『加速する拳』12
救仁郷緋桐が吹奏楽部を退部したのは中学一年の冬のことだった。
それまでの彼女の演奏技術は賞賛を享受することもなく、さりとて特別咎められることもない、平々凡々を絵に描いたようなつまらないものだった。
誰に勝っているわけでもなく、負けているわけもない。しかし退部届を顧問へ提出するときの緋桐の胸中には、泥水のように混濁した敗北感ばかりが渦巻いていた。
合奏中における個人の失敗は、すなわち全体の失敗となる。失敗を繰り返す無能には常に冷たい視線が纏わりつく。憤慨、辟易、或いは冷笑。そんな感情の矛先を向けられたくないが為だけに、奏者たちは自虐的なまでの鍛錬を積む。ただひたすらに己を殺し、周囲と同化する。誰にも称えられず、誰からも非難を受けぬように。
――――そんな機械的な作業工程が音楽と言えようか。
緋桐には否定も肯定もできなかった。ただ窮屈さから逃げ出すことだけで精一杯だった。
自ら選んだ吹奏楽という舞台から逃げ出した事も、まるで上達する気配すらない演奏も、すべてが惨めで仕方がなかった。
対照的に、緋桐と行動を共にしたいという不純な動機だけで入部した高千穂ゆずはめきめきと頭角を現し、たちまち県でも有数の奏者として名を馳せるようになっていった。が、緋桐が退部届を提出したことを耳に挟むなり、後を追ってさっさと退部してしまったという。
緋桐が喉から手がでるほどに欲した能力も名声も、ゆずにとっては単なる道楽の一部に過ぎなかったのだろう。
それからしばらくの間、緋桐は何をするにしても憂鬱な気持ちから脱せなかった。
学業から開放された放課後のひと時も、数日前までは音楽室へ足を運んでいた時間帯なのだと思うと気持ちが沈む。
「一緒にいたいだけだから、べつに未練なんてさらさら無いわ」
安心させるつもりで向けてくれているのであろうゆずの笑顔が、心をいっそう濁らせる。悪意などこれっぽっちもない、ゆずなりの気遣いだと分かっているだけに尚重い。
いつもなら楽しくて仕方ないはずの帰り道の談話が、一つたりとて耳に入らない。
交差点でゆずと別れた直後、心にすっと解放感が広がり、追って自分への嫌悪感が影を落とす。大好きなものほど大嫌いになる自分はもっと大嫌いだ。
(私は何が好きだったんだろう……なんで好きになったんだろう……)
沈みかけた夕陽が、町に交錯する光と影を等しく濃くする。
ふと顔を上げてみれば、橙色に染め上げられた深閑たる路地に、長大な影法師が揺らめいていた。ほどなく影法師は崩れ落ちる。
女子中学生の通学路に現れた全身黒ずくめの人物など、見るからに不審でしかないが、しかし考えるよりも先に緋桐の足は駆け寄ることを選ぶ。
倒れていたのは殊の外小柄な少女だった。真っ黒なロングコートが影と重なり長大に見えていただけらしい。
ダイヤを散りばめるが如く爛々と照るプラチナブロンドの間に、白磁の肌が覗く。東洋人離れした、否、西洋においても稀であろう完璧な目鼻立ちの美少女だ。あまりに洗練されすぎたその面貌は最早マネキンのようですらあり、ストイックに絞られ起伏を欠いた肉体は刀剣のようでもある。背格好から、年齢は緋桐よりも2つほど下に見える。
そんな絶世の美少女が、住宅街に似つかわしくない黒尽くめの服装で、意識を失い倒れ伏している。どれひとつとして緋桐には理解の及ばない状況だった。しかし目の前で倒れている人を無視するわけにはいかない。
自宅に戻れば、ある程度までなら介抱できる。緋桐はあわてて少女を抱き上げ走りだした。
抱きかかえた少女の身体は殊の外軽く、本当に人形なのではないかとすら疑わせる。チューバを持ち運ぶのと大差ない感覚で、緋桐はさしたる苦もなく少女を自宅まで運び入れた。
居間のソファに寝かせると、いよいよもって高価な西洋人形にしか見えない。なまじ背景が賃貸アパートの安い畳と壁紙なせいで、分不相応な調度品に大枚を叩いてしまったような錯覚をする。
毛布をかけてやると少女の寝顔が幾らか穏やかになったような気がした。
少女の身体にはこれといった外傷もなく、出来ることもし尽くして緋桐は安堵とともに一息つく。
いわゆるハーフアップの髪型に纏められたプラチナブロンドが、窓越しの夕陽を受けてなおも煌々と輝いている。鏡面のようなその光輝に見入るうち、徐々に金管楽器のボディが重なって見えてきて、緋桐ははっと目を逸らした。
今や吹奏楽を思い出させるものにすら拒否反応を示してしまうようになった自分を省み、また寂寥に暮れる。
昔は音楽も楽器も大好きだった。大好きだからもっと奏でたい、触れていたいと思って吹奏楽部に所属したのに、いつの間にか何が好きだったのかすら忘れてしまっていた。
棚に飾られているオカリナ。長らく存在そのものを忘れ去られていたそれが、緋桐が音楽の道に興味を示すこととなった最初のきっかけだった。
そのオカリナはどんな一張羅よりも大切な相棒だった。技術もメロディーも気にせず自由奔放に吹き散らし、そのたびに至上の解放感と充足感をくれた。
置物同然の扱いになってしまったオカリナを数年ぶりに手に取り、埃を払う。ひんやりとした手触りが、緋桐を拒絶しているような気がした。
「……誰」
すぐ前方から発せられた声が、竪琴の旋律のように優しく耳朶を撫でる。視線を戻すと、目を覚ました少女がどことなく緊張気味な面持ちで緋桐の顔を覗き込んでいた。
「あっ、起きたんだ」
「…………ここはどこ」
「覚えてないの? 道端で倒れてたから、私の家に運んできたんだよ」
「……介抱を?」
「うん。大したことはしてないけどね」
「感謝する」
「……まだ無理はしないほうがいい、と思う」
「そう」
「…………」
「…………」
警戒を解いた様子の少女が、しかし更にまじまじと顔を見つめてくる。手持ち無沙汰を持て余す緋桐はよけいに落ち着けず、たまらず口を開いた。
「その……何か?」
「……何故泣いていたの」
「見られてた?」
「……すまない」
「あっ、謝ることないよ! ただ、単に個人的な悩みで……」
「……オカリナ」
少女の視線が、緋桐の手に握られたオカリナを捉える。不思議とすべてを見透かされているような気がした。
緋桐が抱える苦悩の原点は、確かにそのオカリナにあった。
こんな苦しみは今すぐにでも手放したい。悩み疲れた緋桐は、半ば押し付けるようにオカリナを少女に手渡していた。
「吹いてみて」
唐突な緋桐の言葉を受けて少女は数秒ほど固まっていたが、すぐに無言のままオカリナに口を付けた。
少女はどこかで聴いた昔の流行歌を奏ではじめる。リズムは安定しないし、ところどころ音程を外していて音色にも透明感がない。ひどく稚拙な演奏だ。
オカリナは吹奏楽の埒外だが、それでも緋桐のほうがまだ上手に吹けるだろう。
しかし少女の演奏には躍動感があった。
吹奏楽部に所属してから久しく忘れていた、自由で伸び伸びとした演奏。緋桐の思い描く理想の音楽を、少女はいとも容易く、無自覚のままに体現してみせたのだ。
――――私は一生、この子の演奏に勝てない。
折れる直前で何かにつっかえているより、いっそ一思いに折ってしまったほうが良い。このとき緋桐の心は、嫉妬や未練などの暗い感情と合わせて、気持ち良いまでに砕け散った。