悪役令嬢、9時から5時まで。
笑ってください。
王城に用意された執務室。
私語のないペン先の走る音だけが流れる部屋の中、わたしは横目でちらりと壁を見た。
チクタクと規則正しいリズムを刻む壁掛け時計の針は、午後四時五十八分をさしている。
よしよし、定時の午後五時まであと二分。
目の前には未決済の書類がドーンと積まれている。ところがどっこい、わたしの分の作業はすでに処理済みでございます。
すべての書類に目を通して、判を押して上に通すもの、作部署に差し戻すものも振り分けである。指示書も完璧だし、あとは書記官が各所へ届けるだけ。
我ながら完璧な仕事をした。すべては定時退社のため!
(あっとにっふん! あっとにっふん! あっとにっふん~で~かっえりっます!)
脳内で陽気な歌を繰り広げる余裕だってありますよ。油断したら鼻歌になってしまいそうなくらい。
でも悪役令嬢はそんな頭の悪そうなことはしない。きつめの顔をスンとすませて、優雅に定時になるのを待つのみ。
そして時計の針が午後五時を指した瞬間、わたしはすっくと立ちあがった。優雅に机の上を片付けて、光の速度で帰り支度を終えると迷いなく扉に向かう。
もちろん、悪役令嬢なので走りません。カツカツと早足ではあるけれど。
「あ、あの、セラフィーナ様? どちらへ……」
「コネリー書記官。定時――時間ですので今日はこれでお先に失礼いたしますわまた明日ごきげんよう」
「いや早口っ」
一気に退社――じゃなかった、退勤の挨拶をして部屋を出た。その瞬間、小さくガッツポーズする。
いよっし! 今日も定時で上がれました!
王城勤めは大変だって聞いていたから、ブラックだったらどうしようと心配だったけど、前の会社に比べれば全然ホワイトで良かった~!
誰よ大変なんて言ったやつ出て来なさい。そして前世のブラック企業に潰されていった可哀想な社畜たちに謝りなさいよ。そう、この私に!
わたしは誰かに声をかけられる前に自分の部屋に戻ろうと、スッと存在感を透明にして歩き出した。
定時きっかりに上がり、即帰宅をするために、わたしは前世で培った社畜技術のすべてを注ぎこんでいる。
前世のわたしの名前は、田中聖奈。
日本で、社員の平均残業時間百二十時間、有給消化率一割未満という、いわゆるブラック企業に勤めていた社畜だった。
三十歳の誕生日を目前に控えていたある日、わたしは会議室の椅子から崩れ落ちるようにして人生を終えた。医者じゃなくても死因はわかる。完全に過労死。だってあの頃のわたし、一日の睡眠時間は二時間切ってたもの。そりゃ死にますって。
死ぬ間際に強く誓ったことを、はっきりと覚えている。
生まれ変わったら絶対の絶対に、何が何でも定時で帰る人生を送ってやる! ……と。
まさか異世界に侯爵令嬢として転生することになるとは思わなかったけど。しかも王太子の婚約者候補って。日本の元社畜が未来の王妃候補って。何の冗談?
定時の誓いを曲げるつもりは毛頭なかったけれど、侯爵令嬢なんて人生勝ち組。そもそもブラック企業に勤めるなんてことになるはずないんだから、定時という概念もなくなるわけで。
え、ここ天国? いや、異世界だった~なんてのんきに恵まれた人生を謳歌していたわけ。
それが、なぜか王太子の婚約者に選ばれちゃって、これってある意味ブラックより大変なんでは? なんて戦々恐々としていたところに、王太子が「運命の相手を見つけた」とか何とか言って別の女性を連れて来ちゃったものだからさぁ大変。
しかも運命の相手というのが、ミラという名の平民の娘だったものだからさぁさぁさぁさぁさぁ大変!
そこでわたしはやっと気づいたわけ。実は前世で読んだ異世界ファンタジー小説の世界に、転生してしまっていたのだと。
小説の内容は、平民出身のヒロインが、王太子の婚約者である悪役令嬢の数々の妨害や罠を乗り越えて、最終的に悪役令嬢の悪事を暴き王太子と結ばれる、いわゆるざまぁ展開の娯楽小説。
わたしはその悪役令嬢セラフィーナだったのだ。こういう系の小説、死ぬほど読んていたからすぐに気づかなかったわ。セラフィーナなんて名前、他の小説でもいくらでも出てきたし。
そして原作通り、周囲の反対を押し切って「どちらが王太子妃にふさわしいか、王城の業務を割り振り、その仕事ぶりで見極める」なんてとんでもないことを強引に決定してしまった王太子殿下。原作通りだからわかってはいたけど。
おかげで私は侯爵令嬢なのに王城勤めなんてものをするハメになった。本当何してくれやがる王太子ィ。他にも見極めるやり方なんて色々あるだろがいィ。
せっかく社畜生活の人生とオサラバしたと思っていたのに、こうしてわたしは王城という新たなブラック企業に勤めることとなってしまったのだ。
いや、前世の会社に比べたらホワイトだけどね? もうぜーんぜんホワイト!
でもそれはわたしの侯爵令嬢という身分があってこその白さ。実際に平文官たちは残業を言いつけられて逆らえないでいるし。
まぁ勤めると言っても、これは王太子妃選抜試験という短期間のもの。そう、王太子妃に選ばれなければ即退職出来る。出来なければ、国王と王妃というお偉いさんに逆らえないブラック職場に早変わりするだろう。
小説では悪役令嬢セラフィーナがあの手この手を使ってミラを邪魔するのだけど、正直邪魔する必要あった? と思ってしまうくらい、今世の主人公ミラちゃんは何も出来ない。放っておいても自滅しそうなほど本当に何も出来ていない。
小説ではもうちょっとこう賢いところもあって、王太子と協力してセラフィーナに何度もざまぁするんだけどなあ。
もしかして、セラフィーナであるわたしが仕事をしないから?
いや、仕事はしてるんだけど、悪役令嬢としての役目を全うしていないからだろうか。
だって嫌がらせとか策略とか時間のムダ過ぎて。そんなことしてたら定時で帰れないし。わたしにとって大事なのは、悪役令嬢の役目よりも定時退社だし。
でもなぁ。このままだとわたしが王太子妃に選抜されちゃわない? そんなことない?
馬鹿王子はミラしかいないって感じだけど、王城のお偉いさんたちはわたしの効率の良い仕事ぶりを大変お気に召していらっしゃる。
王太子の意見だけで妃が決まるなら、そもそも選抜試験なんてやっていないだろうし。
まずいなぁ。ブラック企業(王城)に永久就職なんてごめんだし。
「いっそのこと、わたしがミラ様に仕事のやり方を叩きこめばいいか……?」
けど、それはそれで悪役令嬢セラフィーナがミラをいじめていると言われて、断罪コースまっしぐらになりそうだし。出来れば穏便に婚約破棄、からのブラック企業退職という流れに持っていきたい。
王太子妃になっても定時退社が叶うなら、考えてやらないこともないんだけど。……いや、やっぱり嫌だな。あの馬鹿王子の妻とか。
「セラフィーナ様!」
どうしたものかと考えていると、廊下で呼び止められた。
わたしは無表情のまま振り返る。気配を消して空気と化していたのに、一体誰だ。わたしの即帰宅を阻むのは。
そこにいたのは宰相補佐官だった。手には見るからに重そうな書類の束を抱えている。あ、嫌な予感。
「ああ、良かった、まだ残ってらっしゃって!」
いやいやいや、どこに目をつけてるわけ?
全然残ってないわ。バッグも持って完全に退勤後の姿だわ。即帰宅の途中でしかないわ。
「実は税制改革案に修正がありまして、明日の会議までに目を通しておいていただきたいのですが……」
「補佐官、見てください。午後五時を過ぎています」
「え? あ、はい。そうですね。それが何か――」
「本日の業務は終了いたしました。書類は私の机の上に置いておいていただければ、明日出勤し次第確認させていただきますので」
「あ、いえ、でも、今すぐでないと間に合わな――」
「今すぐ確認や修正が必要な書類を、定時過ぎてからお持ちになられても。それって相手のペースを乱し、時間を搾取することになるとわかっていらっしゃいます? きちんと業務時間内に必要な作業を終えられるよう、計画的に働かれてはいかが?」
渾身の嫌味をにっこり笑顔で告げると、相手は返す言葉を失ったように、口をパクパクさせながら立ち尽くす。
その隙に一礼し、わたしは颯爽とその場から逃げ――立ち去った。残業、ダメ、絶対!
残ってまで仕事をする自分えらい、頑張ってる! なーんて思っていた頃がわたしにもありました。ただの洗脳された社畜よねぇ。
残業は美徳ではない。搾取である。
これわたしの信条ね。テストに出るので、よく覚えておくように。
***
残業は悪。それは正しい。
しかし残念なことに世の中は、正しいことをしていれば報われるようには出来ていない。クソくらえと思うけど、それが事実だ。
「セラフィーナ。お前はまた会議前にも関わらず、定時で帰ったそうだな」
突然執務室に現れた王太子クロードは、偉そうに腕を組みながらわたしを見下ろしてきた。そう、彼こそがわたしの婚約者様である。
主人公ミラを大切にする、金髪碧眼の美形ヒーロー。小説を読んでいたときは素敵だなと思っていたけど、実際こうして悪役令嬢の立場になると、婚約者であるセラフィーナを捨てて平民のミラに乗り換えるただのクズ男だ。何しに来た。
「宰相補佐から聞いたぞ。誰もが忙しく働いているというのに、曲がりなりにも正式な婚約者であるお前が真っ先に帰るとは何事だ」
「はぁ……」
なーにが「曲がりなりにも」だ。浮気してる奴が言うことか。
心の中指を立てながら、わたしはにっこり笑ってやった。
「殿下。わたしは自分の担当分の仕事はすべて終わらせた上で退勤しております。何か問題ございますか?」
「お前はすぐにそれだ。自分のことしか考えていない。ミアを見てみろ!」
クロードが指をさす先には、平民出身のミア様がいる。
孤児院育ちながら心優しく、誰に対しても献身的で愛らしい彼女は、執務室の癒し担当、マスコットキャラ的存在になっていた。
彼女はいま救貧院運営のための資料を作成している途中けど、さっきからずっと「それってどういう意味ですか?」「私にはちょっと難しくて……」「よくわからないので、代わりに決めてくれません?」と困り顔で文官たちに泣きついている。
文官たちはデレデレしながら、競うように彼女の代わりに資料を読み上げ、代わりに計算をし、資料を作成している。良いのかあれは。
「見ろ。ミアはああして、夜遅くまで皆と一緒に頑張っているんだぞ。それに比べてお前はどうだ?」
「頑張っているのはミア様ではなく、周りの文官たちですね。何と言うか、作業効率が絶望的に悪いです。あれでは定時で帰れません」
「お前のそういうところがダメなのだ! 定時定時とそればかり! ミアはいつも、皆のために身を粉にして働いているんだぞ!」
よく見ろ馬鹿王子。身を粉にしているのは周りの文官だろうが。あれは時間と労働力の搾取でしかないわ。
そう思ったが口には出さない。何を言ってもこの王太子には届かないことは、この一年ですでに嫌というほど学んでいる。
この馬鹿王子の耳は、自分に都合の良い言葉しか聞こえないよう出来ているのだ。
「お前こそ、効率だなんだと偉そうに言っているが、やっているのも意味がないことばかりではないか。宰相府の者が、お前の作った『申請フロー』とやらのせいで、判ひとつ貰うのに三日もかかると嘆いていたぞ」
「誤解ですわ。これまで二週間かかっていた業務が、三日に短縮されたのです。最短に、確認漏れなく処理するために整えた仕組みですし、宰相様にはお褒めいただきましたけど?」
「ええい、屁理屈ばかりこねるな!」
クロードは苛立たしげに吐き捨てると、ミア様の元へと逃げるように向かっていった。
可愛らしく「殿下ぁ~」と甘えるヒロインにデレデレだ。ついでに文官もデレデレだ。
そういえば、ブラック企業の元上司も可愛い新入社員にデレデレセクハラしてたっけ。
やれやれ。ブラック企業の上司なんて日本も異世界も変わらないわね。
あーあ。早く退職したーい。
頭の中で叫びながら、今日も定時で帰るべく、わたしは猛烈に仕事を進めるのだった。
***
あれから二週間。わたしへの風当たりは日に日に強くなっていった。
「セラフィーナ様のせいで、面倒な手続きが増えたよな」
「規則ばかり厳しくして、自由に働けない」
「ミア様のように皆と力を合わせて仕事を進めるべきじゃないか?」
そんな声が、宮廷のあちこちから聞こえてくる。
わたしが提案した仕組みのおかげで、宰相府の残業時間は激減しているというのに。書類の紛失も誤送もほぼゼロになた。それなのに不満の声は止まない。
唯一、わたしの補佐を担当してくれている若手の文官たちだけは、残業が減って早く帰れるようになったと言ってくれているけれど、その他大勢の声にかき消されてしまっている。
何だかなあ。数字で証明できていることも、都合よくないことにされている。
前世もそうだった。残業をすれば頑張っていると褒められるけど、効率的に進め定時で帰るとやる気がないと言われる。
前世も今世も、本質が見えていない人間が多すぎる。
こんなブラック企業ならぬブラック王城での唯一の救いは、若き公爵ルーカス様の存在だった。
王弟であるルーカス様は、臣籍降下した現在も、兄王の政治を臣下として支えている方だ。甥である王太子と見た目はよく似ているけれど、中身は全然違う。
もしルーカス様が王太子だったら、わたしは断罪されるとわかっていても悪役令嬢として頑張っちゃっていたかもしれない。それくら魅力溢れる男性なのだ。
「セラフィーナ嬢は、面白いことを考えるな」
わたしの提案した申請フローを見て、興味深そうに笑ったルーカス様のイケおじっぷりと言ったら!
おじと言っても、ルーカス様はまだ三十代。前世のわたしがアラサーだったからか、王太子よりルーカス様のほうがどうしても魅力的に見えちゃう。
「セラフィーナ嬢が目指すのは、徹底的な作業の効率化なんだな。あなたが王太子妃になれば、王城の者たちはもっと仕事がしやすくなるだろう」
「でも、わたしのことを定時までしか働ない怠け者だと言う方もいらっしゃいますよ」
「既定の時間を守っているのに? だらだらといつまでも残っているより、余程信頼できる働き方だと思うが」
「そうなのです! 規定の時間内に業務を終わらせる効率的な働き方こそが、社員の健康と豊かな人生を守ることに繋がるのだと、わからない方が多すぎます!」
「しゃいん……?」
「徹底的な効率化を進めても、それでも業務時間内に仕事が終わらないのであれば、それは間違いなく人手不足。人員補充の目安もわかりやすくなります。苦労なんてしないに越したことはありません。目指せホワイト企業! いえ、ホワイト王城!」
ルーカス様は熱弁するわたしを面白がって、それ以来何かと声をかけてくるようになった。
「セラフィーナ嬢は、王太子妃になりたいわけではないのか?」
「いいえ、まったく。出来たらこんな試験は早く終わらせて、侯爵家に帰りたいです」
「あんなに熱弁していたから、てっきり未来の王妃を目指しているのかと……」
「成り行きです。やるからには手を抜かず徹底的に業務改善を進めようとしているだけで。王太子殿下が本当に愛する人を見つけたのでしたら、その方とご結婚されるのがよろしいかと思います」
「真実の愛を前に身を引くということか?」
「というか、わたしには王太子殿下は少々子どもっぽ――幼過ぎ――んんっ。もう少し落ち着きのある方のほうが好ましいと申しますか」
わたしが言葉を選びながら言うと、ルーカス様は目を丸くしたあと爆笑なさっていた。
ちょっと正直に言いすぎたかもしれない。不敬だったかなと思ったけれど、ルーカス様は大いに納得し、選定試験が一日でも早く終わることを願ってくれた。はぁ、何て良い人。
***
とうとう運命の日がやってきた。
王城の大広間で開かれた建国を祝う宴の際中。集まった国中の貴族たちの前で、クロードが高らかに宣言したのだ。
「王太子妃選定試験の結果――新たに婚約者としてミラを迎えることとなった! セラフィーナ・アシュフォード侯爵令嬢との婚約は、今日をもって破棄とする!」
広間にどよめきが広がる中、わたしは冷めた目で壇上を見ていた。
いや、だって、そんな「破棄とする!」なんてわざわざ見せしめみたいに宣言する必要ある? 「解消とする」くらいでも別に構わなくない?
っていうか、何で王太子の個人的な都合で試験をねじこんできたくせに、一方的に破棄とか言われなきゃいかんのか。
「理由はセラフィ―ナの非情とも言うべき業務改革だ。君は効率化と称して宰相府の業務でムダな手順を増やし、円滑な業務遂行を妨害した。更に時間制限という過剰な規則で彼らを締め付け、自由な仕事の采配を妨げた。加えて、同じ王太子妃候補であありながら、城に不慣れ心なミアに対し常に冷淡な態度を取り続け、精神的負担を敷いた!」
強い口調で語るクロードの傍らには、涙ぐむミア様が寄り添っている。
あー、早く帰りたい。宴は夜だから定時はとっくに過ぎている。時間外労働に対する給与って出るのかな。
「なんて可哀想なミア様……」
「セラフィーナ様は本当に冷たい方だったのね」
周囲の貴族たちがクロードとわたしを見比べて、ひそひそと囁き合う。誰もが主人公のミアに同情の眼差しを向けていた。
こりゃ皆、馬鹿王子の話を全面的に信じちゃってる感じ? ほんと?
ってことは、もしかして――。
「やったわこれ。穏便に退職が叶ったんじゃない?」
わたしは思わず小さくガッツポーズをしていた。
「な……なんだその反応は!」
わたしを見ていたらしいクロードが目を剥く。
婚約破棄された令嬢が、涙を流すどころか心底嬉しそうにガッツポーズしてるんだから、そりゃあ困惑するのも仕方ない。婚約破棄されてなくても、普通の令嬢はガッツポーズはしないもんね。
「失礼いたしました。殿下、ひとつ確認させていただいてもよろしいかしら?」
「何だ。撤回もやり直しも認めないぞ!」
「あ、そんな気持ちは微塵もないので大丈夫です。確認したいのは、これで私はこの城での職務、及び殿下の婚約という立場から、晴れて自由の身――正式に解放されるということでよろしくて?」
「晴れて……? そ、それはそうだが――」
「あーりがとうございます! はー長かった! これでようやく有給消化ができますわね!」
「ゆ、有給……?」
聞きなれない言葉にクロードが眉をひそめたが、もう婚約者でも何でもないただの馬鹿王子の反応にいちいち構ってはいられない。
わたしはさっそく、侍女に持たせていた分厚い冊子を近くにいた書記官に手渡した。
「こちら、宰相府の全業務マニュアルです。ミア様のためにまとめておいたものですが、試験が終わってミア様も文官の仕事をすることはないでしょうから、こちらは宰相府の皆さまで使ってくださいませ。新人でもこのマニュアルを読めば即戦力レベルで働けます」
「えっ。よ、よろしいのですか?」
「もちろん! 皆さまの健全な就労形態にお役立ていただければ何よりですわ」
にっこり笑うわたしに、また馬鹿王子が「そんなもの必要ない!」とわめき出す。
いやいや、必要ないって、あなたにあげるわけじゃありませんから。
「そんなもの、何の役に立つと言うんだ! また文官たちを混乱させるだけだろう!」
「別に必要ないのでしたら、破棄していただいて構いませんわ。元々はミア様のために作成したものですし」
「私のために……セラフィーナ様が?」
ぽっと顔を赤らめたミアに、馬鹿王子が「ミア⁉」とぎょっとしたように叫んだ。
「あれの言うことを信じるな! あの女はミアを陥れようとしたんだぞ!」
「してませんわ」
「してないって言ってますよ」
「ミアは純粋過ぎる! おい、そこの文官! そのマニュアルとやらをいますぐ破り捨てろ!」
苛立ったクロードがそう指示を出したとき「それは困ります!」と前に出てきたのは宰相閣下だった。
サッと補佐官からマニュアルを受け取ると、わたしに丁寧に頭を下げてくる。
「貴重なものをありがとう、セラフィーナ嬢。こちらは宰相府で大いに役立たせていただく」
「ええ、どうぞ。お好きなように使ってくださいませ」
宰相に握手を求められ、にこやかに交わす。
すると周囲の貴族たちのわたしを見る目が、どんどん変わっていった。
「おい、宰相閣下があのように頭を下げられるなんて……」
「もしかして、セラフィーナ様はすごく優秀だったりするんじゃ?」
クロードは青い顔をして「何をしている宰相!」と、あろうことか宰相閣下を叱責した。
宰相閣下の眼鏡の奥の瞳が、スッと冷たく細められる。
これはまずい。ここで王太子への糾弾が始まり、婚約破棄撤回なんてことになろうものなら、定時退社どころか永久にこのブラック王城から帰れなくなってしまう。
そのとき「やめないかクロード!」と広間に艶のある低い声が朗々と響き渡った。
カツカツと前に歩み出てきたのは、公爵であり王弟でもあるルーカス様だった。
天鵞絨のマントを翻し現れたルーカス様の凛々しさと言ったら……! ちょっと馬鹿王子、邪魔。ルーカス様が見えないじゃない。
「な、お、叔父上……?」
「先ほどから随分と身勝手な発言ばかりしているが、お前は誰のおかげでいま宰相府の残業時間が月平均百時間から、二十時間まで減ったと思っている?」
「はっ⁉ まさか――」
「書類の紛失は去年は百件近くあったが、今年はまだゼロ。すべてセラフィーナ嬢の業務改善案のおかげだ。セラフィーナ嬢が非情? 冷淡? 馬鹿を言うな。それならお前はどんな職場なら情のある温かい職場だと言うんだ?」
叔父に詰められ、クロードは口をぱくぱくさせるだけで答えられなかった。
周囲の貴族たちの間にも、戸惑いの色が広がっていく。
「そういえば……。最近、宰相府の新人が、以前より生き生きと働いていると聞いたな」
「うちの息子が補佐官をやってるんだが、前は疲労困憊といった感じだったのに、最近は定時で帰ってきて剣の稽古をしているぞ」
おっとさらにまずい。セラフィーナ様実はすごかったんじゃない? な雰囲気になると、主人公の影が薄くなってしまう。
悪役令嬢は役目を終えたらさっさと退場するに限る。
「では、私はこれにて。本日をもって宰相業務を完了とし、婚約者としても退職させていただきますわね」
優雅に一礼すると、ルーカス様がすっと手を差し出してきた。
「お送りしよう」
「まぁ。ありがとうございます」
ルーカスの大きな手をとり、踵を返す。
「ま、待て! 誰がお前の退職を許可した!」
「あら殿下。つい先ほど婚約破棄と同時に、私のすべての公務を解いてくださったではございませんか。まさか撤回などなさりませんよね?」
クロードは、ぐっと言葉に詰まった。
背後でミアがおろおろしているのが見える。頼りない姿だけど、大丈夫。あなたは主人公でヒロインなんだもの。悪役令嬢が去ったあとは、ハッピーエンドまっしぐらよ!
わたしはもう振り返ることなく、大広間をあとにした。
「見事な啖呵だったな」
「いやですわ。どこから聞いていらしたんです?」
「最初からだ。君は本当に興味が尽きない」
ルーカス様は外に出てすぐ、わたしの目の前で跪いた。
わたしの手を取り、まるですがるような目で見上げてくる。
やめて、そんな目で見ないで! イケおじの上目遣いなんて目に毒過ぎる!
「セラフィーナ嬢、単刀直入に言う。我が領地に来ないか。給金は弾む。王城の二倍出そう。もちろん定時退勤、君の言っていた有給も設定しよう。どうだ?」
何だかプロポーズみたいと思いながらも、わたしは「魅力的なお誘いですけれど」と断った。
「わたし、また雇われの身に戻るつもりはございませんの」
「……というと?」
「すぐに事業を起こすつもりでおりまして。『働きやすい職場作り』コンセプトに、業務内容の効率化を支援するコンサルティング業を始めようかと。もしよろしければ、ルーカス様のご領地も支援させていただきますけれど?」
その言葉にルーカス様は驚いたように目を見開き、それからくつくつと喉の奥で笑い出した。
「なるほど、起業か。確かに君の器量なら、雇われるより雇う側がふさわしいな」
「ルーカス様に褒めていただけるなんて光栄ですわ」
「では、もうひとつ聞かせてくれ」
ルーカスは少しだけ声を落とすと、真剣な目でわたしの顔を覗き込んだ。
「取引相手としてだけでなく、私個人の隣にも立ってはもらえないだろうか。叶うなら、永遠に」
涼しい夜風がわたしたちの間を通り抜けていった。
あらー……そうですか。婚約破棄されたばかりの悪役令嬢に、そんな素敵な口説き文句、ずるいです。
わたしはしばらく、ルーカス様の言葉を吟味するように黙りこんだ。
正直言って嬉しい。クロードよりルーカス様のほうがずっと素敵だと思っていたし。王太子妃より公爵夫人のほうが絶対ホワイト案件だし。でも――。
「……ルーカス様のことは、嫌いではありませんわ。むしろ、正直に申しますと、大変、その、好ましく思っております」
「では……」
「ですが! ……お返事は、わたしの事業が軌道に乗ってからにさせていただけないでしょうか? 誰かの隣に立つ前に、まずは自分の足でどこまで行けるか試したいのです」
そして目指せブラック企業の根絶! オールホワイトな世界へ!
高らかに宣言するわたしに、ルーカスは様は一瞬呆気にとられた顔をしたあと吹き出した。ツボに入ったらしく、お腹を抱えて笑っている。
「はぁ……本当に飽きない人だ。いいだろう。急かすつもりはない。ただし」
「ただし?」
「その事業の契約第一号は、必ず私にしてくれ。他の誰かに君の初めてを譲るのは業腹だからな」
や、やだー! 言い方が意味深すぎてドキドキしちゃうじゃありませんか。これだからイケおじは! と心の中でキャーキャー叫ぶ。
でもそれを表に出すことなくぐっと抑えこみ、わたしは顔が赤くなるのを誤魔化すように笑ってみせた。
「贔屓にすると約束してくださるなら、考えて差し上げてもよろしいですわよ!」
そうしてふたりで軽口を叩き笑い合いながら、宴の喧騒を背に静かな庭園へと歩き出した。
*****
それから間もなく、わたしは王都にセラフィーナ・コンサルという会社を立ち上げた。
業務内容は「働き方改革コンサルティング」。
貴族家や商会から依頼が殺到する一方で、わたしのマニュアルを拒否した王太子の周辺では、退職や部署移動の希望者が後を絶たないのだとか。何やってるんだ馬鹿王子。
宰相府ではあのマニュアルを徹底し、職場環境が良くなったと評判だそうで、わたしとしてもほっとしている。
ヒロインのミラ様が上手くやっているかどうかは――もうどうでも良い。わたしは悪役令嬢を降りたし、もう王太子の婚約者でもないのだから。
「セラフィーナ様。次のご依頼は隣国からですよ。『ブラック公爵家』の跡継ぎの方から。何でも公爵家の使用人が、ここ数年一度も休日を取れていないとか……」
「あらあら、それはそれは。紛うことなきブラックですわね。腕が鳴りますこと」
執務机で依頼書に目を通しながら、わたしは不敵に微笑んだ。
残業は美徳ではない。搾取である。
定時退勤という名の正義を掲げ、今日もわたしは新たなブラック企業に戦いを挑むのだった。




