番外編~美人の定義 第12話~
秋物のコートでは寒さを感じるようになった頃、街に初雪が降った。温暖な地域ではあるが、時折こうして微妙に時期を外した雪が降ることがある。
粉雪よりも塊は大きいが、牡丹雪というには小さいそれは、積もることがほとんどない。かろうじて街路樹にうっすらと乗る程度だ。
「最近寒いなと思ったら、風花が舞ってるじゃない」
黒いネックウォーマーに顔を埋めて、瑞希がぼやく。
彼女の今日の格好は、メンズライクなモスグリーンのモッズコートに、黒のスキニー、焦げ茶色のラインマンブーツ(お兄さんのお下がりらしい)。さらに先週ばっさりと髪を切ってショートボブにしたことと、化粧気のない幼い容姿が相俟って、どこからどう見ても美少年にしか見えない。
華奢な体だけれども上背があるためか、ちょっと線の細い男の子に見えてしまう辺りが恐ろしい。お陰で先ほどから、すれ違う女の子の視線を頂戴するはめになっている。
「今日は冷えるって話だったから仕方ないわよ。それより、彼氏とのデートは良かったの?」
2コマ目の授業で会ってからずっと、瑞希はふくれ面で地面ばかり睨んでいる。昨日、彼氏とデートだと嬉しそうに言っていたのに、一転この調子だ。挙げ句に色気のない服装と来れば、デートが流れてしまったのは容易に想像できた。
瑞希はちらりと私を見、そしてまたネックウォーマーに顔を埋め直す。態度は機嫌が悪いと言わんばかりなのに、目は赤くて涙が溜まっているのがなんとも滑稽だ。
「…もう、可愛い顔が台無しね。次の講義は、友里亜たちに代返頼んじゃいましょう。そんな状態じゃ、講義どころじゃないでしょ?」
「…うん」
「さ、そうと決まればカフェテリアに行くわよ」
友里亜に代返をお願いするメッセージを送り、今にも泣きそうな瑞希の背に手を添えた。モッズコート越しに触れた背は華奢で、肩甲骨の形がはっきりと分かる。
黙ってこくりと頷いた彼女を押し、私たちは学内のカフェテリアに向かうことにした。カフェテリアは学生課の東にあり、学生よりも職員が利用している姿を見かける。この時間帯なら恐らく空いていることだろう。
文学部の棟から学生課までの道を歩きながら、私は秋野さんを思い出していた。
初めて秋野さんが私の部屋に泊まった日から数週間経つが、なかなか会えない日が続いている。彼の仕事柄、クライアントの都合で動くことが多く、時には休日を返上することもあるのは理解している。
けれども、会えない日が続けば、自然と不安が沸き上がってきて、体ごと愛されて満たされた心が、萎んでいく。社会人と学生では事情が異なることは頭では理解しているのに、募る淋しさはどうしようもない。
それでも我慢して、電話では気丈に明るく振る舞い、彼を励まし応援する。…本当は秋野さんが私に飽きて、距離を取ろうとしているんじゃないかという、心の声に耳を閉ざしながら。
「恋するって、なんでこんなに辛いんだろう…」
突然、瑞希が口を開く。私の気持ちを代弁したような言葉に、思わず呼吸が止まる。すべてを見透かされているのかと不安になるほど的確な言葉はしかし、どうやら独り言だったようで、瑞希は鼻をぐずぐずさせながら、俯いていた。
私たちはどうやら同じ悩みを抱えているみたいだ。
私は瑞希の頭に手をやって、そっとその頭を撫でてやる。
「恋するって、悲しみや淋しさを知るためにするのかもしれないわね」
恋するのは幸せなことばかりじゃない。一人だったら知らなかった胸の痛みや、叫び出したくなる衝動、そして押し潰されそうな孤独感を教えてくれる。
私の言葉に、今まで俯いていた瑞希が顔を上げて私を見た。真っ赤になった目はまだ潤んでいて、すぐに決壊しそうな様子だ。
「恋って本当にままならないわよね。それでも捨てられない。辛くても悲しくても、相手のことが好きだから」
「多江…」
「瑞希の気持ち、私も分かる。私だって…恋してるもの」
目元を緩め、口角を上げれば、瑞希の顔がくしゃりと歪んだ。大きな目からは涙が溢れ出していく。
「多江…っ!わた、私っ」
細切れの声に嗚咽が混ざる。幼い子のように泣く瑞希の体をしっかりと抱き締め、私は盛大に泣き始めた彼女に胸を貸した。
買ったばかりのハイネックのニットワンピースが涙を吸っているのが分かったが、そんなことは二の次だ。今は泣きじゃくる瑞希を落ち着かせなければならない。
カフェテリアに行くのを諦め、瑞希を誘導して近くのベンチに座らせた。
「瑞希、少し落ち着いた?」
泣き声が収まってきた頃を見計らって彼女の顔を覗き込むと、彼女の目は白兎ほど赤くなっていたが、涙は消えていた。私はハンカチを取り出して、乾いて頬に張り付いた涙の残滓を拭いてやる。
「…ありがと」
泣きすぎて嗄れた声が弱々しく響くが、先ほどよりも落ち着きを取り戻していることが窺えた。
思わず安堵の吐息を漏らすと、瑞希が小さく笑みを浮かべた。
「私、多江のその笑顔、やっぱり好き。ホッとする」
「そう、なの?」
「うん。温かくて日だまりみたいだもの。…ごめんね、突然泣いたりして。多江と話してたら我慢できなくなっちゃった」
おどけたような口調には、恥ずかしさが滲んでいる。照れ臭そうに前髪を手で撫で付け、瑞希がまた微笑む。
まだ大人になりきれていない無垢な笑顔に、少しだけ憂いが混ざる。いつもと違う、大人びた表情にどきりとしながらも、私は瑞希の手をそっと握った。今の彼女に何を言っても、陳腐にしか聞こえないような気がしたし、たぶん彼女が求めているのは言葉ではないような気がしたからだ。
僅かな間に訪れた沈黙は、瑞希が鼻を啜る音で掻き消える。その様子は泣き止んだばかりの子供のようだ。
大人っぽい雰囲気はすっかり消え去り、残ったのはいつもの瑞希で。その落差に思わず笑みが溢れてしまう。
「何で笑ってるの?」
「何もないわよ。ただ、瑞希が可愛らしかったから」
思ったとおりのことを告げれば、瑞希の頬が不満げに膨らむ。見方によってはあざとい仕草だが、彼女が嫌みのない無邪気さが前面に出てくるから不思議だ。
「多江の言ってること、意味不明…」
ぶつくさ言うその表情は先ほどより幾分か穏やかだ。
私は笑みを深くすると、瑞希の頭を撫でる。
「良かった。いつもの瑞希になったわね」
感情表現が素直で、情に脆い。天真爛漫という言葉が似合うのにその実、気遣い屋で誰よりも繊細だ。
その場を明るくするために道化にもなるし、ワガママを言って誰かの否を打ち消したり、本当によく人を見ている。少々度が越えることもあり、トラブルメーカー気質であることも否めないが。
「で、どうしたの?彼氏とケンカ?」
本来はこんな所で聞く話ではないのだろうが、幸いなことに人通りは少ない。
ストレートな質問に、瑞希の眉間に一瞬皺が寄る。
「今日、本当はデートだったんでしょう?…だって、今日は」
「いいの、もう」
私の言葉を遮って、瑞希が大きな声を出す。苦しそうな表情は何故か、何かを決意しているようにも見える。
「瑞希、」
「私と篤史の家って、ご近所さんなんだ。歩いて5分くらいの場所なの。幼馴染で、仲の良い友達同士で。でも私は小学生の頃からずっとアイツが好きだった。
篤史は昔から外見が整ってたし、文武両道だったから、本当によくモテて。対して私は女の子らしくなくて、すぐ手や足が出て、当然ケガだらけで」
小学生の頃の瑞希は知らないが、その様子は私にも想像できた。男の子に混ざって走り回る、活発な少女だったのだろう。きっと男の子たちには良い友達、女の子たちからは憧れの王子様的存在だったに違いない。
「そんな私なのに、篤史のことが好きになった。でもずっと言えなくて、友達の一人でいるのが精一杯で。…これでも女の子らしくしようと努力したのよ。ダメだったけど。
そうこうしているうちに中学生になって、篤史に可愛い彼女ができた。私はそれを見ているしかできなかった。
相変わらず私と篤史は友達同士だったから交流はあった。だから『一緒の高校に行こう』って、そんな約束もしてた。だけど、篤史が彼女といる姿を見るのが辛くて、私は逃げたの。
高校受験の日、間違ってると分かる答えを答案に書いて出したんだ。私たちが受験した高校は、地元でも有名な進学校だったから、そうすれば落ちることが分かっていてね」
「それで、高校は別の所になったの?」
その問いに、瑞希がこくりと頷く。
「離れて、このまま篤史への気持ちが消えてしまえば良いって、本気で思ってた。その頃には篤史に2番目の彼女ができていて、もう心も折れてたから。
会わなくなって、少しずつアイツを思い出すことも減ってきて、やっと前に進めると思ってた。
なのに、無理だった。高校2年の時に私にも彼氏ができたんだけど、いざキスをしようとなったら、嫌だって思っちゃったの。篤史じゃなきゃ嫌だって…酷いこと思ったの。
結局それがきっかけで別れることになって、私は全然前へ進めてなかったって気づかされた」
ぽつりぽつりと話す言葉が、私の胸を刺す。秋野さんへの想いから逃げようとしてた頃の自分と、瑞希の苦悩が重なって、じわりと胸に痛みが広がっていく。
瑞希はぎゅっと目を閉じると、息を吐いた。
「もう二度と、恋はできないって思った。もう恋なんかしたくないって思った。
大学が一緒だったのは、本当に偶然。入学してから知ったの。学食で声をかけられて、それで。再会したときにね、やっぱりドキドキして、昔と何にも気持ちが変わってなくて。
だから冗談ぽく『彼氏になって』って言ったら『良いよ』って言われて。
最初信じられなくて、でも嬉しくて。篤史の気持ちも考えずに浮かれて、そうやって1年以上付き合ってきた。
手を繋いだりくらいはするけれど、それ以上はなくて、友達の時みたいに気安い関係だったから、不満がなかったと言ったら嘘になる。でもそれよりも篤史といられるのが幸せで、失うのが怖くて何も言えなかった」
「瑞希…」
「昨日ね、今日のデートのキャンセルされたんだ。バイトの交代を頼まれて仕方なくて、って」
空元気が丸分かりな明るさが痛々しい。
私は膝に置かれた瑞希の右手を、そっと両手で包み込んだ。
「多江、ありがとう。…今日さぁ、私の誕生日なの。アイツも知ってるはずなのにね。
そりゃあ、篤史って頼まれたら断れないところはあるし、良いヤツなんだよ。だから今回だって断れなかったんだと思う。でも今日くらい、私を優先してくれたって良いのにね」
掠れた声に涙がまた滲み始める。
「デートをキャンセルされた時、瑞希は篤史君に何て言ったの?」
「『分かった』って言った」
「え?それだけ?デートできなくても、少しでも会えないのか聞かなかったの?」
女に二言はない、と豪語する彼女だから、彼氏を詰ったとは思っていなかったが、そこまであっさりと引き下がったとは知らなかった。
瑞希はぐずりと鼻を啜り、そして頷いた。
「デートをキャンセルされたってことは、私はそんな程度の相手だってことじゃないの。ぐずぐずワガママ言ったって仕方ないもん」
その言葉に私は深く溜め息を吐いた。
瑞希の諦めの早さは長所であり、同時に短所だ。
「あのね、それはワガママじゃないよね?ちょっとでも会いたいって言うのは悪いことじゃないよ。…もしかして、今までもずっとそうだったの?」
この様子では、瑞希は物分かりの良すぎる彼女をしてきたのだろう。彼氏からしたら複雑に違いない。遊びなら都合の良い女だが、本気なら彼女の気持ちを疑いたくなる。
「瑞希。篤史君のこと、本当に好きなんだよね?」
「当たり前だよ。篤史以外の人は考えられない」
閉じていた目を開け、質問に即答する瑞希の横顔には迷いがない。それだけで彼女の本気が伝わってくる。
私は小さく笑うと、瑞希の頬を軽くつねった。
「多江!痛い!」
「当たり前でしょ、痛くしてるんだから。
瑞希、今すぐに篤史君に会いにいきなよ。そして本当の気持ちを伝えてみて。そうすればきっと、瑞希の悩みは解決するよ」
1年以上付き合っていて、手も出さない彼氏。その段階で、遊びだなんて有り得ない。彼氏になることを了承しているのだから、友達だと思っているわけもない。
そこから導き出される答えは明白だ。彼氏も瑞希のことが好きで、大切に思っている。さしづめ、瑞希の気持ちが分からなくて、デートをドタキャンして様子を見ようとしたら、あっさりと了承されて戸惑っている…そんなところではないだろうか。
第三者から見たら、はっきりと気持ちを伝えないから起きてしまったすれ違いなのだが、瑞希の物分かりの良すぎるところが話をややこしくしている。
「今から?だって、バイト…」
「そのバイト先に行ってくるの。フラれたら慰めてあげるから、早く行ってらっしゃい。午後の講義は代返頼まれてあげる」
「でも…」
渋る瑞希を立ち上がらせ、私はその背中を押す。
「好きなら好きって言う。女は度胸でしょ」
振り返った瑞希ににっこりと笑い、そして拳を突き出した。瑞希はしばらく呆然としていたが、やがて眩しいばかりの笑顔になる。
「ありがとう!行ってくる!」
「頑張ってね」
「うんっ」
私の拳に自分の拳を当て、瑞希は校門に向かって駆け出していく。
その背中を見送り、私はベンチに腰掛け直した。
「…なんて、私もできてないんだけどね」
秋野さんに会いたくても、忙しい彼にワガママ言えないと我慢している。良い彼女を演じている。
物分かりの良すぎる彼女を、秋野さんはどう思っているのだろう。それを聞くのは怖い。このままでいたい。
けれど、そろそろ私も前へ進んでいかなければならない。
「そのためには、地元に帰らなきゃね」
逃げ出してきた場所に戻って、自分の過去を見つめ直す時が来たのだ。
年末に地元に帰ろう。
年末はきっと秋野さんも忙しくしていて、私にかまけている余裕など無いはずだ。日帰りもなんとか可能な距離であるし、ありがたいことに今はそれなりに貯金もある。
きちんと過去と向き合って、きちんと清算できたのなら。
その時は秋野さんに会いに行こう。そして、ワガママを言おう。
これからも傍にいてほしい、と。
そうと決まれば、準備が必要だ。とりあえず、来月のアルバイトのシフトを調整しなければならない。
私は立ち上がり、もと来た道を歩いていく。食堂で友里亜たちと待ち合わせだ。瑞希のことも少しだけ報告しておこう。
自分の過去から逃げてやってきた場所だけれど、思った以上に居心地が良くて、今ではかけがえのない場所。そんな場所ができたことを話したら、地元の皆はどんな顔をするだろう。
不安と期待が入り雑じって、不思議な心地がする。
いつの間にか雪は止んで、空は晴れていた。




