第二視聴覚室
確かに夜はいつか明けるし、冬もその内春になるでしょう。 でもだからって、辛さや苦しみがいつか晴れるなんて言うのは、ただのこじつけにしか聞こえないの。 そもそも夜や冬を簡単に悪いイメージと結びつけるのは、軽率すぎる気がするの。 だからね、たけしがいくら駄目な男だからって、あなたたちが日差しを遮ってくれないカーテンを批判する権利はないんだよってこと。【フェーゼル閣下の日記より】
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【某年某月某日某所】
「おい、お前みたいな奴がいるから、海が汚れるんだよ!」
「え? 私ですか?」
今が何時何分何秒かは秘密だが、たけしは叫んでいた。それも、行き摩りの女(21)に。
「お前、自分が今何したか分かってんのか!? 『え? 私ですか?』って言ったんだぞ!?」
「は、はぁ……(え……? なになになになになになに? なんなのこの人!? 壺売り詐欺!?)」
年齢からは想像もつかないが、実はこの女、大学生である。それが今、たけしに絡まれているのだ。
たけしは言った。
「お前さぁ、『水』って知ってる?」
「み、水……ですか……? 知ってますけど……。(ほら、やっぱり! この人、水を入れる壺を買わせる気だわ! そうはいかないんだからっ!)」
「ホントに知ってんのか? 『お湯』が冷たくなった時に出来るアレだぜ?」
「知ってます! 私色々知ってます! 『氷』が溶けた時に出来るアレ、ですよね!?(やっぱり強気に出ないと! 迫力勝ちってやつよっ!)」
こうして二人の会話は続く。
「こ、氷……。お前、それを知っているとは……。やりよる。この女やりよるぞ……!」
「ふふん」
たけしが悔しがると、女は勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「……………………あっ。お前は知らないと思うけど、実は水って――」
「『水蒸気』にもなるのよね」
「…………」
「ふふふ……こんなの、欠伸が出るわね。ふわぁぁ」
『余裕の面を見せる女を前にして――勝てないかも知れない――たけしは人生で初めてそう思った』と、たけしは思った。しかし、これはたけしが見栄を張っているだけで、実際は今までに何度も同じ思いを抱いたことがあるのは、最早言う迄も無く分かるだろう。それほどまでに、たけしと読者の繋がりは深かった。
ところで、たけしはまた口を開いた。
「お前、壺とか持ってる?」
「えっ……?」
女は動揺した。
「お前、壺みたいなやつ持ってる?」
「な、ないわよ……。(どういうこと――はっ! これは『持ってない、そんなあなたにお勧めの』パターン……!?)」
女は油断していた。昨晩の徹夜がここへきて足枷となったのだ。そう、先ほどの欠伸は本気だったのだ! 読者はたけしとの繋がりが強かった。確かに強かった。しかし、女のことはまだ初見である。ゆえに気付けなかった。あれが本気欠伸だとは気付けなかった! ああっ、せめて二度目か三度目であれば……!
ところで、嘆いたところで何も始まらないことは、女も知っていた。しかし、時既に遅し……女はすっかりたけしのペースに乗せられていた。
「あんたが持ってるんでしょ? ほら、いくらなの? さっさと出しなさいよ」
ノリノリであった。
「…………そっか」
しかし、たけしは自分のペースに乗っていなかった。彼女の目に映る彼は、心底残念そうな表情を浮かべていた。
「ちょ、ちょっと、どうしたの? マンホールにでも落ちたの?」
「いや、違うんだ……」
この言葉を切っ掛けに、たけしが語り始める。
「俺、お前に勝てないんじゃないかって思ったんだ。もう、穴があったら入りたい、って。だから、お前が壺を持ってたら、何か知らの呪文とかで吸い込んで貰おうかなって。ホント、それだけだから……。マンホールはただの代替案だから……」
「もういい……もういいからっ! それ以上話すと、あなたの300メートル後方にいるおばあさんが泣いてしまうわっ。だからそんな顔でそんな話しないでっ!」
つまり女は叫んだ。しかし、幸いにもおばあさんの耳は遠かった。女の声は届かず、おばあさんは泣かずに済んだ。自らを完全無欠と評するおばあさんも、寄る年波には敵わなかったのである。
「それじゃあね」
「あっ……」
ぶっきらぼうに別れを告げ、たけしはその場を離れる(向かう先は自宅)。行き摩りの女(21)は、それを潤んだ瞳でいつまでも見つめ続けていたそうな。
「(壺売り詐欺師じゃなかった……)最初から分かっていたけど、やっぱり思った通り、いい人だったわね……。ふふん」
※この出来事が、かの有名な『創世の大乱』に繋がるとは、世の中の人みんな知る由もなかっただろうなぁと、思いました。