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番外編~美人の定義 第4話~

次の日、私はいつもと同じメイクをして、街に出ていた。

茜色、という言葉がよく似合う空は鮮やか過ぎて、目に痛い。

春になり日が延びてきたとはいえ、やはりまだ日が落ちるのは早い。家路を急ぐサラリーマンがちらほらいるが、どの人の影も長く伸び、レトロな街並みはオレンジ色に染まって独特な陰影を作っている。

街を歩いているうちに懐かしさと切なさと、言葉にしづらい想いが胸に押し寄せてくるのが分かる。この風景は感傷的な気持ちを連れてくるらしい。

泣き出したい衝動を堪え、建ち並ぶ店に目を向ける。

「ぼんやりしている場合じゃなかったわ」

吹き抜けた風に春物の桜色のコートの前を重ね合わせつつ、私は秋野さんが教えてくれた『ミモザ』という店を探すことに意識を集中させる。

昨日、秋野さんに会うと覚悟を決め、早速大学の講義の後に会いに来ていた。別に急がなくても良かったのだろうが、日を置いてしまったらまた会いに行くのが怖くなる気がして。そのまま勢いで街に出てしまった。


本当は、今も会うのは怖い。


でも、やっぱり会いたいから。


この不安定な気持ちの意味を、初対面なのに彼の前では自然体でいられた理由を、きちんと見つけたいから。


決意を新たに、私はセピア色の街を歩く。

歩き慣れた道なのにどうしてだろう、まるで初めて通る道のように不安が心を押し潰す。

トクトクと速いテンポで鳴り続ける鼓動を抑えながら、私は深呼吸をした。


大丈夫、私は私だ。


手のひらをそっと胸に当て、唇の端を吊り上げる。


「…あれ、宮藤さん?」

「え?」

道のど真ん中で不自然極まりない行動をとっていた私に、誰かが声をかけてくる。驚いて振り返れば、そこには目を丸くした秋野さんが突っ立っていた。相変わらず安そうなグレーのスーツで、背中には鞄を背負っている。

「え…っと、宮藤、多江さん…?」

零れ落ちそうなくらい目を見開いた秋野さんは、恐る恐るといった体でこちらを窺ってくる。そのぎこちない動きに、私は自分の姿が初めて彼と出会った時とは違いすぎていることに思い当たった。

「はい。宮藤多江です。先日はどうも。お言葉に甘えて会いに来ました」

努めて冷静を装い小さく微笑むと、秋野さんは少しだけ表情を緩める。

「…良かった。女の子って化粧で変わるっていうけど、あれって本当なんだね。一瞬宮藤さんだって分からなかった」

彼の口から紡ぎ出されたのは恐らく他意のない、無邪気さすら感じられる言葉。けれどもそれは私の心の傷に触れた。


秋野さんも、他の人たちと同じなのかな…。


卑屈な気持ちで作った笑顔は我ながらぎこちない。それでも笑顔でいなければこの場で泣き出してしまいそうだ。

「私の顔、化粧映えするんです。もう別人でしょう?」

指摘されるのが怖くて、私は自分からコンプレックスを吐露する。顔のことをもう否定されたくない、という心の動きが手に取るように分かる。

そんな私を見てどう思ったのか、秋野さんは何故かにっこりと笑いかけてくる。

「別人ってことはないでしょ。さらさらの髪の毛はそのまんまだし、目元や小さい笑窪とか…あと宮藤さんの猫みたいな雰囲気は一緒だよね、当たり前だけど」

現に俺は宮藤さんのこと分かったよ。

自慢げに告げてくる秋野さんの目は真っ直ぐで、嘘を吐いているようには見えない。

「それにさ、素顔は可愛いけど化粧すると美人って、すごく羨ましがられるだろ?お得感がハンパない」

「は?」

「だって、そうじゃない?ギャップ萌えっていうの?なんかグッとくる気がする」

変わらない笑顔で力説してくる秋野さんを、私は口をポカンと開けて見つめてしまった。


この人、何を言ってるの?


自分の顔について否定されなかったことへの喜びより、予想外の反応に困惑が勝る。


というか、秋野さん…ちゃんと私に気づいてくれたんだ。


見た目が違いすぎて気づかれないか、本人だと言っても信じてもらえないか。きっとどちらかだろうと思っていただけに、その驚きは大きい。

トクトクと鳴る心臓の音がうるさくて、それなのに何故か心地よい。

「気づいてくれたの、秋野さんくらいですよ。後ろ姿に声をかけて、振り返った私に『人違いでした、すみません』って言う人多いから。だから、気づいてもらえて嬉しいです」

熱くなった頬を隠すように俯くと、秋野さんがクスリと笑った気配がした。

「そっか。…で、ミモザの前にいるってことは俺に会いに来てくれたってこと?」

「え?」

その言葉に顔を上げ左右を見遣れば、右手に『Mimosa』と書かれた看板がかかったレトロな店があった。色褪せた壁が何とも不思議な風合いで、まるで古めかしいヨーロッパの建造物にも思えてくる。


小説に出てくる建物って、こんな感じなのかな。


私はアーサー・コナン・ドイルの小説を愛しており、常々ヨーロッパ、特にイギリスに並々ならぬ関心を持っている。自慢ではないが私はホームズフリークで、この夏イギリスへ、ホームズの足跡を巡る旅を敢行しようと考えているくらいだ。

「素敵なお店…」

ほろりと滑り落ちた呟きに、秋野さんの纏う空気が一気に柔らかくなる。

「そう言ってもらえると嬉しい。俺もここが好きなんだ」

目線を秋野さんに戻すと、彼の優しい眼差しとぶつかった。その瞬間、心臓がトクリ、とまた音を立てる。

「とりあえず、入ろうか。中もレトロで味があるから」

「はい」

促されるまま、私は店内に足を踏み入れると、続いて秋野さんが入ってきた。

フロアに続く短い廊下にはガス灯を模した灯りがいくつか設置されており、仄暗い空間に柔らかい独特の光を落としている。それがまたヨーロッパの夜の街を彷彿とさせて、私はその美しさにひとり感動を覚えた。

ムーディな雰囲気に酔いながら、会計を向かって右に曲がるとすぐにフロアに出る。そこには4人掛けの席が4つに、カウンター席が3席あり、こじんまりとした空間が広がっていた。

まだ早い時間だというかともあるのだろう、まだ店内には客がおらず、雰囲気を壊さない古いナンバーのジャズが流れている。

「宮藤さん、こっち」

ぼんやりと立ち尽くす私を、秋野さんはカウンターへと誘導していく。

さりげなく引かれた椅子に私が慌ててトレンチコートを脱ぐと、秋野さんは当たり前のようにそれを引き取ってくれた。あまりに完璧なエスコートに、椅子に座らされた私はポカンと秋野さんを見上げた。

「ん?どうした?」

「完璧なエスコートでビックリしました。どこかで習ったんですか?」

「あぁ…幼馴染がこういうの好きだから。無理矢理覚えさせられてさ。しばらく使ってなかったけど…案外体が覚えたものって忘れないみたいだ」

ふわりと微笑むその表情がとても優しくて、なのに少し淋しそうで。チクリと胸が痛む。

「そう、なんですね」

ぎこちない呟きは自分でも驚くほど掠れていて、泣きそうに聞こえた。

込み上げてきた何かを抑えるように、フレアスカートをきゅっと握り、唇の端を無理矢理持ち上げる。

できるだけ自然な笑顔を、いつものような笑顔を作らなければいけない。そうしなければ、自分の裡に広がる動揺が表情に出てしまいそうだ。

秋野さんはそんな私に、今度は困ったように眉を少し下げてみせる。

「あの、さ「道治!いらっしゃい!!」」

何かを言いかけた秋野さんの声を遮って、小鳥の囀りみたいな声が飛んでくる。次いでカウンターの奥から、小柄な女性が出てきた。

「…ひかり」

「道治、今日も早いんだね!最近どうしたの?」

軽やかな声のイメージを裏切らない可愛らしい女の子が、無邪気に秋野さんへ笑いかける。秋野さんは一瞬、眩しそうに目を細め、そして仕方なさそうにはにかんだ。

「あのさぁ、そのテンションで店に出てくんなよ」

「まだ開店前だし、道治が相手だと気を遣わなくて良いから仕方ないもん」

「言ってることがおかしいから。俺にも気を遣えよ」

そう笑って女の子の額を指で軽く弾く。

「いたっ!道治ひどい!」

「ひどくない」

額を押さえて涙目の彼女に、秋野さんの目が甘く緩む。それはまるで愛しいものを見つめるような、恋人に向けるような眼差しだ。

親しげなやりとりと秋野さんの表情が、全てを物語っている気がして、いたたまれない気持ちになりながら、私はただそれを傍観した。


秋野さんはこの子が好き、なんだろうな。


そう考えた瞬間にチクン、と胸が小さく痛む。私はそっと自分の胸に手を添え、その痛みをやり過ごした。今感じたことに向き合ってしまえば、私はそこに隠れている意味を認めざるを得ない。


秋野さんのことが好きだなんて。


気づいた瞬間に失恋することが分かっていて、それでも誰かを好きだと言えるほど私は強くない。


自分の心に蓋をして、いつもみたいに澄ました顔をしていたらそれで全ては元通りだ。傷つくことも、悲しむこともない。だったら大丈夫だ。私は『私』を演じるだけなのだから。

「秋野さん。可愛らしい方を独り占めしたいのは分かるけれど、良ければ私にも紹介してくれませんか?」

唇の端を持ち上げ、目元をほんの僅か弛ませる。慈愛に満ちた微笑みだと過去の恋人たちが絶賛した笑みを作れば、自分の中に余裕が生まれてくるのが分かった。演じている時だけは本当に自然と、私は女優のようにいくつも顔をすげ替えることができる。

自分らしくあれた理由を知りたくて会いに来たのに、私は秋野さんに造った『私』を見せているなんて滑稽すぎて笑えない。

「あ、ごめん。紹介しなきゃいけなかったね。こいつは土屋ひかり。ミモザの跡取り娘で俺の従妹、でもって幼馴染み。短大卒業してからここで働いているんだ。一応今年で21歳になるんだけど、全然落ち着きがなくて」

私の問いに、やっと私を思い出したらしい秋野さんがそう彼女を紹介してくれる。次いで彼女がぺこりと頭を下げた。

「土屋ひかりです。よろしくお願いします」

ひかりという名前が似合う元気な声と、顔が上がった時の笑顔の輝きに、私は笑みを深くする。

「可愛らしい名前ですね。秋野さんは落ち着きがないというけれど、名前のとおりその明るさが周りを照らすようで素敵だと思います。

私は宮藤多江といいます。そこの大学の2年生です。こちらこそよろしくお願いします」

「宮藤多江さん、ですね。…大学2年生なんて嘘みたいに大人っぽいです。すごく綺麗でびっくりしました。不躾ですけど、道治の彼女さんですか?」

興味津々な様子に私はゆるゆると首を横に振る。

「違いますよ。お会いするのもこれが2回目ですから。…私は土屋さんが秋野さんの彼女だと思っていました。とてもお似合いだったから」

正直な感想を伝えれば、彼女と秋野さんが同時に赤くなった。そして慌てた風に土屋さんが右手を振る。

「そんな!勘違いです!私と道治は兄妹みたいに育ってきたから…。それに私、婚約者がいるんです」

「え?婚約者?」

予想外の言葉に驚く私に、秋野さんが補足をする。

「ひかりは来年の夏に結婚するんだ。俺の妹の、中学の同級生の兄貴とね。ほら、前に妹が入院してるって言ったの覚えてる?」

「はい」

「妹の彼氏がよく見舞いに来てるんだけど、そこにたまたま兄貴も一緒に来て。で偶然ひかりと会ったんだ。そしたらなんとお互いに一目惚れ。そのままゴールインってわけ」

苦笑混じりの説明はどこかおどけた感じにも聞こえるけど、目は今にも泣きそうに揺れている。それに気づいていない土屋さんは恥ずかしそうに俯いた。

「8歳年上で、正直私じゃ釣り合わないくらい素敵な人なんです。でも彼が、こんな私のことが好きだと言ってくれたので」

幸せに満ちた声がどうしてか妬ましく感じて、私は歪みそうになる口元を必死で吊り上げる。

全てを受け入れてくれる男性と出会えたことに対する嫉妬、秋野さんの心を奪っていながらそれに気づかない鈍感さへの憎しみが混在して、自分でも驚くほどのどす黒い何かが胸の裡で渦巻いていく。

「おめでとうございます。ドラマのような素敵な出会いがあるんですね」

「ありがとうございます。私も驚いているんです。でも今、とても幸せです」

にっこりと笑う土屋さんの顔は自信に満ちていて、それが彼女をより美しく見せていた。

羨ましい。そうぼんやりと思った。

どれたけの時間が経っただろう。レジの方から何人かの話し声が聞こえてきて、店内に客が入ってきたのが伝わってきた。それに気づいた秋野さんが土屋さんの頭をぽんと叩く。

「…ひかり。惚けるのは構わないが、俺たちは今日客として来てるんだから、そろそろオーダーしてくれないか。混み始めたらゆっくりできないだろ」

秋野さんの言葉に、土屋さんが目を何度か瞬かせ、そして表情を引き締めた。

「これは失礼いたしました。お冷やをどうぞ。メニューはこちらになります。本日のディナーのメインは肉料理が牛のほほ肉の煮込み、魚料理がスズキの香草焼きになります」

「ありがとう、俺は肉料理な。宮藤さんは?」

「私は魚で」

軽いやりとりの後、土屋さんは頭を下げて調理場へと消えていった。

土屋さんがいなくなると秋野さんも私の席の隣に座り、小さく息を吐いた。

「騒がしい奴でごめんな。ひかりは小さい頃からあんな感じなんだ」

心底呆れたという風を装って笑いながら、秋野さんは私に目を向けてくる。その瞳には仄かな熱が残っていて、土屋さんへの想いを投影しているようだ。

私は目元を下げて微笑む表情を作る。

「土屋さんは可愛らしい方ですね。小さい頃から一緒にいたのに、他の人に土屋さんを取られちゃって…秋野さん、淋しそうですよ?」

冗談ぽく目配せをすると、秋野さんは肩を竦める。

「今まで一緒にいるのが当然だったし、そうだなぁ…淋しい、かな」

「ふふ。そんな切なげな言い方すると、彼女のことが好きだって言ってるみたいに聞こえますよ」

さりげなく核心を突くと、秋野さんが目を丸くして、そして頬を染めた。

「もしかして、バレてた?」

「はい。…大丈夫てすよ、土屋さんは気づいていないと思いますから。けれど、良いんですか?土屋さんの結婚」

「うん、良いんだ。あの人は良い人だし、俺じゃ敵わないから。もう諦めてるよ」

泣きそうな顔で笑う秋野さん。今も彼女を愛しているんだと分かる表情に、胸が苦しくなる。

本当は諦められないくせに。

「嘘つき」

気づけば私の唇から、言葉が滑り落ちていた。驚いた様子の秋野さんが、私を凝視しているのが映る。

「諦められないくせに。諦めるなんて、無理なんでしょう?」

きっと長い間、彼女に恋をしてきたのだろう。彼女のためにエスコートの仕方まで覚えるほどに、深く愛してきたはずだ。

想いを殺して生きるのは、この人に似合わない。何故かそう思う。

秋野さんはぎゅっと拳を握りしめ、そして感情を押し殺すように掠れた声で呟いた。

「…っ!諦められないに決まってるだろ…!でも仕方なかった。もう遅いんだから」

血を吐くような声音に、胸がチクンと痛む。

やっぱり私は土屋さんが羨ましい。こんなに秋野さんに愛されている彼女が羨ましくて仕方ない。

「それなら、諦めなくて良いじゃないですか。彼女に何も告げてもいないのに、どうして遅いと言うんですか」

「え?」

「まだ間に合います。私、秋野さんの相談に乗りますから。だから、泣きそうな顔で諦めるなんて言わないで」

その表情を見ているだけで、息ができないくらい苦しい。けれどもそれを見せることをしてはいけない。

できるだけ無表情に、淡々と紡ぐ言葉。

何を良い子ぶっているの、と誰かが耳元で囁く。優等生の仮面の次は恋の成就を助ける親切な女友達の仮面を被るのか、と嘲笑う声すら聞こえてくる。それが全て、自分の心の声だと分かっている。けれど、私はそれを全て無視して微笑んだ。

「私、これでもモテるんです。恋愛相談くらい、なんてことないです」

「宮藤さん…」

「任せてください。力になりますから」

胸がキリキリと痛む。もしもそれが実体化するなら、私は血塗れになっているのではないだろうか。

「………ありがとう」

しばらくの後、小さく聞こえた返答に、私は頷く。

「頑張りましょうね」

明るく返した声と裏腹に、気持ちが沈んでいく。


また、私は自分を偽るしかないんだな。


秋野さんの前で自分らしくあれた理由。それは、秋野さんが私を良くも悪くも特別扱いしなかったからなのだ。秋野さんの中に土屋さんがいて、私に向けられたものが妹に向けるような優しさだったから、私は自然と受け入れられたのだと思う。


秋野さんが私に求めたのは、恋情なんかじゃない。


それが分かっているから、私は取り繕うことをせずに済んだ。

けれどもこれからは違う。

離れたら良いのに、私は秋野さんの傍にあることを選んでしまったから。傍にいるためには、自分を偽るしかないのに。

焦がれる想いを隠して、私は秋野さんの傍にいる。ううん、傍にいたい。

傍にいたいから、仮面を被る。


絶対に仮面が剥がれ落ちませんように。


そっと願って私はグラスの水を一口飲んだ。冷たい水が喉を通り抜けるのを感じなから、自分の今後に思いを馳せた。







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