厨房にゴミはない 〜高級店を辞めた『残飯シェフ』と、カウンター十席の奇跡〜
【第1話:偽りの黄金と、本物の味】
午前五時。レストラン『アウレア』の厨房にいるのは、俺一人だけだった。
客席の黒く遮光されたガラス窓の向こうでは、東京で最も高級なこの街もまだ眠りについている。だが、俺のコンロの前にはすでに白い湯気が立ち込め、ローストした甲殻類の香ばしい匂いと牛骨の髄の香りが濃密に漂っていた。
俺は五十リットルの巨大な寸胴鍋四つの下に火を入れていた。
一つ目の鍋では、オマール海老のフォン(出汁)がゆっくりと静かに沸き立っている。二つ目は地鶏のブイヨン。三つ目は和牛の牛骨とスジ肉のフォン・ド・ヴォー。そして四つ目は野菜のブロード(出汁)だ。
これら四つの液体こそが、このレストランの心臓であり血液だった。
このベースがなければ、一人四万円もするデギュスタシオン(おまかせコース)の料理は、どれ一つとしてまともな味にはならない。
それなのに、午前十時になって他の料理人たちがアイロンの効いたコックコートを着て、精密ピンセットや寒天用の注射器、食用金箔の瓶を詰めたバッグを持って厨房に入ってくると、彼らにとって俺は「透明人間」になるのだった。
「おいレン、まだザルの中なんか漁ってるのか?」
網目の細かい円錐形の濾し器を使ってオマール海老のフォンを濾していた俺の背中に、オーナーシェフの秘蔵っ子である三十歳のスーシェフ(副料理長)、高木の皮肉っぽい声が飛んできた。
ステンレスの作業台の上には、寸胴鍋から引き上げたばかりの固形物が山積みになっていた。二時間煮込んだ二十尾分のオマール海老の頭、殻、割れた爪。十数羽分の鶏のモモ肉とガラ。牛骨にこびりついた端肉、そして柔らかく煮えた何キロものニンジン、セロリ、タマネギだ。
熱さに慣れた指先で、俺はオマール海老の爪や脚の関節を一つずつ割り開き、中に残っている白くて弾力のある身をすべて掻き出して、ほぐした鶏のモモ肉と一緒に清潔なステンレスのホテルパン(保存容器)へと分けていた。
高木は顔をしかめて近づいてくると、まるでウジ虫でも見るかのような目で俺の容器を覗き込んだ。その後ろでは、他のセクションのシェフ二人も鼻で笑っている。
「お前、自分で自分が惨めにならないのか?」
高木は包丁の切っ先で、作業台の下にある黒いゴミ箱を指差した。
「そいつは何時間も煮出した後のガラだぞ。タンパク質も旨味も、全部お湯の中に抜けきってる。ただの死んだ繊維、ただの『ゴミ(カス)』だ。貧乏人みたいに冷蔵庫にゴミを溜め込んでないで、さっさとゴミ箱に捨てろよ」
俺はオマール海老の殻から目すら上げなかった。
「脚の関節の奥までは、すぐには熱が通らないんだよ、高木さん」
俺は白くて香りのいい身の塊を綺麗に抜き取りながら、静かに答えた。
「それに、鶏のモモ肉にはまだコラーゲンも筋肉内の脂もたっぷり残ってる。フライパンでの火入れさえ間違えなければ、客席に出してるパサパサの胸肉なんかよりずっと強い旨味が出るんだ」
「はいはい、さすがは『残飯シェフ』だな」
高木は鼻を鳴らして首を振ると、ユズ風味の大豆レシチンの泡を作るために自分の持ち場へと戻っていった。
「客にお前の姿が見えなくて本当に良かったよ」
客、か。
毎晩、厨房のパス(料理の受け渡しカウンター)の奥から、俺は『アウレア』の客席で何が起きているかを見ていた。
この店は今年のメディアの寵児だった。予約は四ヶ月先まで埋まり、高級シャンパンや時計ブランドのスポンサーがつき、SNSには絶賛のレビューが溢れかえっている。
だが、ここへ「食事」をしに来る人間など一人もいなかった。みんな「自分を見せるため」に来ているのだ。
黒い大理石のテーブルに座っているのは、スマートフォンにリングライトを取り付けたインフルエンサー、退屈そうな金持ちの道楽息子、そして自称グルメ評論家たち。
ウェイターがオーナーシェフ黒沢の看板料理――二十四金の金箔で包んだ小さなオマール海老の身をドライアイスの白い煙の中に沈め、周囲にカラフルなジュレの点を散らした一皿――をテーブルに置くと、客たちはあらゆる角度から五十枚も写真を撮る。
そして、煙が消えて料理がすっかり冷めきった頃にようやく上の空で一口だけかじり、ワインを一口飲んで、残りはすべて皿の上に残すのだ。
洗い場には毎晩、提供した料理の七割がそのまま戻ってきた。
最高級の和牛のフィレ肉、オマール海老のテール、春野菜。そのすべてがゴムベラで無造作に掻き落とされ、黒いゴミ袋の中へと直行する。
この厨房の人間は、誰一人としてそれに疑問を持たなかった。彼らにとっては、客が四万円を払ってインスタグラムに写真を投稿しさえすれば、その料理は「大成功」なのだ。
だが、この厨房で誰が本当に料理を作れるのかという真実は、毎日午後四時になると残酷なほどはっきりと浮かび上がった。『まかない(従業員の食事)』の時間だ。
昨日のまかない担当は高木だった。ウェイター、ソムリエ、洗い場のスタッフを含めた二十人分の食事だ。
高木は豚ロースの切れ端を掴むと、脂身に焼き色をつけることすらせず、塩もハーブも振らないまま面倒くさそうにオーブンの天板に放り込み、べちゃべちゃに柔らかく炊きすぎた白飯と一緒に並べて出した。
出来上がったのは、段ボールのように硬くて灰色をした、何の味もしない肉の塊だった。ホールスタッフや洗い場の連中は義理で二口だけ噛み、水で無理やり流し込むと、最後には天板の四分の三がそのままゴミ箱へと捨てられた。
そして今日の午後は、俺の番だった。
俺は冷蔵庫から、朝に高木が捨てろと言った「出汁ガラ」のホテルパンを取り出した。
強火のコンロの上に、使い込まれた黒い鉄のフライパンを二つ乗せる。
一つ目のフライパンには、スープからすくい取っておいた和牛の上質な脂身の切れ端を入れ、皮付きのまま潰したニンニク三片と、パセリやタイムの硬い茎と一緒にじっくりと熱して脂を溶かし出した。和牛の甘く香ばしい脂がパチパチと音を立てて厨房中に香りを広げた瞬間、俺は火力を最大にし、ほぐしておいた茹で鶏のモモ肉を一気に投入した。
それはもう「出汁ガラ」ではなかった。高温の和牛の脂に触れた瞬間、鶏肉の繊維は美しい黄金色の焼き色(メイラード反応)をまとい、牛肉の濃厚でスモーキーな旨味をスポンジのように吸い込んだ。
二つ目のフライパンでは、残しておいたオマール海老の小さな殻を油なしで空炒りし、肉叩きで砕いてから料理用のブランデーを少し振ってフランベした。そこに、朝に濾した野菜のブロードの具材――トロトロに煮えたニンジン、タマネギ、セロリ――を加え、ミキサーにかけてベルベットのように滑らかで濃厚な甘いクリーム状のビスクを作り上げ、オマール海老の爪の身と唐辛子をひとつまみ加えた。
パティシエの部門で余っていた卵白と小麦粉で打った三キロの生パスタを茹で上げ、その二つのソースの中で一気に煽る。火を止めてから、ゴミ箱行きだったパルミジャーノ・レッジャーノの硬い皮を極細にすりおろして絡め、仕上げにオレンジの皮から抽出した香り油をひと回しして乳化させた。
湯気を立てる二つの大きなホテルパンをまかない用のテーブルに置いた瞬間、あまりにも濃厚で食欲をそそる香りが広がり、他のセクションの料理人たちまでが思わず振り返った。
「まかない、入りました」
俺は短くそう言った。
早番の洗い場のスタッフ、立ちっぱなしで足がむくんだホールスタッフ、腹を空かせた見習いたちが集まってきた。
一口目を口に入れた瞬間、テーブルの上から一切の会話が消えた。スマートフォンを見る者など一人もいない。ただ、フォークが皿に当たる音だけが響いていた。
十分後、俺は容器を下げて洗い場へ運ぶためにテーブルへ戻った。
そこには、パンくず一つ残っていなかった。
パスタの一本も、鶏肉の欠片も、オマール海老のソースの一滴すらもない。全員が乾いたパンの端切れを使ってステンレスの底を拭い、自分の顔が映るほどピカピカに舐め尽くしていたのだ。
この道四十年になる六十歳の洗い場係、田中さんが、コップの水を飲みながら湿った温かい手を俺の肩に置いた。
「レン」
高木たちに聞こえないような低い声で、田中さんが言った。
「この一皿は、今夜これから客席に出すコース全部を合わせたより価値があるよ。俺たちを人間として扱ってくれて、ありがとうな」
俺は無言で頷いた。胸の奥に灯るその小さな温もりだけが、俺が毎日この厨房に立ち続けられる理由だった。
だが、俺の一日はまかないでは終わらない。
深夜零時、他の料理人たちが流行りのバーへ飲みに行くために慌ただしく帰った後、俺はもう一時間だけ厨房に残り、大型冷蔵庫の点検と戸締まりをする。
そして電気を消す前、俺は小さなプラスチックの三脚に自分のスマートフォンを固定し、カメラのレンズを『自分の木のまな板と、自分の両手だけ』に向けた。
顔は映さない。声も入れない。コックコートのロゴも映さない。
八ヶ月前から、俺は『食材にゴミはない(ゼロ・ウェイスト)』という名前の匿名の動画チャンネルを運営していた。
包丁がまな板を叩く乾いた音と、鉄のフライパンが火の上でジュウジュウと鳴る本物の音だけを収めた三分間の動画。その中で俺は、一般の視聴者に向けて、プロの厨房が毎日捨てているもの――出汁を取った後の鶏ガラ、ブロッコリーの硬い茎、ウロコを取って熱した油でパリパリに揚げた魚の皮、スープ用の煮出し肉――を、純粋な技術と食材への敬意だけで王様の料理へと変える方法を実演していた。
日々の鬱憤を晴らすために始めたそのチャンネルは、今や登録者数百五十万人を超えていた。
そして、自己愛に目が眩んだオーナーシェフの黒沢やマーケティング部長たちが決して気づいていない「秘密」が一つあった。
俺の動画のコメント欄では、何千人もの熱狂的なファンが、背景にわずかに映り込む灰色の大理石のカウンターの模様や、特注の皿の縁のデザインから場所を特定していたのだ。ネット上では『あの黄金の手を持つ謎の料理人は、アウレアの厨房にいるらしい』という噂が駆け巡っていた。
半年前に突然この店の予約が爆発的に増え、スポンサーやテレビ局が殺到し始めた本当の理由は、それだった。客たちは「あの動画の手」が作る料理を食べられると思って店に来ていたのだ。まさか客席に出てくるのが、黒沢の魂のこもっていない見世物料理だとは知らずに。
その夜の動画――朝の出汁ガラから取ったオマール海老の爪の身と、潰したジャガイモで作った濃厚なチャウダー――の撮影を終えると、俺は熱々のスープと鶏肉のソテーを八人分、使い捨ての保温容器に詰めた。
裏口の鉄扉を開け、レストランのすぐ裏手にある狭くて湿った路地へと出る。
街灯の光の輪から少し外れた暗がりの中、夜の冷たい風を避けるようにひっくり返した果物ケースの上に座って、近所の年老いたホームレスが四人と、夜間道路工事の休憩中である作業員が三人、いつものように静かに俺を待っていた。
「今夜はオマール海老の熱いスープと、鶏肉のカリカリ焼きですよ」
俺は湯気の立つ容器と木のスプーンを配りながら言った。
「熱いうちに食べてください」
「神様のご加護がありますように、兄ちゃん」
ホームレスの老人の一人が、寒さでひび割れた両手で温かい容器を包み込み、最初の一口をすすって目を閉じた。
「この味を食べると、生き返るようだ……」
黄色いヘルメットを脇に抱えた工事作業員に最後の容器を手渡そうとした、まさにその時だった。
レストランの裏口の重厚な鉄扉が乱暴に押し開けられ、レンガの壁に激しい音を立ててぶつかった。
厨房の白い蛍光灯に背後から照らされて入り口に立っていたのは、真っ白なコックコートの上からカシミヤのコートを肩に羽織ったオーナーシェフの黒沢、グループのマーケティング部長、そしてその後ろで毒を含んだ薄笑いを浮かべている高木の三人だった。
「やはり本当だったか!」
投資家たちと客席で飲んだシャンパンのせいで顔を赤黒く染めた黒沢が、雷のような怒声を上げた。
黒沢は路地の段差を下りてくると、俺が動くよりも早く、俺の手に残っていた最後の保温容器を平手で乱暴に叩き落とした。容器は濡れたアスファルトの上を転がり、熱いスープがホームレスたちの靴のすぐ横の泥水の中にぶちまけられた。
「何をするんですか!?」
俺は拳を握りしめ、一歩前に出た。
「それはこっちのセリフだ、この寄生虫め!」
黒沢は俺の鼻先に指を突きつけて怒鳴り散らした。厨房の扉の奥には、他の料理人たちが騒ぎを聞きつけて顔を覗かせている。
「たった今、高木からスマホの動画を見せてもらったぞ! 俺の店のステンレス台を使って、あの貧乏くさい下品な動画を撮っていたのは貴様だったんだな! 『出汁ガラの肉の再生法』だの『厨房にゴミはない』だのと……挙句の果てに、一人四万円の俺のレストランの入り口からわずか五メートルの場所で、浮浪者の炊き出しをやってるだと!?」
マーケティング部長も青筋を立てて頷き、タブレットの画面を俺の目の前に突き出した。
「今夜の動画のコメント欄に、『裏路地でホームレスに配っているスープは、アウレアの客席に出しているのと同じオマール海老だ』と書き込んでいる奴がいるんだぞ! どれほどのブランドイメージの毀損か分かっているのか!? うちのVIP客は『特別感』と『贅沢』に金を払っているんだ! 自分たちと同じ食材が浮浪者の口に入っていることや、この厨房が場末の定食屋みたいに寸胴の残りカスを再利用していることなど、断じて知られてはならないんだ!」
俺は黒沢を見た。冷たいアスファルトの上で湯気を立てているオマール海老のスープの染みを見た。そして、俺に迷惑をかけまいとして、すでに路地の暗がりへと足早に立ち去ろうとしている三人の工事作業員と老いたホームレスたちの、屈辱に歪んだ背中を見た。
「あれはゴミじゃありません、シェフ」
俺の声は、狭い路地の壁に反響するほど低く、揺るぎなかった。
「本物の食べ物です。毎日うちが仕入れている食材の九割の肉を、あんたたちは処理するのが面倒だというだけの理由で黒いゴミ袋に捨てている。俺は、あんたたちが営業後に『生ゴミ』と呼んで捨てたものしか使っていません」
「生ゴミに触る奴は、そいつも生ゴミなんだよ!」
黒沢は部下たちの前で胸を反らし、唾を飛ばして喚き散らした。
「一流の高級レストランというものはな、一番出汁だけを絞って、残りはすべて捨てるのが美学なんだ! 俺は芸術を売っているんだ、夢を売っているんだ! 労働者の腹を満たすために料理をしてるんじゃない! さっさと中に入れ!」
俺たちは厨房へと戻った。
白い照明の下、静まり返って整列した厨房スタッフ全員の前で、黒沢は腕を組んだ。
「貴様は今日で『アウレア』をクビだ、レン。当店の水準に適合しないため解雇とする」
黒沢は勝ち誇ったような口調で宣言し、高木と目配せを交わした。
だが次の瞬間、黒沢の声色がわずかに変わり、打算的で官僚的な響きを帯びた。
「もっとも、雇用契約書通り、貴様には退職までに『十四日間の事前通告期間』を働く法的義務がある。今週末も予約は満席だし、客席にはスポンサーも来る。だから明日の朝もきっちり五時に出勤して今週分のフォンをすべて仕込み、お前の持っている配合と煮詰めのレシピノートをすべて高木に引き継げ。そして代わりの下働きが見つかるまで大型冷蔵庫の掃除をしろ。もし期間満了前に勝手に辞めれば、法律に基づき、違約金として今月分の給料の半分を差し引く権利が俺にはある。分かったな?」
厨房は墓場のような静寂に包まれた。
高木はすでに勝ち誇った笑みを浮かべ、明日にも俺のレシピノートを奪い取る気満々だった。
黒沢は俺を上から見下ろしていた。金も知名度もない俺のような若造は、今月の給料から十五万円を失うのを恐れて頭を下げ、侮辱を飲み込み、あと二週間這いつくばって働くに違いないと確信しきっている顔だった。
俺は黒沢の目を真っ直ぐに見た。
もう五年間もフライパン一つ握っていないせいで、ソースの染み一つない真っ白な彼のコックコートを見た。
そして厨房の奥にある黒いゴミ箱を見た。その中には、今夜の客たちが一口も手をつけずに残した、金箔まみれの和牛フィレ肉とオマール海老のテールが半分以上も詰まっていた。
俺はゆっくりと、両手を背中に回した。
黒いエプロンの紐を解く。首からエプロンを外し、胸元に『Aurea』の金色の刺繍が入ったコックコートのボタンを一つずつ外して脱ぎ捨て、汗で湿った白い綿のTシャツ一枚になった。
俺は脱いだコックコートとエプロンを一つにまとめ、固い塊になるようにギュッと丸めた。
そして一歩前に踏み出し、黒沢からわずか五十センチの距離に立った。
「レン、貴様なにを――」
黒沢が眉をひそめて口を開きかけた、その瞬間。
俺は右腕を振り上げ、丸めたエプロンの塊を、黒沢の顔面のど真ん中に向かって力任せに投げつけた。
バシッ!
乾いた破裂音を立てて布の塊が黒沢の鼻と口を直撃し、黒沢は一歩後ろのステンレス台に背中からよろめいた。エプロンは彼のピカピカに磨かれた革靴の間にポトリと落ちた。
高木とマーケティング部長は、口をあんぐりと開けたまま石のように凍りついた。
「明日の朝五時のフォンは、自分で勝手に作れ」
氷のように冷たい厨房の静寂の中で、俺は一語一語をはっきりと区切って言った。
「それと、俺のレシピノートは俺の頭の中にしか入っていない。俺は今日、今この瞬間に辞める」
部下全員の前で顔面にエプロンをぶつけられ、怒りと恥辱で顔を真っ赤にした黒沢は、唇を震わせながら叫んだ。
「き、貴様……正気か!? 事前通告なしの即日退職の違約金を全額差し引くぞ! この二週間分の給料など一円たりとも払わんからな!」
「最後の一円まで、全部あんたにくれてやるよ」
俺は自分のロッカーへ歩き、私物の包丁一式を巻いた革のロールバッグを取り出した。それを肩に掛け、裏口の扉の敷居の上で足を止めると、最後にもう一度だけ黒沢と高木を振り返った。
「その金で、食用金箔をもう三箱とドライアイスでも買い足しておくんだな。明日から俺のフォンがなくなれば、あんたたちの四万円の料理が『ただの色がついたお湯』だっていう事実を隠すのに、たっぷり必要になるだろうからな」
俺はドアノブを引き、重厚な鉄扉が背後で閉まるのに任せて、夜の路地へと踏み出した。
路地の冷たくて澄んだ空気を肺いっぱいに吸い込む。手は少しも震えていなかった。ここ何年も感じたことがないほど、身体が軽かった。
俺は煌びやかな『アウレア』のビルのすぐ裏手を通る細い脇道を歩いた。高級外車がずらりと並ぶ正面玄関から、直線距離で八十メートルも離れていない場所だ。ここは街の「裏方」の通りだった。配達員、工事現場の作業員、深夜零時に残業を終えて駅へ向かうサラリーマン、そして年老いたホームレスたちが毎日行き交う道だ。
そしてまさにその路地の曲がり角、黄色い街灯が一つだけ照らす前で、俺は毎朝出勤するたびに目にしていた古い下りたままのシャッターの前に立ち止まった。
年老いた店主が引退して以来、一年間閉まったままになっている小さな昔ながらの食堂だった。錆びついたシャッターには、色褪せた張り紙が一枚貼られている。
『テナント募集。居抜き・譲渡金なし・即日入居可』。
俺は歩み寄り、シャッターの通気口の隙間から中を覗き込んだ。
そこには大理石のテーブルも、クリスタルのシャンデリアもなかった。
あるのは、高火力のガスコンロが四口と鉄板を備えたオープンキッチン。そしてその目の前にある、使い込まれた立派な檜の一枚板のカウンターと、『十脚の丸椅子』だけだった。
ウェイターも雇わず、誰にも指図されず、俺一人ですべてを回すには十分すぎるほど小さな空間。
そして、俺の作るスープの香りを『アウレア』の窓の下まで届けるには、十分すぎるほど近い場所だった。
俺は肩に掛けた包丁ケースの革ベルトを強く握り直し、ポケットからスマートフォンを取り出すと、張り紙に書かれた不動産屋の番号をタップした。
俺の本当の料理が、今まさに始まろうとしていた。
【第2話:カウンター十席と、貧乏人の料理】
俺がエプロンを投げつけて辞めた翌朝、『アウレア』の厨房では、オーナーシェフの黒沢が「俺の亡霊」に一泡吹かせてやろうと息巻いていたらしい。
その話を俺が知ったのは二週間後、洗い場の田中さんがシフト終わりに路地へタバコを吸いに来た時のことだった。
あの日の朝八時、空っぽの四つの寸胴鍋を前にして、骨と端肉の旨味を引き出す時間配分すら分からず立ち尽くしていた高木の前に、黒沢が胸を張って現れ、従来の発注書をビリビリに破り捨てたという。
「いいか、あのゴミ料理の小僧に、本物の高級料理がどういうものか思い知らせてやる!」
黒沢は厨房スタッフ全員の前でそう高らかに宣言した。
「貧乏人みたいに骨や脂の切れ端、残り物の頭を使うのは今日で終わりだ! 今日からは、最高級の食材そのものでフォン(出汁)を取る!」
それが、彼らの狂気の始まりだった。
本物の火の前で汗を流したことがある料理人なら誰でも知っていることだが、優れたフォンの骨格、艶、そしてベルベットのようなとろみは、高価な赤身肉からは生まれない。安い部位に含まれるコラーゲン、軟骨、骨髄、そして結合組織が、時間をかけてゆっくりとゼラチン質に変わることで初めて生まれるのだ。
だが、黒沢は何年も鍋を握っておらず、高木はピンセットしか使えない男だった。
俺のフォンを再現しようとして、彼らは寸胴鍋の中に今までの倍の量のオマール海老を――最高級のテール(尾肉)まで丸ごと――放り込み、キロ三万円もするA5ランクの和牛フィレ肉やサーロインの塊を惜しげもなく投入した。そして煮出した後の肉は、すべて黒いゴミ箱へと直行させたのだ。
しかし、脂肪とコラーゲンのない赤身のフィレ肉をいくら煮ても、また六時間かけて弱火で丁寧にアクを取りながら煮詰める忍耐力もない彼らが作っても、出来上がるスープは水っぽく、輪郭がぼやけた平坦な味にしかならなかった。
そこで彼らは、技術不足を「財布」で誤魔化し始めた。
風味をつけるために、ワインセラーから年代物の高級コニャック『XO』やヴィンテージ・シャンパンを持ち出して鍋にドボドボと注ぎ込み、俺が素材の乳化だけで出していた「とろみ」を再現するために、高脂肪の生クリームを何リットルも、フランス産の発酵バターを何キロもフォンの中にぶち込み始めたのだ。
グラム単位の正確なレシピもないまま感覚で作るため、毎日の味は完全に運任せの宝くじになった。火曜日のオマール海老のソースは生クリームとニンジンの甘みが強すぎて吐き気がするほど重く、水曜日のビーフソースは煮詰まったアルコールと塩分が舌を刺す茶色い糊のようになった。
それでも、黒沢は生クリームとバターでギトギトになったその重いソースを味見用のスプーンの先で舐め、満足げに頷いていたという。
「どうだ、この濃厚さ! レンのゴミクズ出汁とは次元が違うだろう! これこそが純粋な贅沢の味だ!」
わずか二週間のうちに厨房の原価率が二十八パーセントから七十二パーセントへと跳ね上がり、客席に料理を一皿出すたびに店の口座から現金が垂れ流される赤字状態になっていることなど、彼らは何一つ気づいていなかった。
そこからわずか八十メートル離れた、『アウレア』のビルの裏手にある業務用路地。
俺の新しい人生のスタートは、華やかさとは無縁だった。泥臭く、静かで、孤独な始まりだった。
俺は貯金のほとんどすべてを使い果たして、あの小さな店舗の保証金を払い、ガスを開通させ、小麦粉やオリーブオイル、最初の食材ケースを買い揃えた。
三日三晩、床に膝をついてワイヤーブラシと漂白剤で古い換気扇の油汚れをこすり落とし、鉄板を磨き上げ、檜のカウンターに手作業でカンナをかけて、清々しい木の香りが蘇るまで仕上げた。
テーブル席は一つもない。コンロから一メートル離れたカウンターの前に丸椅子が十脚並んでいるだけだ。
そして厨房の左奥の隅には、天井に排気ダクトの穴が用意された二メートル四方の空間を、あえて空けたままにしておいた。その白い壁の上には、耐火レンガ造りの特注オーブンの見積書と設計図をセロハンテープで貼り付けた。
それは俺の「約束」だった。お金が貯まったら、あそこに必ずピザを焼くための窯を作る。ここはただのパスタ屋じゃない、いずれ本物のトラットリア・ピッツェリアにするのだ、と。
初日にシャッターを上げ、手書きで『レンの店 手打ちパスタと料理』と書いたシンプルな紺色の暖簾を外に掛けた時、客はほとんど来なかった。
初日の客は昼に三人、夜に四人。二日目は一日でたったの五人だった。
路地を歩く人々は、一年間閉まっていたその店に気づかず素通りしていく。俺は一日十二時間カウンターの奥に立ち続け、硬質小麦のセモリナ粉と卵黄と水を手でこね、時計の針の音を聞きながら、誰もいない十脚の丸椅子を見つめていた。
開店から四日目の午後三時頃、換気のために引き戸を開けたまま木の作業台の上で麺棒を使ってパスタ生地を伸ばしていると、路地の外から聞き覚えのある声が近づいてきた。
黒沢シェフと高木が、黒沢のスポーツカーが停めてある専用駐車場へ向かうために裏路地を通りかかったのだ。二人は俺の店の入り口の真ん前で足を止めた。
黒沢は高級サングラスを鼻先までずらし、俺の誰もいない店内を覗き込んだ。空っぽの十脚の丸椅子、チョークで『パスタ一皿 九百円』と書かれた小さな黒板、小麦粉まみれの俺の両手、そして奥の壁に貼られたピザ窯の設計図。
黒沢は腹を抱えて笑い出した。高木までが振り返るほどの、下品で大きな笑い声だった。
「おいおい、俺たちのSNSの天才様がどこに行き着いたかと思えば!」
黒沢は店内に入ろうともせず、入り口の柱に寄りかかって大声で言った。
「東京で最も格式高い厨房にいた男が、こんなネズミの巣みたいな穴蔵で、一皿九百円のために手作業で粉をこねてるのか? しかも壁のあの紙はなんだ? ピザ窯だと!?」
高木も首を振ってせせら笑った。
「パスタにピザって……文字通り『貧乏人の食い物』じゃないか。水と小麦粉と、トマトの切れ端。お前にお似合いの泥水の中に帰ってきたわけだな、レン。今日は客が何人来たんだ? 二人か?」
俺は包丁の刃でタリアテッレ(平打ちパスタ)を一定の幅に切り分け続け、一ミリの手元の狂いも見せなかった。
トレイの上に美しいパスタの束を並べ終えてから、ようやく俺は顔を上げた。
「今日は四人だよ、黒沢さん」
俺は極めて穏やかな声で答えた。
「でも、その四人全員が、ソースの最後の一滴まで皿を綺麗にして帰ってくれた。パスタやピザが貧しい人たちから生まれた料理だっていうのは本当だよ。小麦粉と水と、大地が恵んでくれたわずかな食材しか持たず、何一つ捨てる余裕がなかった人たちが知恵を絞って生み出した料理だ。だからこそ、何百年経っても世界中の人間に愛されてる。あんたは自分の生クリームの泡のところへ戻りなよ。俺は仕込みで忙しいんだ」
「せいぜい電気代が払えるうちは哲学者のフリをしていろよ」
黒沢はサングラスをかけ直しながら鼻で笑った。
「一ヶ月もすればこの掘っ立て小屋を畳んで、俺の店の裏口に泣きつきに戻ってくることになるだろうさ」
二人は笑いながら路地を去っていった。
俺は動かなかった。火の上に乗せた四つの寸胴鍋を見つめる。そこには生クリームなど一滴も入っていない。
あるのは、高級店がフィレ(切り身)しか買わないせいで市場の魚屋が二束三文で譲ってくれた新鮮な真鯛二十尾分の頭と中骨。オーブンで香ばしく焼き上げた牛の膝骨。そして香りを引き出すために炒り上げた赤海老の殻だ。
転機は、グルメ評論家からではなく、鉄板入りの『安全靴』からやってきた。
その日の夜七時、『アウレア』にいた頃に裏路地でスープを配っていた道路工事の作業員三人が、店の明かりを見て恐る恐る暖簾をくぐってきたのだ。
彼らは丸椅子に遠慮がちに腰を下ろし、「本当に千円でお釣りがくるのか?」と尋ねた。
俺は塩を入れた湯を沸かし、二つの鉄フライパンを火にかけた。
彼らのために作ったのは、手打ちのタリアテッレだった。ローストした牛骨の濃厚なフォン・ド・ヴォーと、箸で触れただけでほろほろと崩れるまで八時間煮込んだ『牛スネ肉とホホ肉の端材』のラグーソース。火を止めてから上質な牛脂とパスタの茹で汁を加えて乳化させ、仕上げに削りたてのチーズの皮と煎りたての黒胡椒をたっぷりと振った。カウンターの真ん中には、朝の残り生地とドライトマトの漬け込みオイルで焼いた熱々のフォカッチャを置いた。
三人の作業員が最初の一口を頬張った瞬間、彼らの動きがピタリと止まり、目が大きく見開かれた。
ざらりとした手打ちパスタの表面が、骨から溶け出した天然のゼラチン質と旨味を余すところなく吸い上げていた。寒空の下で十二時間働いた後の胃袋を、内側から熱く抱きしめるような深くて力強い味だった。
彼らは一言も喋らず、まるで祈るように夢中で食べ続け、最後にはフォカッチャのパンで皿の底を拭い、陶器がピカピカに光るまで平らげた。
翌日、その三人の作業員は昼休みに、近くの現場の仲間をさらに七人連れて戻ってきた。
開店して初めて、俺のカウンターの十席がすべて埋まった瞬間だった。
二日後には、作業員たちが配送トラックの運転手に噂を広め、運転手たちが夜勤明けのタクシー運転手や、残業帰りに本物の温かい食事を求めているサラリーマンたちに話を広げた。
そして、一番予想外だった客がやってきたのは、十日目の午後三時半――昼の営業が終わり、夜の仕込みをしていたアイドルタイムだった。
ガラガラと引き戸が開き、路地から六人の男女が周囲をキョロキョロと見回しながら滑り込んできた。
先頭にいたのは、六十歳の洗い場係の田中さんだった。そしてその後ろにいたのは、ジャンパーの下に『アウレア』の黒いサロン(前掛け)やコックコートを着たままの、若いウェイター三人と見習い料理人が二人だったのだ。
「た、田中さん……それにみんな、どうしたんですか?」
俺が驚いて手を止めると、若いウェイターの一人がお腹を押さえながら丸椅子にへたり込んだ。
「レンさん、お願いです、何か食べさせてください! ちゃんとお金は払いますから!」
「あんたが辞めてから、あっちの店の『まかない』は地獄なんだよ」
田中さんが苦笑いしながらカウンターに座った。
「高木が作るまかないは、前日に客席で余った酸化した生クリームのソースを冷凍肉にかけただけの代物か、焦げたアルコール臭い端肉ばかりでね。一口食べると胸焼けがして、スタッフの誰も手をつけないんだ。みんな休憩時間になると、お腹を空かせてコンビニのおにぎりを買いに走ってたんだよ。レンがすぐ裏で店を開いたって聞いて、居ても立ってもいられなくてね」
俺は胸の奥が熱くなるのを感じながら、すぐに鍋の湯を沸かした。
その日の午後、俺のカウンターは『アウレア』の従業員たちで埋まった。俺が朝の鶏ガラからほぐしたモモ肉と、ブロッコリーの茎のペースト、そして甘く炒めたタマネギで作った熱々のスパゲッティを前に置くと、かつての同僚たちは目を輝かせてむさぼるように食べ、一皿残らず空にした。
「やっぱりレンさんの料理が一番だ! これを食べなきゃ夜のシフトなんて乗り切れませんよ!」
そう言って九百円ずつをカウンターに置き、笑顔で裏口へと戻っていく彼らの背中を見送りながら、俺はすでに勝負がついていることを悟った。
三週間が経つ頃には、昼も夜も俺の十席は常に満席になり、夜中にスープやパスタの生地が少しでも余れば、俺はもう誰の目も気にすることなく、店の前の街灯の下で近所のホームレスの老人たちに温かい食事を配った。
そして三週目の週末の夜、俺はようやくスマートフォンのカメラを再び回すことに決めた。
俺のチャンネル『食材にゴミはない』は、あの日以来更新が止まっており、最新の動画には「どこへ行ったんだ?」「無事でいてくれ」という何千件ものコメントが寄せられていた。
俺は檜のカウンターの上に三脚を立てた。
最初の二分間は、今までと全く同じように『まな板と自分の両手だけ』を映した。市場で捨てられるはずだった魚の頭と赤海老の殻、そして曲がった規格外の野菜から、生クリームを一滴も使わずに鏡のように艶やかなソースを引き出し、銅製の型で抜いたスパゲッティをフライパンの上で小気味よい音を立てて乳化させる様子を撮影した。
それから俺はカメラを止めず、小麦粉のついた手でスマートフォンを掴むと、そのまま『レンズを上へと向けた』。
初めて、画面の中に俺の顔が映し出された。
疲れているが充実した笑顔、シンプルな白いTシャツ、後ろに並ぶ木の丸椅子十脚、そして奥の壁に貼られたピザ窯の設計図。
俺は『アウレア』の名前も、黒沢にされた仕打ちも、一言たりとも口にしなかった。
「皆さん、こんにちは。三週間も動画を休んでしまってすみませんでした」
俺はカウンターに手をつき、自分の本当の声で静かに語りかけた。
「実はこの度、独立して自分の小さな店を開きました。テーブル席もない、カウンターが十席だけの小さな食堂ですが、ここで毎日、動画でお見せしているような料理を作って一人九百円で出しています。そして、あの奥の空いているスペースには、少しずつお金を貯めてレンガの石窯を作り、いつか焼きたてのピザも出せる『トラットリア・ピッツェリア』にするのが今の俺の目標です。食材にゴミは一つもありません。もし近くを通ってお腹が空いたら、いつでも暖簾をくぐってください。火を絶やさずにお待ちしています」
深夜零時に動画を投稿し、俺は眠りについた。
翌朝十時、市場で仕入れた骨や野菜の箱を積んだ台車を押して路地の角を曲がった俺は、その場に釘付けになった。
俺の店のシャッターが見えなかったのだ。
小さな紺色の暖簾の前には、百人を超える人々の整然とした行列ができていた。列は俺の店の前から業務用路地をずっと伸びていき、角を曲がって『アウレア』の正面玄関の赤い絨毯のすぐ横まで続いていた。
動画は一晩で『八十万再生』を突破していた。
俺は何も言わなかったが、ネットの視聴者たちの洞察力は凄まじかった。コメント欄はまるで探偵事務所のように、すべてのパズルを勝手に繋ぎ合わせて大炎上していたのだ。
『待て、この路地の景色、見覚えがあるぞ! 高級レストラン「アウレア」の真裏じゃないか!』
『つまり、今までアウレアの厨房であの神動画を作っていたのはこの若いシェフで、三週間前に独立したってことか!?』
『道理で!! 先週アウレアに四万円払って食べに行ったら、料理が生クリームと焦げたブランデーの味しかしない最悪のゴミに変わってて、どうしたのかと思ってたんだよ! 本物の職人はこっちの彼だったんだ!』
『私、近くのビルで働いてるけど、昨日の夕方四時頃にアウレアの制服を着たウェイターさんたちが、自分たちの店のまかないを食べずに、こっそりこのお兄さんの店にパスタを食べに入っていくのを見ましたよ(笑)』
真実は、俺が誰かを攻撃するまでもなく、瞬く間に拡散されていた。
十一時半に俺がシャッターを上げると、並んでいた客たちから温かい拍手が起こった。
そこからは息つく暇もない五時間だった。十人の客が入り、目の前で湯気の立つパスタを食べて笑顔になり、鏡のように綺麗になった皿を残してカウンターにお金を置いていく。客の誰かが持ってきた空き瓶にはマジックで『ピザ窯の貯金箱』と書かれ、お釣りの小銭が次々と投げ込まれていった。
午後二時頃、換気扇の煙突から俺のラグーソースとローストした海老の殻の濃厚な香りが路地いっぱいに立ち込める中、開け放たれた引き戸の向こうに、スーツ姿のマーケティング部長とコックコート姿の黒沢シェフが真っ青な顔で出てくるのが見えた。
『アウレア』の客席は、開店以来初めて、予約のキャンセルが相次いで完全に空っぽになっていた。
さらに、三週間にわたるA5和牛と高級酒の乱用で原価率が破綻し、支払いが滞ったことに怒った食肉卸業者が、ちょうど今朝の納品をストップしたばかりだったのだ。
黒沢は路地の真ん中で立ち尽くした。
三週間前、俺の四人の客と九百円のパスタを『貧乏人の食い物』と笑った男が、今は自分に背を向けて俺のカウンターに並ぶ大勢の客の後ろ姿を、呆然と見つめていた。
俺は引き戸の向こう側で、強火の上で三人分のタリアテッレをフライパンで力強く煽りながら、手元の動きを止めることなく黒沢と目を合わせた。
俺は何も言わなかった。言葉など必要なかった。
俺は湯気の立つ三皿を大工の男二人と女子大生の前に置き、「お待たせしました、どうぞ」と微笑んで、あとは客たちのフォークが鳴らす音にすべてを語らせた。
【第3話:食べ物は、食べ物だ】
半年後、俺の小さな厨房の左奥の隅には、もうセロハンテープで貼られた紙切れはなかった。
そこには、燃えるナラの薪の香ばしい匂いを放つ、耐火レンガと銅板で造られた美しいドーム型の石窯が鎮座していた。
カウンターの上のガラス瓶は来る日も来る日も小銭や紙幣で満たされ、一日十四時間働き続けて貯めた俺の資金と合わせて、ついに念願のピザ窯を築くことができたのだ。
だが、手打ちパスタを伸ばし、フォン(出汁)を見守りながら同時にピザを焼くには、俺一人では腕が四本あっても足りない。だから俺は、火の前に立つ相棒を一人迎え入れた。
名前はアンジェロ。ハムのように分厚く逞しい前腕と、周囲を明るくする笑顔を持った三十二歳のナポリ人ピッツァイオーロ(ピザ職人)で、東京に来て五年になる男だった。
彼は以前、六本木の高級レストランで働いていたのだが、そこのオーナーから「竹炭を練り込んだ黒い生地の上にキャビアと金箔を乗せて、一枚一万五千円で売るピザを作れ」と命じられた日に店を辞めていた。
そんな時に俺の動画を見てこの路地へやって来て、タリアテッレを一皿平らげると、少し不器用だが真っ直ぐな日本語で俺にこう言ったのだ。
『お前は小麦粉と火に敬意を払っている。俺はここで働きたい』と。
檜のカウンターの奥、わずか十平方メートルの空間に二人並んだ俺たちは、完璧なコンビになった。
俺は朝五時に出勤し、ローストした骨や甲殻類の殻、魚の頭、そして一グラムたりとも無駄にしない肉と野菜から極上のフォンを引く。アンジェロは七時にやって来て、石臼挽きの小麦粉、水、海塩、そして自家製の天然酵母を手でこね上げ、生地を四十八時間かけてじっくりと熟成させた。
職人とサラリーマン、学生、家族連れが絶えず入れ替わり立ち替わり座るカウンターの十席に加え、俺たちは路地に面した壁に『テイクアウト用の小窓』を新しく作った。
昼も夜も、アンジェロは両手のひらでパンパンと三回叩くだけで鮮やかに生地を広げ、市場では熟れすぎや傷物として捨てられてしまう完熟トマトをニンニクとバジルでじっくり煮詰めた濃厚なソース、新鮮なモッツァレラチーズを乗せ、木製のパーラ(ピザ回し)で四百五十度の炎の口へと滑り込ませる。
わずか九十秒後には、縁がぷっくりと膨らみ、ヒョウ柄の美しい焦げ目がついた熱々のピザが焼き上がるのだ。
一枚千円。休憩中の配達員や、夕飯の買い物帰りの母親、オフィスの若者たちが、湯気の立つ白いピザの箱を両手に抱えて笑顔で帰っていく。
かつては暗くて陰気で、黒いゴミ袋ばかりが積まれていたこの業務用路地は今や活気に満ち溢れ、焼きたてのパンと香ばしいニンニク、そして肉のスープの神聖な香りで満たされていた。
この小さな店舗の賃貸契約は二年間だった。そして俺たちの店のすぐ隣、レンガの壁一枚を隔てた場所にある、ここの四倍の広さを持つ角地の大型店舗が、ちょうど先月から空きテナントになっていた。
俺とアンジェロは毎晩、店を閉めた後にその下りたままのシャッターを見上げていた。二年の契約が終わるまでに死に物狂いで働いてお金を貯め、壁をぶち抜いてあの隣の店舗へ移り、誰でも入れる大きな本物の『トラットリア・ピッツェリア』を開くこと。それが俺たちの目標だった。
一方、そこから八十メートル離れた場所では、『アウレア』の時計の針が完全に止まっていた。
予約のキャンセルが相次ぎ、スポンサーがすべて撤退した後も、あのレストランは毎週のようにメニューを変えて数ヶ月間はあがき続けていた。分子ガストロノミー、液体窒素の煙、金箔で包んだ熟成肉。だが、流行り物というのは過ぎ去るのも早い。インフルエンサーたちはすでに、高層ビルの最上階に新しくオープンした別の店で自撮りをするのに夢中になっていた。
客足が途絶え、A5ランクの和牛や丸ごとのオマール海老、鍋にぶち込んだ高級コニャックの乱用で作った莫大な借金の穴に耐えきれず、ついに運営会社は破綻した。
副料理長の高木は、船が沈む時の傲慢な人間がいつもそうするように、誰よりも早く逃げ出した。資金が尽きたと知るや否や、店を放り出してさっさと別のホテルの厨房へ転職してしまったのだ。
洗い場の田中さんや、いつも俺の店にパスタを食べに来ていた三人の若いウェイター、そして二人の見習い料理人たちは、ある日突然職を失った。
そしてオーナーシェフの黒沢は、あの黒い大理石の巨大な聖堂の中に、たった一人で取り残された。
十一月の終わり、凍えるように寒い夜だった。外では冷たい雨が斜めに降りしきり、路地のトタン屋根を激しく叩いていた。
時刻は午後十一時半。俺たちはテイクアウトの小窓を閉め、カウンターの最後の客を見送ったばかりだった。
アンジェロは真鍮のブラシで石窯の中の灰を掻き出しながら、故郷ナポリの古い歌を低い声で口ずさんでいた。
「……E 'a Regina 'nce 'o chiedette, pecciò Margherita l'avette chiammà……(そして王妃様が尋ねたから、マルゲリータと名付けられたのさ……)」
シンプルなトマトとモッツァレラとバジルのピザが、どうして王妃の名前を持つようになったのかを歌う、ナポリの職人たちの誇りの歌だ。
その横で俺は、路地の奥の屋根の下で待っているホームレスの老人たちや夜間工事の作業員たちに届けるため、焼きたてのマルゲリータを六箱と、鶏肉と野菜の熱いスープを六つの保温容器に詰めていた。
ガラガラガラ……。
木の引き戸がゆっくりと開き、冷たい突風と雨音が店内に流れ込んできた。
敷居の上に、傘も差さずに一人の男が立っていた。
水を吸って重くなった暗い色のコートが、丸まった背中に張り付いている。白髪交じりの乱れた髪が額にへばりつき、無精髭が伸び、痩せこけた顔には深い黒いクマが刻まれていた。手首にはもう三百万円の金の時計はなく、足元は泥水に濡れた靴を履いていた。
黒沢だった。
まさにその日の夕方、業者たちが『Aurea』の金色の看板文字を取り外し終え、彼はビルのオーナーに鍵を返却してきたところだった。雨の中を駅へとトボトボ歩いていた彼の足を止めたのは、路地に漂う俺たちの薪窯の煙と、火の上にかかったフォンの香りだったのだ。
黒沢は濡れたコートのポケットの中で拳を握りしめたまま玄関マットの上に立ち尽くし、クリスマスの夜に暖かい家の窓を覗き込む迷子の子供のような目で、空っぽの十脚の丸椅子と俺の厨房の湯気を見つめていた。
俺と目が合うと、彼は恥辱に顔を伏せ、すぐに引き戸を閉めようとした。
「すまん……邪魔をするつもりはなかったんだ」
消え入りそうな掠れ声で、黒沢が呟いた。
「もう閉店だったな」
俺はステンレスのお玉を置いた。そして清潔な白いタオルを一枚手に取ると、俺のコンロの真ん前にある檜のカウンターをサッと拭いた。
「外は凍えるほど寒いし、まだ火は入ってるよ、黒沢さん」
俺は静かに言った。
「中に入って、座りなよ」
元三つ星シェフは、長い一秒間ためらった。それから店内へと足を踏み入れ、背後で引き戸を閉めると、肩を強張らせたまま一番端の丸椅子に腰を下ろし、寒さで震える両手をほんのりと温かい木のカウンターの上に置いた。
俺は顔を拭くための乾いたタオルと、熱い白湯が入った湯呑みを彼の前に差し出した。
アンジェロが片眉を上げて俺を見た。俺が小さく頷いて合図を送ると、相棒はすべてを察した。一言も喋らずに木の番重から熟成された生地玉を一つ取り出し、大理石の台の上で広げ始めた。
俺は黒い鉄のフライパンの下に火をつけた。
黒沢は俺からわずか一メートルの距離に座っている。彼の人生で初めて、社長室からでもテレビカメラの前からでもなく、すぐ目の前で俺の両手が働くのをじっと見つめていた。
キロ三万円のフィレ肉など使わない。生クリームも、高級コニャックのボトルも手には取らない。
俺はフライパンにお玉一杯のオマール海老とロースト牛骨のフォン――弱火で六時間かけて抽出した天然のコラーゲンだけで、漆のように黒く艶やかに輝く濃厚な出汁――を注ぎ入れ、端肉から取って精製した和牛の脂をひとかけら落とした。そこに、朝のスープからほぐした鶏モモ肉の繊維と、甲殻類の脚や頭から手作業で掻き出した白い身をひと掴み投入する。
強火にした瞬間、フライパンから立ち昇った香りはあまりにも力強く、香ばしく、生命力に満ちていた。黒沢は思わず目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
俺は麺棒で伸ばした手打ちのタリアテッレを沸騰した湯に落とした。二分後、湯切りしたパスタを直接フライパンへと移し、茹で汁を少しと、極細にすりおろしたパルミジャーノの皮、そしてレモンとオレンジの皮から抽出した香り油を加えて、手首のスナップを効かせて一気に煽った。
ソースと脂と空気が一つに溶け合う『チャッ、チャッ』というクリーミーな乳化の音――本物の料理人なら誰もが知っているあの音――が店内に響き渡った。
それと全く同じ瞬間、アンジェロが薪窯から焼きたてのマルゲリータを引き出した。薄い生地の上で真っ赤なトマトソースとモッツァレラがグツグツと泡立ち、新鮮なバジルの葉が香り立ち、黄金色の縁がカリッと焼けている。アンジェロはそれを回転カッターで四つに切り分け、俺のタリアテッレの皿の横に木のプレートごと置いた。
「熱いうちに食べてくれ」
俺は黒沢の前にフォークを一本置いた。
黒沢は、自分がかつて「生ゴミ」と呼び続けた食材で作られたパスタと、「貧乏人の食い物」と嘲笑したピザを交互に見つめた。彼は丸二日間、まともな温かい食事を口にしていなかった。
わずかに震える右手でフォークにタリアテッレを巻きつけ、彼はそれを口へと運んだ。
パスタが舌に触れた瞬間、黒沢の動きがピタリと止まった。
何ヶ月もの間ずっと張り詰めていた彼の両肩から、一気に力が抜けた。ゆっくりと噛み締めるたび、薪がパチパチと爆ぜる音だけが響く静かな店内で、彼の痩せこけた頬を二筋の熱い涙が伝い落ち、檜のカウンターの上にポタリと落ちた。
店が潰れた悔しさで泣いているのではなかった。
その味――温かくて、嘘がなく、命と本物の労働の結晶が詰まったその味――が、テレビ出演やスポンサー、食用金箔や見栄で塗り固められたこの十年間の嘘を一瞬で洗い流し、彼を三十年前のあの日へと引き戻したからだ。まだ二十歳の若造だった頃、火傷だらけの手で地方にある父親の小さな食堂に立ち、ただ客が笑顔になるのを見るためだけに熱いスープを作っていた、あの頃の自分へと。
彼は熱々のピザを一切れ手に取り、香ばしい縁にかぶりつくと、目元の涙を拭おうともせず無言で食べ続けた。そしてタリアテッレをすべて食べ終えると、ピザの耳の最後の一欠片を使って皿の底を丁寧に拭い、ソースの一滴すら残さず、陶器が鏡のようにピカピカになるまで平らげた。
黒沢は丸一分間、空になった皿をじっと見つめていた。それからカウンターに両手をつき、掠れた、途切れ途切れの声で言った。
「俺は……日本で一番高価な肉を持っていたんだ、レン。生きたオマール海老も、トリュフも、一本十万円のワインも、五千万円かけた最新鋭の厨房も持っていた……それなのに、すべて灰になった。お前はここで、水と小麦粉と、骨と寸胴の煮出し肉を使って……俺の人生で一番旨い一皿を俺に食わせた。俺は……どうしてこんなにも盲目になってしまったんだろうな」
俺は清潔なダスターで自分の手を拭き、恨みなど微塵もない目で正面から彼を見つめ返した。
「貧乏人の食べ物も、金持ちの食べ物もないよ、黒沢さん」
俺は静かに語りかけた。
「食べ物は、食べ物だ。工事作業員の胃袋に入ろうが、億万長者の胃袋に入ろうが、やることは全く同じだ。一人の人間の命を生かすっていうことだけさ。そして俺はここで、ゴミを使って料理をしたことなんて一度もない。理由はとてもシンプルだよ。厨房に『ゴミ(廃棄物)』なんてものは存在しないからだ。どんな食材も、絶対にゴミなんかじゃない」
俺はステンレスの寸胴鍋と、小麦粉のついたアンジェロの作業台に視線を向けた。
「料理に味を与えるのは、高価な部位でもキャビアでも金箔でもない。そこに込める『情熱』だ。俺たちのために命を差し出してくれた動物や野菜の一グラム一グラムにどれだけの敬意を払い、誰も見ていない朝五時にどうやって火を入れるか、それだけなんだよ。人を驚かせたりスマホで写真を撮らせるための『カッコいい料理』は一時的なものだ、黒沢さん。一シーズン過ぎれば客は飽きていなくなる。だけど、本当に『旨い料理』は永遠に残るんだ」
黒沢は瞬きもせずに俺の言葉を聞いていた。一つ一つの言葉が、薬のように彼の身体の奥深くへと染み込んでいくようだった。
やがて、何年間も他人を上から見下ろし続けてきたその男は、丸椅子からゆっくりと降りた。コンクリートの床の上を一歩後ろへ下がると、俺とアンジェロの前で『深々と九十度に腰を折り』、そのまま十秒間も頭を下げ続けた。
「ごちそうさまでした」
黒沢は震えのない声で言った。
「そして……すまなかった、レン。お前のその両手と、俺たちを生かしてくれる食べ物を侮辱したことを、どうか許してくれ」
顔を上げた時、彼の目は赤く充血していたが、店に入ってきた時のあの死んだような絶望の色は消え去っていた。彼は濡れたコートの前を開き、内ポケットから分厚い封筒と一冊のファイルを取り出した。
「俺は高木のように逃げたりはしなかった」
黒沢は封筒をカウンターの上に置きながら説明した。
「今月、自分のスポーツカーも、港区のマンションも、時計も、『アウレア』の厨房機器もすべて売却した。肉屋や魚屋の卸業者には最後の一円まで支払いを済ませたし、ホールの若い連中と田中さんにも退職金を払った。借金は一円たりとも残していない」
彼は封筒に指を添えた。
「これが、俺の個人の口座に残った最後の全財産だ。お前たちのここの契約が二年だということも知っているし、すぐ隣の角地の大型店舗――あの五十席ある空き物件が、新しい借り手を探していることも知っている。俺はもう自分のレストランを開くつもりはないし、事務所に座ってお金を数える共同経営者になるつもりもない。俺の持っているすべてを、お前の料理に投資させてくれ、レン。あの隣の店を借りる資金にしてほしいんだ」
俺は驚いて目を見張った。
「黒沢さん、でも……」
「待て、最後まで言わせてくれ」
かつての彼からは想像もつかないほど謙虚な表情で、黒沢は俺の言葉を遮った。
「経営権や発言権を求めているんじゃない。店は百パーセントお前のものだ。お前の名前で、お前のルールでやればいい。その代わり、俺が求める見返りはたった一つだけだ」
彼は俺のコンロを見つめ、それからあまりにも長い間火から遠ざかり、綺麗すぎた自分の両手を見下ろした。
「俺を、お前の店の『一料理人』として雇ってくれ。もう一度黒いエプロンを着けて、お前の隣でコンロの前に立たせてほしいんだ。また朝五時に起きて、お前から出汁ガラの肉のほぐし方を学び、何一つ捨てない料理をイチから勉強し直したい。手遅れな老人になってしまう前に、俺はもう一度、本物の料理人に戻りたいんだ」
俺とアンジェロは顔を見合わせた。アンジェロは小麦粉のついた手で鼻の下をこすり、ニッと笑って親指を立てた。
俺は半年前、自分が顔面にエプロンを投げつけた男を見つめた。そこにはもう、テレビの中の傲慢な有名シェフの面影はなかった。目の前にいるのは、ただ料理を愛し、人生で最も厳しい教訓を学んだ一人の男だった。
俺はカウンターの下から、綺麗に折りたたまれた清潔な黒いエプロンを一つ取り出し、彼の封筒の上に置いた。
「明日の朝五時ちょうどだよ、黒沢さん」
俺は彼に向かって右手を差し出した。
「遅刻しないでくれよ。明日はフォン・ド・ヴォー用の牛骨を割る作業が山ほどあるんだから」
黒沢は俺の手を両手で強く握り返し、目に涙を浮かべながら初めて心からの笑顔を見せた。
「四時半に来るよ、シェフ」
【2年後】
薪窯の煙とラグーソースの香りは今や、路地裏だけにとどまらず、表の大通りまで届くようになっていた。
二年間の契約満了の日、俺たちは約束を果たした。
十席だった小さな店舗とすぐ隣の角地の大型店舗の間の壁をぶち抜き、一つに繋げて、新しいトラットリア・ピッツェリア『ダ・レン(Da Ren)』をオープンさせたのだ。
客席は全部で『五十席』。無垢材で作られた長いテーブルが並び、完全にオープンになった広い厨房の目の前には、あの日からの檜のカウンター十席がそのまま残されている。そして通りに面したテイクアウト専用カウンターからは、毎日何百箱もの焼きたてピザが飛ぶように売れていく。
だが、店の広さが五倍になり、東京中で知られる有名店になっても、『出す料理と値段は、初日から一ミリも変えなかった』。
化学調味料の泡も、ドライアイスの煙も、食用金箔もない。俺たちが客席に出すのは、あの日と全く同じ料理だ。鶏も牛もオマール海老も、すべての繊維と旨味を余すところなく引き出した濃厚なフォンで煽る九百円の手打ちパスタと、アンジェロが焼く千円のナポリピザだ。
そして、昼も夜も満席になる五十席のホールと厨房を回すために俺が呼び寄せたのは、俺が心の底から信頼している仲間たち――『アウレアの旧スタッフ全員』だった。
洗い場と野菜の下処理場の責任者として二人の若いスタッフを束ねているのは、背筋をピンと伸ばした田中さんだ。客席から戻ってくる皿がどれもパンで綺麗に拭われていて、最初からほとんど洗う必要がないことを誰よりも誇らしげに微笑んでいる。
木のテーブルの間を生き生きと駆け回っているのは、『アウレア』にいた三人の若いウェイターたちだ。もう退屈そうなインフルエンサーの前でペンギンのような窮屈なタキシードを着ることはない。腕まくりをしたシャツにエプロン姿で笑い合いながら、作業着姿の職人や、子供連れの家族、学生、そしてスーツ姿のビジネスマンが同じ一つのテーブルを囲む前に、湯気の立つ大皿を次々と運んでいく。
仕込み台には二人の若い見習い料理人が立ち、今では外科医のような正確さで骨を外し、魚を三枚におろし、すべての端肉を完璧に再生させる技術を身につけていた。
そして、広いオープンキッチンの真ん中、高く上がる炎の前には、俺たちが立っていた。
巨大なレンガの石窯の前では、アンジェロが陽気にナポリの歌を口笛で吹きながら一度に三枚のピザを焼き上げている。パスタ場では俺が四つの鉄フライパンを同時に煽り、そして俺のすぐ隣では、ソースと小麦粉にまみれた黒いエプロンを着け、額に本物の汗を光らせながら袖をまくり上げた黒沢が、力強く鍋を振っていた。
「レン! 6番テーブルにオマール海老のタリアテッレ二皿と、牛ホホ肉のパッパルデッレ三皿入るぞ!」
黒沢が張りのある楽しそうな声でオーダーを通し、今朝五時半に彼自身が丁寧すぎるほどの手つきでほぐしたオマール海老の身と鶏肉のホテルパンを俺にパスした。それから味見用のスプーンで寸胴のフォンをひと口すすり、俺に向かって満足げに頷いた。
「今日のフォンも完璧な仕上がりだ、シェフ!」
「今朝、誰かさんが牛骨を完璧な焼き加減でローストしてくれたおかげだよ、黒沢さん!」
俺は笑い返しながら火力を最大にし、黄金色の濃厚な香りが立ち込めるフライパンの中でパスタを高く宙へと躍らせた。
立ち昇る湯気の向こう側を見る。
そこには活気に満ちた五十席の客席があり、裏口の扉の横には、俺たちが決して忘れることのない路地のホームレスの友人たちへ届けるための温かい包みが今日も用意されていた。そして客席では、五十人の客が誰一人として写真を撮るためにスマートフォンを掲げることなく、ただ幸せそうに目を輝かせて目の前の料理を頬張っていた。
そこにはもう、ゴミなど一つもなかった。金持ちも貧乏人もなかった。
あるのはただ、本物の料理だけ。そしてそれだけは、永遠に消えることはないと俺は知っていた。
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