を後にし、のんびりと図書館への道を歩いていた。先ほどのやりとりで大分打ち解けたのか、佐々木さんはポツリポツリと他愛もない話をしてくれる。心臓がドキドキすることは変わらないけれど、何とか普通に言葉を返すことができ、比較的和やかに会話をすることができた。
何だか、不思議。
昨日、初めて顔を合わせた人とこうして肩を並べて歩いている。それが嬉しい。節度のある距離感を保とうとしてくれる心遣いを受けて、佐々木さんに対する好感度も右肩上がりだ。
「くしゅん」
秋も深くなり、カーディガンだけでは肌寒く感じて、私はふるりと体を震わせてくしゃみをした。ちょうど会話が途切れた時だったので、その音がやけに大きく響く。私は羞恥で頬が熱くなるのを感じながら、カーディガンを掻き合わせた。
「大丈夫か?」
「うん。少し寒かっただけ」
「そうか」
佐々木さんはそう言うと少しの間沈黙した。そして徐にパーカーを脱ぐとバサリと私の背にそれをかけた。
「え、あの」
困惑して佐々木さんを見上げれば、彼は前を向いたまま口を開いた。
「俺はまだ体が熱いから、貸す。岡部さんが使ってくれ」
「でも、申し訳ない…」
「風邪引かれた方が困る」
てこでも意見を曲げなさそうな佐々木さんに、渋々私が折れることにした。
「…ありがとう」
バクバクと脈打つ鼓動を抑えて、パーカーの袖に腕を通す。パーカーは案の定大きくて指先まですっぽりと覆われ、裾は膝上まで来ていた。恥ずかしさに俯くと、甘い洗剤の香りに混ざって僅かに汗の匂いがする。
うわぁ…佐々木さんの、匂いがする…
そう認識すると、一瞬で頭が沸騰した。頭頂から湯気が出てきそうだ。
佐々木さん、紳士すぎるよ…。
昨日といい今日といい、惜しげもなく与えられる優しさが、胸を蕩けさせていく。
きゅうっと心臓が収縮した。
最初は、単純に見た目が好みだっただけ。あと優しい笑顔を見て心惹かれて、恋をしたと思った。本当に、一目惚れだった。
けれどもこうして接してみて、武骨な剣士の姿や、当たり前のように見せる気遣いに、佐々木さんの内面に惹かれる自分がいる。人を好きになるのに時間は関係ないと言うけれど、本当にその通りだ。
たった2日間で私は、佐々木さんにのめり込んでいる。
やっぱり、好きだな。
胸の痛みさえ甘美で愛しく感じるくらい、好きだ。どんどん好きになる。
隣にいるのが幸せすぎて、泣きそうだよ。
その言葉は飲み込んで、私は前を見据えたのだった。
佐々木さんと知り合いになってから数週間、比較的穏やかな日々が続いている。
法学部の篤史君や佐々木さんは法科大学院に進むから就職活動をしないけど、私たちは大学院に行かないので就職活動をしなければならない。とはいえ数年前までは就職難だと騒がれていたが、今は求人倍率も上がり就職活動も以前より落ち着いたものになっているらしい。学部首席の多江は大手の出版社、バイリンガルの友里亜は外資系企業の内定をもらっている。瑞希と私は県職の試験に向けての勉強中だ。
あれから佐々木さんとは学食や図書館で会うとお話をするようになった。私と瑞希、友里亜、多江はゼミがバラバラだから、なかなか一緒にご飯を食べたりすることはできなくて、私は一人で学食を利用することも多い。そんな時、佐々木さんは声をかけてくれる。もちろん、ゼミの仲間と来ることもあるけど、そういう時は決まって佐々木さんと遭遇しない。たぶん自分の外見が周りに与える印象を理解しているから、敢えて話しかけてこないんだと思う。現に、私が一人の時でもたくさん人がいる時には極力近寄らないようにしている節がある。
それだけ周りに気を配っている佐々木さんだけど、まったく人がいない状況なんてあるわけがないから、彼といる時は必ず周りから奇異の目を向けられる。
今日も、学部棟を出て偶然会った佐々木さんと学食までの道を歩いていると、向こうから歩いてきた男子学生が佐々木さんを見て、ビクッと肩を揺らして距離をとった。その顔には怯えが浮かんでいる。佐々木さんは慣れっこなのか知らんふりだ。
「そんなに怖いかなぁ、佐々木さんって」
男子学生が逃げるように去った後、私はぽつりと呟いて右上にある佐々木さんの横顔を見る。彼はその視線に肩を竦めた。
「初対面から平然としてるの、岡部さんくらいだから。篤史だって初めて会った時は目を丸くしてたし、剣道部の奴等もそう。今の男の態度が普通で、岡部さんが普通じゃないんだ」
「ん〜……確かに体も大きいし顔も強面だけど、別に怖くないよ。寧ろ、笑った時のギャップが良いのに。それに体が大きいから安心感があるもの。素敵じゃないかな?」
そのギャップに私はまんまとやられてしまったわけだしね。惚れた欲目ではあるけれど、私には佐々木さんがカッコ良く見える。
俯き加減にぶつぶつと佐々木さんの良い所を1つずつ挙げていると、彼がその言葉を遮るように私の頭にポンと手を置いた。じわぁっと熱が伝わってきて、体温が一気に上昇する。
「そこまで誉められると照れるから」
「…うん。でもね」
「ストップ。岡部さんが俺のことを怖がってないのは分かってるから、もういいよ」
少し掠れた声。いつものどっしりした感じじゃなくて、囁くような響き。それが何となく色っぽくて、私の体温は更に上昇した。もう12月上旬なのに、熱い。汗が滲んできそうだ。
やがて佐々木さんの手は私の頭から外され、定位置に戻る。それが淋しいと感じてしまい、思わず縋るように見上げると、佐々木さんの頬が赤くなった。
「…そんな顔で見られると、勘違いしそうになる」
ボソボソと告げて佐々木さんは左手で自分の顔を覆ってしまう。
私はポカンとそれを見つめ、首をかしげた。
そんな顔?勘違い?
私はどんな顔をしていたんだろう。佐々木さんは何を勘違いしそうなんだろう。
自分では分からなくて、佐々木さんに問いたいのだが、聞くなオーラを放つ彼に訊けそうな雰囲気はない。仕方なく、私は開きかけた口をつぐんだ。
佐々木さんに頭をポンポンされた次の日、私は久々に友里亜と多江とカフェに来ていた。大学の近所にあるこのカフェは、ランチタイムが終わると閑散とする。だからゆっくりしたい時にはもってこいの場所だ。瑞希は今日、バイトなのでこの場にはいない。
ミルクコーヒーを頼んでiPhoneのメッセージを見ていると、対面に座っている友里亜がそういえば、と口を開いた。
「ねぇ、満里子。最近、愛しの彼とはどうなってるの?」
「そういえばそうだね。あれからどうなった?もう付き合ってたり?」
興味津々といった感じで多江も体を乗り出している。
「ううん、全然。たまに会ってお話するくらい。連絡先も交換してないし」
聞こう聞こうと思ってはいるのだが、何となく連絡先を聞きそびれてしまっていた。佐々木さんも何も言わないから、今さら言い出しにくいというのもある。
ふぅ、と息を吐くと二人は呆れた顔をした。
「知り合ってもう3週間くらい経つでしょう。まだそんなとこにいるの?今時、小学生だってもっと進展早いよ」
「会って話すのは楽しいし、もっと一緒にいたいって思うけど…きっかけがなくて」
佐々木さんは良くも悪くも適度な距離感を保ってくれている。だからどこまで踏み込んでいいのか把握し辛いのだ。
だって嫌われたくないもん。
唇を尖らせる私に、多江がやや疲れた表情を向ける。
「こっちがびっくりする勢いで佐々木君を紹介してもらったのに、何で今頃になって弱腰なの。自覚は無くても、満里子の顔は間違いなく可愛いんだから、にっこり笑って告白すれば、男は簡単に落ちるでしょ」
明け透けな言い方をする多江に苦笑しつつ、友里亜も真面目な顔で私を見た。
「落ちるかどうかは別として。満里子の話を聞いてると佐々木君って気遣いのできるタイプみたいだし、返事はどうであれ真剣に受け止めてくれるんじゃないかな。それに…脈ありそうだけど。普通、興味のない女の子を構ったりしないよ」
二人はウェイターが持ってきたコーヒーを営業スマイルで受け取る(因みにそのウェイターさんは真っ赤になっていた。さすが美人の二人恐るべし)。私もミルクコーヒーを受け取ってお礼を言うとウェイターさんは赤くなった顔で「ごゆっくり」と定型句を口にして、そそくさとカウンターに戻っていった。
湯気の立つミルクコーヒーに口をつけると、コーヒーの苦さよりもミルクと蜂蜜(壮年のマスターにしっかりと私の好みを把握されているので、いつも蜂蜜を入れてくれる)の甘さが口に広がった。ふんわりと優しい味にほんわかしていると、友里亜がずいっと顔を近づけてくる。
「で、満里子はどうなの」
「ふぇ…?」
「佐々木君と恋人同士になりたいの?それともお友達でいたいの?」
その言葉に私はカップを置いて、スプーンでくるくるとかき混ぜた。
私は佐々木さんとどうなりたいのかな…?
彼のことは異性として好きだし、前よりもその気持ちは強くなっている。だから彼の特別な人になりたい。
でも、佐々木さんは?
彼は出会った時から終始一貫して真摯な態度で友好を示してくれている。でもそれは他の人にだって同じだ。
確かに見た目は怖がられるけど、彼は基本的に包容力があって優しい。相手が不快にならないように気を配ることに労力を惜しまない。だから、部活の後輩たちは彼を慕っているし、あれだけ男性への評価の厳しい瑞希が私に彼を紹介したのだ。
誰にでも隔てなく向けられる優しさを、私への好意だと勘違いしてはいけないと思う。そう考えると、佐々木さんに想いを伝えることが躊躇われてしまう。
それに佐々木さんなら、私への気持ちがなくても情にほだされて付き合ってくれそうだもの。そんなのは嫌だ。
佐々木さんの気持ちが無いのに、告白なんてできない。
でも、恋人になりたい。
泥沼に足を捕られているようだ。考えれば考えるほど、自分の想いと現実との差に戸惑って前へ進めなくなる。
「佐々木さんのことは好きだよ。毎日どんどん好きになってる。…でも、どうなりたいのか、よく分からないかな…」
絞り出した返事に友里亜は沈黙し、多江は眉間にしわを寄せてコーヒーを飲んだ。
「満里子が、関係を進めるのに躊躇う理由は何?」
多江は私の心を見透かすように、その綺麗な飴色の瞳で私を見据えた。
「私は、」
佐々木さんにただの知り合いだと言われるのが怖い。
特別な存在になれないのに、佐々木さんに溺れていく自分が怖い。
佐々木さんの心が、どこを向いているのか解らないから、怖い。
恐怖が胸の中で渦巻いて、濁流のようになる。
「怖い、の。佐々木さんの気持ちが全く見えないことも、当たり前のように向けられる優しさを好意だと勘違いをしそうな自分が怖いの」
目頭が熱い。
じんじんとし始める目をぎゅっと瞑ると、多江が深いため息を吐いた。
「誰だって、他人の気持ちは理解できない。どんなに想い合っている間柄でも家族でもね。けれども傍にいたい、特別になりたいから、相手を知ろうとする。満里子は佐々木さんの気持ちを知ろうとしてる?嫌われたくない、怖いって逃げてない?
満里子、相手の気持ちを慮るのは悪いことじゃない。でも相手の気持ちを決めつけるのはダメ」
頭良いんだから理解できるでしょう?
最後は小さな子供をたしなめるような柔らかい口調で締めくくられた。その言葉たちはじんわりと心の奥に染み込んでいく。
…そっか。そうだよね。
多江の言葉を反芻しながら、目をゆっくりと開く。
「私、佐々木さんのことを知りたい」
「なら、満里子も気持ちを伝えなきゃね」
にっこりと言われ、私は言葉に詰まった。い、言えるかな…?
「満里子って、自分の気持ちを伝えられずに横から色んなものをかっさらわれるタイプだもんね〜言えずにウジウジしてそう」
歯に衣着せぬ友里亜の評価がぐさりと胸に刺さる。
「まぁ、まずは連絡先を聞くところから始めようか。連絡取れなきゃね」
「そ〜そ〜。連絡先教えてください、って可愛くお願いしておいで。い〜い?語尾にはハートマークをちゃんと付けるのよ」
「上目遣いで両手を唇の前で合わせるのも忘れちゃダメよ。ベタだけど、結構効果的だから」
恋愛に関して歴戦の猛者たちは冗談とも本気ともつかない様子で、可愛らしく連絡先を聞く極意を伝授してくる。
可愛らしい顔をして二人ともしたたかだもんなぁ…。
呆れる私を他所に、まだ小悪魔二人は嬉々として恋愛テクニックを披露している。内容がだんだん腹黒くなっていくのは気にしない方が良いだろう。こんな会話を聞いたら男の子たち、卒倒しそうだよね…。
温くなったミルクコーヒーを啜ると、私は二人のやりとりを見守ることにした。たぶん二人の話はこの後、お互いの恋愛話にスライドしていくだろうから、そうなれば私の出る幕はない。
少し、気が楽になったかな。
二人の友人がくれたアドバイスを胸に、今度佐々木さんに出会ったら連絡先を訊こうと心に誓ったのだった。
ちなみに、薄暗い剣道場までの道を瑞希が一人で行き来しても誰も心配しないのは、瑞希の母方の実家が空手道場で小さい頃から瑞希もたしなんでいるからです。その辺の男では相手にならないことを身をもって体験している人が数名おり、それが噂として流れているため、わざわざ手を出そうという愚か者はいないのが現実です。
…え?もちろん、身をもって体験した人の中には篤史君も入ってますよ。正拳突きが腹に決まり、呻くことになったとか…