『加速する拳』15
イシュタルの食堂出入り口近くに売店がある。ここではインスタント食品から文房具に至るまで様々な雑貨品が揃えてあり、在庫にない物でも注文をしさえすれば大抵は三日とせずに届くため、便利な調達屋として魔法少女や職員たちに重宝されている。
店主はカウンター奥の椅子にいつも腰掛けている女性、鶴喰里歌。
売店の店主と魔法少女のマネジメントを兼任するという激務に身を置きながら常にカウンターに待ち構えている彼女は、どんな仕事も人知れずこなす経験豊富なイシュタルの御意見番として皆の信頼を集めるようになっていた。
買い物とは別に人生相談を持ちかけにくる魔法少女が、今では売店の主なユーザーだと専らの評判である。
魔法少女・シルヴィアは、イシュタルのあまねく魔法少女たちに知られし鶴喰里歌と会話と交わしたことが殆どない。そもそも売店に訪れることも少なく、訪れてもせいぜい軽食品を一つ二つ買っていく程度だった。しかし今、シルヴィアは初めて購買に雑貨を注文しようとしていた。
「……注文がしたい」
「あらー、珍しいですねー。何を仕入れて欲しいですかー?」
「…………を」
「はてー? 聴こえませんでしたー。もう一度言ってもらえますー?」
「……」
淡白な物言いに定評のあるシルヴィアが珍しく口ごもる。カウンター前に立ちすくむ姿は、これまでほぼ接点が無かった里歌の目にすら珍しかった。
判然としない二の句に里歌は首を傾げるばかりで、シルヴィアが欲するものの察しもつかない。
誰かが横から促してくれる状況でもなく、心なしか途方に暮れたように見える表情のまま凍りつくシルヴィア。獣同士の睨み合いが如く、互いの動向に傾注したまま鶴喰里歌とシルヴィアのあいだで時が止まるようだ。
やがて意を決したシルヴィアは、ほんのりと赤らむ頬を隠すように俯いて、ぼそりと呟いた。
「…………オカリナ」
「おかりなー? 笛ですよねー。はいー、調達しておきますねー」
「……お願い」
「はい~」
里歌の微笑みがほんの一瞬、意味深げな影を見せる。すると、事情を察せられてしまったと思ったらしいシルヴィアは、急ぎ足でその場を早々に立ち去ってしまった。
無論、意味深げな表情を見せたのは何てことのないハッタリだったが、シルヴィアのうぶな反応から逆説的に事情は察せた。
カウンターに頬杖を突いた里歌は、誰に告げるでもなく呟く。
「若さですねー」
会議を済ませた相模刑事が自身の住居に戻ってから数十分。ようやく休息の時を得た朱莉は、浴室で一人シャワーに打たれていた。
浅く日焼けした健康的な肢体を水滴が流れ落ちていく。水滴の流れるさきには、厳めしい面持ちの龍がいた。
朱莉の背中に大きく描かれた青龍の刺青。その物々しい眼光が鏡越しに朱莉を睨み付け、その場に釘付けにする。
衣服を脱ぐたびに姿を現す龍は平面的な線の集合体でありながら、生ける朱莉の心に爪を立て、牙を剥く猛獣だ。一度目が合ってしまえば、眼光を遮られない限り決して動くことが出来ない。否、動くことを許されない。
「朱莉!!」
「っ…………!」
食い殺される――――そう思った矢先、浴室に入ってきた紗雪があわてて朱莉の背中を抱擁した。
紗雪の乳白の肢体が龍を覆い隠し、朱莉は総身を縛り付けていた緊張からようやく開放された。いつの間にか止まっていた呼吸が唐突に再開し、握り潰されそうな圧迫感を肺に感じる。
泣き出したいほどの怖気の中で、紗雪の体温だけが温かい。
「こんなこと、久しぶりですわね……急にどうしたんですの?」
「ごめん……寮の浴室と配置が違うから……不意に目が合ってさ」
「もう……わたくしが一緒にいること、忘れないで欲しいですわ。わたくしが朱莉の背中を守りますの」
「…………紗雪、顔見せて」
言われたとおりに紗雪が肩越しに顔を覗き込ませると、朱莉はすかさず唇を奪う。はじめは突然のことに驚いていた紗雪も、すぐに朱莉を受け入れて唇を啄ばみ始めた。
それからしばらくの間、シャワーから発せられるものとは別の水音が浴室に響いていた。
魔法少女ヒギリ×シルヴィア『加速する拳』 終