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番外編~美人の定義 第13話~

街が赤と緑に彩られ、なんとなく浮き足立っているのを横目に、私は地元へと帰るために新幹線の切符を買っていた。

学生はきままなものだが、社会人はそういうわけにはいかないらしく、秋野さんはここ数日、会社にほぼ寝泊まり状態らしい。

立ち上げたばかりの会社だから、どんな小さな仕事でも請け負っている。その結果がこれなのだが、秋野さん自体は楽しそうなので、それはそれでいいのかもしれないと思っている。

仕事に没頭する彼氏に、恋人たちの浮かれたイベントに付き合えと言えるわけもなく、私は早々にバイトのシフトを入れた。そのお陰で、クリスマスの1週間前の土日は空けることができたのだ。…そのことを秋野さんは知らないのだけれど。


その空いた時間は、過去の清算に使う。


そう決めてから、私は秋野さんに連絡をしていない。

もともと頻繁に連絡を取っているわけではないし、何週間も会えないこともある。今回も忙しさを装っていたからか、自然と連絡が途絶えて、今週に入ってからは一文字も送っていない。

世の中の彼氏彼女がどういう付き合いをしているのか、正直なところ定かではないが、こんなに淡白ということはないだろう。連絡無しが当たり前、なんて言われたら、大抵の人は困惑するだろう。

これが社会人と学生の差なのか、それとも私たちの関係の希薄さなのか、最早判別はつかない。…自然消滅の方向に向かっていないことを願うばかりだ。



新幹線で数時間、お昼を過ぎた頃に地元に到着した。

地方都市の一つだから、わりと栄えているこの街は、都心から近いこともあり、活気がある。通り過ぎる人たちもどこか洗練された格好だし、建ち並ぶビルには大きな看板が乗っている。

住んでいる時は気にしたこともなかったが、久しぶりに帰ってくると、大学の周辺より遥かに都会なのが分かる。なんとなく自分が浮いた存在である気がして、その疎外感に溜め息が零れた。


孤独とか、異物感とか、昔は当然だったのに。


仲間はいても友達じゃなくて、恋人はいても遊びの関係で。

周りに人はいても、私はいつも独りだった。私の居場所なんかどこにもなかった。

『私』が『私』としていられるのは、満里子や瑞希、友里亜、そして秋野さんのお陰だ。

造った自分に違和感を覚えながらも、造った自分に固執していた私の、分厚いくせに薄っぺらな仮面を剥いだのは、間違いなく、あの不躾なまでの優しさと真っ直ぐさなのだ。


過去の私とはもう違う。


過去の自分を見つけてもきっと、逃げずに向き合える。その強さをくれたのは、私を認めてくれた人たちだ。彼らとこれからも一緒にいるための一歩を、踏み出すことを決めた。

大きく息を吸い、静かに吐き出してみる。肺の中の空気が入れ換わると、幾分か気持ちが落ち着いた。

駅からタクシーに乗り、私は実家へと向かう。

2年近く帰っていないあの鳥籠に帰るのは、どうしても体がすくんでしまう。けれども、昔ほど怖さはない。


窓の外の景色は緩やかに移り変わり、気づけば高い塀に囲まれた洋館が見えてきた。

「ここで、降ろしてください」

私は運転手に声をかけ、運賃を払って降ろしてもらう。長居するつもりはなかったから、荷物はショルダーバッグ一つで、それ以外にない。

身軽に降り立ち、私は外壁につけられたインターフォンを押した。実家を出る時、二度と帰ってくるものかと決意していたから、鍵も全て実家に置いてきていた。ともすれば、来客のように呼び鈴を押すしかない。

『はい、どなたでしょうか』

一拍置いて、インターフォンから声が聞こえる。この声は、執事の有澤の声だろう。

「ご無沙汰しております。多江です。久方ぶりに帰って参りました」

『多江お嬢様。すぐに門をお開けしますので、少々お待ちを』

言葉が終わるか終わらないかのうちに、金属製の門が音もたてずに開けられた。

私はイングリッシュガーデンのような庭を通り抜け、母屋へと向かう。イングランドの様式を取り入れた邸は美しいが、どこか寒々しい。

母屋の扉に辿り着くと、そこには既にお仕着せを着たメイドの入谷がおり、扉を開けようと待機していた。

一般家庭に執事やメイドはいないだろうが、私の家族にとってはこれが当たり前だったことを思い出し、苦笑してしまう。大学生になって関わりを絶っていたから忘れていたが、こんな私でも実はお嬢様なのだ。

「入谷、ご苦労様」

使用人を顎で使う、高慢ちきな私。一人暮らしをして、そんな自分を捨てたつもりでいたのに。ここに戻れば私は簡単にお嬢様に戻る。骨の髄まで染み込んだ躾が、勝手に体を動かす。

「多江お嬢様。お帰りなさいませ。旦那様と奥様は今、談話室におられます」

「そう…。じゃあ、すぐにそちらへ向かうわ。その前に、少しだけ自分の部屋を見たいのだけれど、もう片付けられてしまって何も残ってないわよね」

親子の縁を切る勢いで家を出てきたのだから、自分の部屋が無くなっていたとしても文句は言えない。

私の顔が強ばっていたのだろう、入谷は少しだけ口元を綻ばせた。

「お嬢様が家を出られた時のままにしてあります」

「そうなの?お父様はあんなにお怒りだったから、てっきり」

和音(かずね)坊ちゃまと鈴江(すずえ)お嬢様が、部屋はそのままにしておくようにと仰られたのです。いつか戻られた時に悲しがるだろうからと」

「和音と鈴江お姉様が…」

あの地獄のような日々から、私一人が勝手に逃げ出したのに。二人が私のことを憎んでも仕方ないと思っていた。それだけのことをしたという自覚もあった。それなのに。

和音は今年、高校生になっているはずだし、鈴江お姉様も親が決めた婚約者と結納を交わす時期だろう。二人とも大きく変化しているに違いない。そう思うと無性に会いたくなった。

「和音さんや鈴江お姉様にもお会いしたいわ」

ぽつりと零れた本音と同時に、一粒だけ涙が滑り落ちる。

「和音坊ちゃまも鈴江お嬢様もは夜になればお戻りになられます」

「そうなの。今日は用事のついでに立ち寄っただけだから、夜まではいられないわ。残念だけどお姉様たちによろしく伝えておいて」

「ではそのように。…ここでは体がお冷えになりますから、どうぞお入りになってください」

「ありがとう」

軽く頷き、私は家へ入った。

母屋の中も洋風の造りだから、土足のままだ。冷たい大理石の床は綺麗に磨かれて光っており、どこの式場やホテルかと思う大きな階段は埃一つ見当たらない。

玄関の正面に階段があるのだが、その右手には別館に繋がる通路が、左手には使用人たちの部屋がある。私は右手に進路を変え、静かに歩を進める。

美しく整えられているのに、いや整えられているからこそ、ここは寒々しい。久々に戻ってくると、余計にそれが感じられた。


だから、私は外に温もりを求めたのだ。


希薄な親子関係、生活感のない冷たい邸、私の意思を無視した未来。それが堪らなく嫌で、私は外に逃げ出した。結局、与えられた温もりさえも紛い物だったのだから、救い様はない。

やがて重厚な暗褐色の扉に到着し、私はドアノッカーを二度鳴らす。

「お父様、お母様。お久しぶりでございます。多江です。入ってもよろしいですか?」

努めて上品に、けれども声を張り上げて呼び掛ける。

しばらく待つが、中からは返答がない。これは会いたくないという意思表示なのだろうか。

一度息を吐き、私はくるりと向きを変える。この様子では待っていても開けてもらえないだろう。

諦めて一歩踏み出そうとした時、ガチャリという音がし、扉が開かれた。

振り返れば、切れ長の目が涼しげな女性…母がが無表情で立っていた。

「待っていました。入りなさい」

凛とした、まるで冬の朝の空気のような冷たさを湛える声は、言葉とは裏腹に、私の来訪を嫌悪しているように響く。

「はい。失礼します」

私は頭を下げ、部屋に足を踏み入れる。

後ろでガチャリという音が聞こえ、母が扉を閉めたのが分かった。

談話室は温かかった。右手にある暖炉からはパチパチと火のはぜる音がする。少し間を取ってソファと膝下の高さの机があり、一番奥には安楽椅子が設置されていた。

昔と何も変わらない光景に、時間が巻き戻る気がした。

安楽椅子には、私とよく似た相貌の男性…父が座っていた。シミの無い透き通るような肌は美しいが、全体的に彫りが浅く、主張がない。きっと人の記憶に残らない、そんなのっぺりとした容貌。この顔を見る度に、私は父との血の繋がりを感じる。

「お父様、お母様。お久しゅうございます」

私は薄く笑みを乗せ、ゆったりと頭を下げた。腰を折る角度は30度ほど。深くても浅くてもいけない。

指の先にまで神経を集中させ、顔を上げる。耳から零れた髪が頬を撫でたが、それが口元をうまく隠してくれる。いかに私が淑やかな娘、彼らの望む姿であるかを見せるためだけにそこまで意識して、姿勢を元に戻す。

場に落ちる静寂は、私を試すようにただただ無機質で、怖いくらい張りつめている。


どれだけの時間が経ったのだろう。

それまで黙って私を見据えていた母が、その形のよい唇をゆっくりと動かした。日本人形の如くの、美しい相貌であるが故に、表情が無いと恐怖すら感じてしまう。


「あなたとは、親子の縁を切りました。何故帰ってきたのですか」


一瞬、その美しい唇から何が滑り落ちたのか、理解ができなかった。全てを排除するかのような硬い口調は、業務連絡みたいに淡々としていて、そこからは何も読み取れない。

「帰ってくるということは、あなたは宮藤家の駒となるということです。それがあなたにできるのですか」

凛とした声は、こんな時でさえ美しい。感情の見えない音なのに、私は昔からこの声を嫌いにはなれなかった。

「私は、」

だからこそ、告げようとしていた言葉に躊躇してしまう。

もうこの家に戻らないという選択は、この人たちとも会えなくなるということだ。檻のように窮屈で、堪らなく閉鎖的でも、私にとってはたった一つの実家で。この人たちは、私の両親で。


勢いのままに飛び出した2年前は、何もかもから逃げ出したくて、先のことなど考えていなかった。


けれども、大切なものができた今は、失うことの重みを知っている。


私は小さく息を吸い、そして吐き出した。

「私は、」

止めどなく溢れ出す感情の洪水の中から、言葉を探して声に乗せる。

「私は、この家が嫌いだったのです。閉鎖的で窮屈で、鳥籠の中みたいで。自由が欲しくて、自分とは別の人間を演じることもありました」

化粧で顔を造り、色々な男の子と付き合って。馬鹿みたいに、はしゃいでいた。

かつての自分を思い出せば、その滑稽さに目を塞ぎたくなる。

「けれども、本当の自分を認めてもらえなくて、私の外身しか見てもらえない現実に、私は傷つき、全てから逃げました。あの頃の私は、独りで生きていけると、真剣に考えていたのです。

一人暮らしを始めて、私は今まで知らなかった世界を見ました。あれだけ望んだ自由がありました。

なのに、私の心はいつも満たされずにいました。その空虚さの理由も分からず、もがき続けました」

本当の自分を見てほしい、と彼氏を試し、別れることを繰り返していた私は、心の穴を埋めたがっていた。

両親は黙って私を見つめている。

「やがて私は気づいたのです。私の心の空虚さは、愛されたいという幼い感情がもたらすものだと。

教えてくれたのは、級友であり、今お付き合いをしている方のお陰です。彼らがいなければ、私はここへ戻ってこなかったでしょう。

私は、ここが好きではありません。そして、お父様やお母様のことも。ですが、ここが私の故郷であり、家族がいる場所なのです。失いたくありません。

私は宮藤家の駒とはなれません。そして、ここを捨てることもできません。我が儘で不出来な娘をどうかお許しください」

友達も恋人も、そして家族も、私にとってかけがえのない存在だ。疎んでも、逃げたとしても、簡単に放棄することなどできない。

稚拙な弁に、二人は一言も発しない。それほどまでに呆れ返っているのだろう。

両親の失望を感じながらも、私はどこか清々しい気持ちでいた。押し込めてきた自分を、初めて両親に伝えられたことが、想像以上に私を満たしてくれる。


「好きにすれば良い」


落ち着いた重低音に、私は父を見た。

父は目を閉じ、安楽椅子をゆったりと揺らしている。

「お前の好きにすれば良い。しかし、お前は宮藤家の人間だ。口上で絶縁を申し渡そうとも、血の縁は消えない。

お前の言動全てが、宮藤家の評価になる。それを忘れるな。名を汚すことがあれば、宮藤家はお前を許しはしない」

血の繋がった父とは思えない、為政者そのものの言。それなのに私には『お前を見捨てたわけじゃない』と言われたように感じた。

何て言い草だと失望しないわけではない。それでも『血の縁は消えない』というフレーズが、私の存在を認めてくれているみたいに響いた。私は一度瞬きをし、そしてしっかりと頷く。

「分かりました、お父様」

つ、と頬を伝うのは、温かい涙だ。心を溶かしてくれるような、そんな優しい温度に、私は深く息を吸い込み、衝動を抑え込む。

「あなたのことは常に監視しています。そのことを覚えていなさい」

唇を噛み締めている私に、先ほどより幾分か和らいだ目が向けられる。相変わらず高圧的な言い方であるが、母がくれた言葉がより私の心の箍を弛くさせる。

両親の言葉を都合よく捉えているのは理解している。本当は深い意図などなく、ただ断罪さながらに言葉をぶつけられているだけなのかもしれない。

でも、初めて。初めて両親の心に触れた、そんな気がした。そしてそれはあながち外れていないと思った。

喉を突く、今にも溢れ出しそうな想いに、私は口を開くことすらできず、大きく首肯する。

自分が全てだった頃は、見えているものだけに反応して、反発して嘆いていた。

けれども今は違う。自分よりも大切なものができて、私は変わった。他者の心に寄り添っていたい、そんな想いが私の視界を広げてくれた。


ずっとずっと、両親に愛されていないと、そう思っていたのに。


今私に与えられた、捻くれた言葉には、私を見捨てずにいた両親の、子どもを慈しむ愛情がきちんと隠れている。

もっと素直に言ってくれたら、きっと私はこの両親を好きになれていただろう。もっと私が両親を理解できていたら、きっと私はこの家を出なかっただろう。

もしも、の可能性は尽きない。

けれども、家を飛び出して生活した時間があるから、今がある。

時間が解決することもある、とはよく言ったものだ。時が経てば、見える世界も、自分を取り巻く環境も変わる。私の世界も変わった。

きっと私たちには、まだ時間が必要だ。

本当の意味で分かち合える日は、遥か遠くにある。それでも確実に時間は動いていて、私たちも成長する。

「これまで育ててくれて、ありがとう。お父様、お母様。やっぱり、私にとってここは故郷です。またいつか帰ってきます」

くしゃりと歪んだ笑顔になっている自覚はあった。けれどもこれが今の私の精一杯で、限界だ。

大きく頭を下げると、視界の端に、驚いたように目を見開いた母の顔が見えた気がした。



談話室を辞して、私は自分の部屋に向かった。全体的に物が少なく、本棚と勉強机とベッドしかない簡素な部屋は当時のままだ。あの頃は何も感じなかったが、久しぶりに見ると空々しい。まるで当時の私の心みたいだ。

綺麗に並べられた書籍や参考書、埃一つない机、仄かに香る花の匂い。

きっと使用人たちがこまめに掃除をしてくれているのだろう。いつ帰るとも知れぬ主人のために。

インターフォンで対応してくれた有澤や、出迎えてくれた入谷を思い出す。彼らはこんな情けない小娘に、最大限の礼を執ってくれた。主人として、扱ってくれた。

それを想うと胸が熱くなる。

込み上げるものを堪え、私は勉強机の引き出しに手をかけた。

引き出しの中には綺麗に整えられた筆記具と、iPodが入っていた。当時の私がよく聴いていたそれは、もう既に充電が無くなって電源は点かない。

そんな当たり前のことを確認し、私はiPodを鞄に入れる。今回、実家に帰った目的の一つはこれなのだ。


この中には、私の過去が入っている。


自分を飾ることに精一杯だった私の心が入っている。飛び出した時に置き忘れたそれは、私が前へ進むのに必要なものだ。

「…壊れて砕けた恋は、夏の海に流してしまえ」

呟いたフレーズに、音を重ねていく。


壊れて砕けた恋は 夏の海に流してしまえ

そう笑う横顔に まだ近づけないけれど

あと少しだけこのまま

白い波が見えるまで


ほんの少しレトロな、柔らかなタッチの曲。

当時の彼氏が歌ってくれてから好きになった曲。

口ずさんでしまえば、勝手にメロディが零れ出して部屋に広がっていく。

こんな風に、かつての私も歌っていた。好きだったのだ、彼が。

初めて本気の恋をして、だから自分を知ってもらいたくなった。嘘を吐いて一緒にいたくなかった。


好きだったから、拒絶されて心が砕けた。


好きだったから、次の恋ができなかった。


この場所が、この曲が、大人になった私に教えてくれる。

失恋したことが、全ての始まりだった。

全てを捨てたくなるくらいの衝撃があったから、私は自分を知ることができた。

そう思えば、これも必然だったのだ。

見失っていた自分を知るために、意固地になって守ってきた幻影を打ち崩すために、必要だった。

心に凝っていた滓がゆっくりと流されていく。その後に残ったのは、柔らかくて温かい大地だ。秋野さんの瞳と同じ、焦げ茶色の肥沃な土が、新しい芽吹きを待っている。


「もう私は大丈夫」


ここに来て分かったことがある。

自分の心を縛っていたのは、両親でも、家名でも、馬鹿なことをした過去でもなく、自分自身だった。自分が、勝手に自分を偽り、不幸な自分を作り出していた。

きっと両親との関係は良好にはならないだろう。ここで暮らすこともない。

けれども捨てようとは二度と思わないだろう。ここは私の故郷で、自分の原点だから。


晴れやかな気持ちで部屋を出て、私は玄関に向かう。今日のうちに帰りたいと理由が私にはあった。

玄関ホールに辿り着くと、そこには入谷と有澤の姿があった。

「多江お嬢様。お久しぶりでございます」

有澤の言葉に、私は小さく微笑む。

「本当ね。…ごめんなさい。あなたにはとても迷惑をかけたわ。下宿先を探してくれたり、色々な手続きをしてくれたり…私の貯金から学費を落とせるようにしてもらったり。本当にどれだけ感謝しても足りないわね」

世間知らずな小娘が、一人暮らしを始めるに当たって、全ての準備をしてくれたのは有澤だ。

有澤は目尻を下げながら、小さく首を振る。

「あれは全て、以前より旦那様に頼まれていたことでしたから」

「お父様が?」

「旦那様は、多江お嬢様が家を離れたいと思っていることをご存知でした。その時はきっと両親に頼ろうとしないだろうとも、仰っておりました」

その言葉は俄に信じがたいものであったが、先ほどの様子を思い出せば、強く否定をする気持ちも起きない。

「私が家を出ることに誰よりも反対したくせに」

誰よりも激怒して、誰よりも反対した。もしも有澤の言ったことが本当ならば、父はとんでもなく天邪鬼だ。

有澤は小さく笑い、そしてちらりと階段の上に目線を向ける。そこには誰もいないのに、有澤には何かが見えたようだ。

「父に直接お礼なんて言いたくないから、この話は聞かなかったことにするわ」

息を大きく吐き出すと、有澤と入谷の笑みが一層深くなる。その優しい眼差しに、胸がふわりと温かくなった。

「じゃあ、二人とも。私はまたしばらく帰らないけれど、体に気をつけてね。それとあの人たちをよろしく頼むわ」

あのどうしようもない人たちは、やっぱり家族だから。

そう呟くと、二人は軽く腰を折った。

話は終わったと、玄関を出ようとした私に、突然入谷が一つの包みを渡してくる。

受け取れば、ずっしりと重たい箱で、私は思わず入谷の顔を見つめてしまった。

「これは?」

「奥様から多江お嬢様に、と」

中身は分かっているようだったが、答えないところを見ると、後で自分の目で確かめろということらしい。

「そう…ありがとう。ではごきげんよう」

「いってらっしゃいませ」

その言葉を背に、私は邸を出た。外はもう薄暗く、吹き付ける風が冷たい。

足早に庭園を抜け、門を出ると、頼んであったタクシーが停まっていた。

それに乗り込んで、私は駅へと向かう。明日は完全オフだ。急がなくたって大丈夫なのは分かっているのに、早く帰りたくて仕方ない。


早く、秋野さんに会いたい。


急かされるようにロータリーでタクシーを降りると、人波に流されるように駅の南口に向かう。休日ではあるが、やはりこの時間ともなると、人は多い。

改札口でICカードを通そうとした時、誰かが私の名を呼んだ気がした。そんなはずはない、そう思って改札口を通ると、今度ははっきりと私を呼ぶ声が聞こえた。


「多江っ!」


振り返った私は、その人物を認識した瞬間、全身から血の気が引くのを感じた。


そんな、まさか。


どうして、ここに?


疑問が思考を埋め尽くし、帰り路の邪魔になっていると理解しているのに茫然とするしかなかった。

そこには、会いたくて会いたくなくて、一番向き合いたくない…けれども一番向き合わなければいけない人がいた。

記憶の中の姿よりもだいぶ大人びた。でも、面影はたくさんある。


「ナオ…」


私が初めて本気で恋をした人。私の心を壊した人。

もう二度と会えないと思っていたのに。



お約束といえばお約束の展開。とりあえず多江の変にお上品なところは育ちが大きく関係しています。

あとは、トラウマの原因と向き合うだけ。

次で最終です。

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