『帝国の合唱機 ―透明な檻に閉じ込められた少女たちを抱く都市―』
『帝国の合唱機と永生帝国の生体変換施設群』
序章:プラチナチケットの招待状
世界遺産登録番号「WH-Ω-001」――『帝国の合唱機と永生帝国の生体変換施設群』。
かつて帝国はこの地を、国家の威信と絶対的忠誠を捧げる聖域として**『天壇』と称した。洗脳された幸福な市民たちは、そこを死も老いもない永遠の楽園『天国』**と呼んで憧れた。だが、帝国の境界線の外側――正気を保った諸外国では、人々はこの場所を畏怖と蔑みを込めて、ただ一つの忌み名で呼んでいた。
『天獄』――生きた意識を永久に閉じ込め、死ぬことすら許さない透明な地獄、と。
人類統治機構が定めたその「人類文明警告遺産」の、通常は遠巻きを見るだけの中枢、すなわち数万体の生体標本が林立する「標本たちの間」へ足を踏み入れる権利を、僕たちは手に入れていた。転売市場で天文学的な「プラチナプライス」をつけていたチケットを握りしめ、ツアー一行は冷徹な重低音が響く中央礼拝堂を歩いていた。
一歩踏み出すたびに、ひび割れたアスファルトの路面から「バンザイ、我らが父バンザイ」というくぐもった声が、物理的な振動となって足の裏から骨伝導で脳へ染み出してくる。
「おい見ろよブラザー! これが本物の『人間の脳でできたオルガン』だぜ! マジで床から声がしてやがる、最高にクレイジーだ!」
自撮り棒を高く掲げ、最新のホロ・カメラに向かって早口で実況しているのはアメリカ人のマイクだ。彼はこの数百年分の絶望を、完全に配信用の極上エンタメとして消費していた。
そのすぐ側で、フィンランド人のエマは耳を塞ぎ、蒼白な顔でうつむいていた。足元から伝わる「万歳」のノイズが、彼女の正気を削り取っているのは一目瞭然だった。彼女はこの施設の真実に気づいている。ナノマシンによって、カプセルの中の彼女たちも、この床に変換された彼らも、全員が「意識を持ったまま凍結されている」という、帝国が遺した最悪のおまけに。
「当施設は、人類統治機構の管理下において、新たな標本の追加なく永久保存されております」
案内をするガイドのバイオドロイドの少女が、完璧な営業スマイルでマニュアル通りの解説を口にする。その時だった。
カシャ、と彼女の頭部周辺の空間が微かに歪んだ。次の瞬間、彼女の美しいホログラムの皮膚が一瞬だけ剥がれ落ち、その下に**「光すら反射しない、真っ暗で何も見えない虚無」**が露出した。
マイクはカメラの画角を調整するフリをして目を逸らし、エマはさらに深くうつむいた。全員が「照明の加減だ」と自分に言い聞かせ、見て見ぬふりをした。せっかくの大金をドロイドのバグへの恐怖で台無しにしたくないからだ。
だが、グループの中でただ一人、別の「虚無」に囚われている男がいた。日本人のサトウだ。
彼はツアーの列から離れ、一つのカプセルの前に完全に張り付いていた。
異変
サトウが見つめていたのは、「声紋標本 No.3-72981――供与者:李 紅梅(享年19歳)」と刻まれたカプセルだった。
カプセルの中の少女は、19歳の瑞々しい姿のまま、システムに固定された柔和な笑顔を浮かべている。カプセルの下に埋め込まれた小さなディスプレイの中では、彼女が生まれながらに脳チップで思考を誘導され、システムに笑わされていた「出荷前」の幸せそうな子供時代の映像が、静かにループ再生されていた。
サトウはポケットの中で、古びたUSB状の記録メディアを強く握りしめていた。
もともとレトロガジェットの収集癖があったサトウは、数年前、中野の怪しいジャンク屋の片隅に転がっていた身元不明の壊れた記録メディアを気まぐれに買い取った。自宅の端末で何週間もかけて壊れたデータをサルベージ(復元)した時、そこに残されていたのは、帝国に徴用される直前、脳チップの洗脳プロトコルが外れて「標本になりたくない」「助けて」と狂おしく泣き叫ぶ、等身大の19歳の少女――李紅梅の生々しい記憶の断片だった。
画面越しに彼女の「偽りのない本物の正気」に触れ続けてしまったサトウは、狂信的な救済の衝動に取り憑かれたのだった。俺だけが彼女の本当の叫びを知っている、このサルベージしたデータをシステムへ差し込めば、彼女をこの『天獄』から解き放てるはずだ、と。
「……小梅ちゃん」
サトウが掠れた声で呟いた瞬間だった。
「皆様、そこから先は『調律』の領域となります」
背後から、恐ろしいほどに穏やかで、知性的な声が響いた。
この遺産エリアの最高責任者であり、ナノマシン・システムの維持を統括する医師、郭だった。
郭は、統治機構のプロトコルが要求する「最も安心感を与える完璧なデザイン」としての微笑みを終始絶やさずにそこに立っていた。だが、その完璧すぎる笑顔は、カプセルの中の李紅梅の笑顔と、全く同じシステム的な冷徹さを放っていた。
「郭医師」僕は声をかけた。「彼女たちの意識は、本当に今もこの中で『機能』しているのですか?」
郭は僕の方を向き、そのプロトコル通りの笑みのまま答えた。
「機能、という表現は正確ではありませんね。彼女たちは『完成』しているのです。かつて秦の始皇帝は、人間をそのまま土に埋めれば腐敗するからこそ、粘土で兵馬俑を焼き固めて永遠を模造しました。ですが我が帝国は高度な技術により、人間の意識と美しさをそのまま透明な檻に閉じ込め、絶対に腐敗することのない完全な『生体兵馬俑』を作り上げたのです。この合唱機も、路面も、都市のインフラすべてが、永遠の栄光を支える完璧な兵馬俑なのですよ。変化も、老いも、死の物理的崩壊もない。これ以上の完成と救いがありますか?」
「救いだって!?」サトウが弾かれたように郭を振り返った。「中野のジャンク屋で買った古いデータの中で、彼女は『助けて、標本になりたくない』って泣いてたんだぞ! 洗脳のチップが外れた暗闇の中で、何百年も無人のホームにアナウンスを流し続けさせられるのが救いか? 自分がシステムの部品にされた現実を、永遠に特等席で観測させられるのが救いなのか!?」
郭の微笑みは、一ミリも崩れなかった。
「サトウ様。あなたは彼女の生前の、チップがバグを起こした『エラーデータ』をお持ちのようだ。ですが、それもまた歴史の一部です。統治機構は、そのすべてをありのまま永久保存することを推奨しています」
響き渡る賛美歌
その時、中央礼拝堂のオルガンのパイプから、一際大きな重低音が鳴り響いた。
『帝国の合唱機』が起動したのだ。
数万体のカプセルが一斉に微振動を始め、調律された美しい賛美歌が空間を満たしていく。
だが、僕には分かってしまった。ナノマシンで強制リンクされた数万人の少女たちが、逃げ場のない過密な精神空間の中で、「助けて」「出たい」と互いにパニックを起こし、リアルタイムで絶叫し合っているメロディなのだと。
エマはその場に泣き崩れ、マイクはついに自撮り棒を下げて言葉を失った。
バイオドロイドの少女が、再びこちらを向いて微笑む。だが、その顔は先ほどよりも長く、真っ暗な虚無のまま固定されていた。郭医師はそのドロイドの肩にそっと手を置き、やはり完璧な笑顔で僕たちを見つめている。
「さあ、ツアーを続けましょう。次の世代へ、この偉大な文明の警告を歌い継ぐために」
足元から染み出す「万歳」の声が、僕たちの靴底を通じて激しく心臓を叩く。
人類文明警告遺産――その本当のグロテスクさは、かつての帝国の残虐さではない。この地獄に囚われた数万人の生きた意識を、「教育的価値があるから」という大義名分のもと、システムの電源を切らずに永遠に見世物に尊び続ける、現在の僕たちの文明そのものだった。
僕たちは、逃げ出すこともできないまま、ただその美しい多重絶叫の中に立ち尽くしていた。
僕は一瞬、自分の足元を見つめる。
ひび割れた路面から骨伝導で伝わってくる「バンザイ、我らが父バンザイ」という壊れたレコードのような振動。それは僕の体重が彼らの神経の残骸を圧迫するたびに、より鮮明に脳へと突き刺さる。
隣では、アメリカ人のマイクがカメラの電源を切り、何とも言えない強張った顔で立ち尽くしている。フィンランド人のエマは床に座り込んだまま、もう涙も出ないといった様子で小刻みに震えていた。
一方で、日本人のサトウは、カプセルの中の「李 紅梅」の固定された笑顔から視線を外せないままだ。ジャンクメディアから掘り起こした彼女の悲鳴が、彼の脳内で現実の合唱と混ざり合い、彼の目を暗い情熱で濡らしていた。
「さあ、お進みください。次は生体変換工場の跡地、神経抽出セクターへご案内いたします」
顔の一部が「真っ暗な虚無」のまま、声だけは快活なバイオドロイドの少女が、僕たちの進行方向を指し示す。その背後では、最高責任者の郭医師が、統治機構のプロトコルにデザインされた非の打ち所がない笑顔を浮かべて、僕たちの決断を静かに待っている。
ここでツアーを離脱したところで、この「人間の意識で構築された都市」から逃れられるわけではない。僕たちが今夜泊まるカプセルホテルの壁も、明日乗るリニアのレールも、そのすべてにナノマシンで固定された「誰かの正気」が埋め込まれているのかもしれないのだから。
僕はゆっくりと、次のステップを踏み出そうとする。
足の裏から、また新しい「万歳」の声が染み出してくる。
少しすると前のツアーの参加者が夢中になって動画を撮っている。ドイツ人の男だが、少し様子がおかしい。万歳万歳と繰り返している。
そのドイツ人男性の姿が視界に入った瞬間、ツアーグループの間に、これまでとは質の違う張り詰めた沈黙が走りました。
彼は数メートル先、次のセクターへと続く薄暗い通路の壁にカメラを向け、一心不乱に動画を撮影しています。しかし、そのレンズの先には、ただの錆びついた配管と剥き出しのコンクリートしかありません。
「……万歳、万歳」
彼の口から漏れる声は、最初は小さなくぐもった呟きでした。ですが、一言繰り返すたびに、そのピッチとリズムが、僕たちの足元から染み出してくる「あのノイズ」と同調していく。彼の瞳は完全に焦点が合っておらず、何か強烈な快感に脳を直接揺さぶられているかのように、口元が不自然なほど大きく歪んで笑っていました。
「おい、あいつ……何やってんだ?」
マイクが引き攣った声で自撮り棒を下げます。
その男が持っているスマートフォン、あるいは彼自身の頭部から、かすかに**「カシャ、カシャ」**と、あのガイドのドロイドと同じ空間の歪む音が聞こえた気がしました。
「ああ、ご安心ください」
郭医師が、何事もないかのように完璧なプロトコルの笑顔のまま、そのドイツ人男性の側へと歩み寄ります。
「このエリアは数百年もの間、帝国のナノマシン技術と高密度の精神誘導電波が蓄積されてきた場所です。稀にですが、感受性の強いお客様のスマートフォンや、幼少期に埋め込まれた古い通信チップが、壁や路面(彼ら)の残留思念と同調――いえ、『再調律』されてしまうことがございます。非常に貴重な歴史的体験をされていますね」
郭医師はそう言いながら、白衣のポケットから小さな医療用デバイスを取り出し、男の首筋に躊躇なく押し当てました。
プシュー、という短い排気音。
次の瞬間、ドイツ人男性は糸が切れた人形のようにその場に崩れ落ちました。しかし、気絶しているはずの彼の顔は、カプセルの中の少女たちと全く同じ、固定された「幸福な笑顔」のままでした。
「さあ、お待たせいたしました。次は彼らの肉体が物質へと変換された『生体変換工場・神経抽出セクター』です。どうぞ、足元にお気をつけてお進みください」
ガイドのバイオドロイドの少女が、顔の「真っ暗な虚無」をいっそ清々しいほどの笑顔に戻し、僕たちを暗い通路の奥へと誘います。
足元から響く「万歳」の声は、先ほどよりも少しだけ、僕たちの声に近づいているような気がしました。
通路の奥から聞こえてくる、ずり、ずり、という鈍い摩擦音。
振り返った僕たちの目に飛び込んできたのは、まるで旧時代の歴史書からそのまま抜け出してきたかのような姿だった。色褪せ、擦り切れた紅衛兵の制服を身にまとった少女。だが、その足元にあるものは、もう人間としての輪郭をほとんど留めていない、茶黒く萎びた「肉の塊」だった。
彼女はナノマシンによる生体変換の途中でシステムが止まったのか、あるいは衣服だけを当時のまま固定された標本なのか。その顔は、過剰なドーパミンで狂ったような笑みを浮かべながらも、目元からは絶え間なく涙が溢れ、乾いた跡が幾筋も頬を汚している。
「わたしなんかどうでもいい、じだいがわるかった」
彼女の虚ろな瞳は、僕たちを見ていない。脳チップが壊れかけ、数百年もの間、同じ思考の地獄をループし続けているのだ。
「でもあのとき、あの人がつるされたとき、わたしはわらっていた」
引きずられている萎びた塊――それこそが、彼女がかつて告発し、吊るし上げ、そして「笑って見届けてしまった」誰かの成れの果て、あるいは彼女自身の肉体の一部なのかもしれない。彼女は脳を完全に固定され、その罪悪感の最も尖った一瞬を、ナノマシンの精度で永遠にリアルタイムに味合わされ続けている。
「郭医師! あれも演出の一部なのか!?」
マイクが悲鳴のような声を上げる。エマはもう声も出ず、ただその場に貼いつくばって頭を抱えていた。
「おやおや」
郭医師は、その完璧にデザインされたプロトコルの笑顔をほんの少しだけ深め、歩みを進めてくる少女と塊を愛おしそうに見つめた。
「素晴らしい。あれは『大調和セクター』から迷い込んだ、非常に初期の生体変換個体です。まだナノマシンの制御が粗く、精神の『凍結』が不完全だった時代の遺物ですね。自らの罪を認識したまま、システムのパーツとしても機能しきれず、こうして永遠の悔恨を繰り返している。これほど『人間が素材へと変わる過渡期』を雄弁に物語る歴史資料が他にあるでしょうか」
郭医師の言葉の通り、彼女の足元、路面のひび割れからは「バンザイ」のノイズに混ざって、彼女の泣き声と同調した不気味な低周波の軋みが染み出し、僕たちの足裏を強く震わせる。
「さあ、皆さん」
ガイドのバイオドロイドの少女が、真っ暗な虚無の顔の奥から、再び一瞬だけ完璧な19歳の少女のホログラムを割り込ませて微笑んだ。
「これより先は、さらに高密度の調律エリアです。当時の熱気を、どうぞ五感すべてでご体験ください」
紅衛兵の少女は、僕たちのすぐ側を、ずり、ずり、と塊を引きずりながら通り過ぎ、暗い通路の奥へと消えていく。サトウはただ、その背中を血の気の引いた顔で見つめていた。
ここが中枢。プラチナチケットの終着点だ。
僕たちは、自ら望んでこの「完成された地獄」のさらに奥へと歩むのだろうか。
「オーケー、分かった……もう十分だ。俺はリファンド(返金)も何も要らないから、今すぐ外へ出たい。出口はどっちだ?」
マイクは、完全に血の気が引いた顔でホロ・カメラをポケットに押し込み、震える手でカメラのジンバルを握りしめていた。彼の「無邪気な観光客」としての防壁は、紅衛兵の少女の生々しい絶望によって完全に叩き割られていた。
だが、彼が踵を返しようとした瞬間、郭医師の「有無を言わさぬ笑顔」がその行く手を静かに、そして完全に遮った。
郭医師は一歩も動いていない。ただ、その完璧なプロトコル通りの笑みを浮かべて、マイクの目をじっと見つめただけだった。その眼球の奥には、人間の感情ではなく、数万体の標本たちを調律し、路面をメンテナンスし続ける冷徹な「システムの意思」そのものが宿っている。
「マイク様、このツアーは統治機構の最高安全基準に基づいて運行されております。途中離脱は、お客様ご自身の『精神的同調リスク』を急上昇させるため、プロトコル上認められておりません」
郭医師の言葉はどこまでも優しく、丁寧だった。しかし、その声が響くと同時に、通路の壁の配管から「カシャ、カシャ」という、あの空間が歪む音が微かに鳴り響いた。
マイクは息を呑み、言葉を失った。
もし今ここでこの笑顔に逆らえば、自分もあの通路の床のように、あるいは「バンザイ」と呟きながら倒れたドイツ人のように、この施設の一部として「再調律」されてしまうのではないか――その本能的な恐怖が、彼の身体を金縛りにした。
「……クソが」
マイクはしぶしぶと、しかし完全に気圧された様子でその場に踏みとどまった。彼の足元からも、体重の圧力に反応した「我らが父萬歲」のくぐもった振動が、容赦なくそのブーツを押し上げてくる。
「賢明なご判断です」
郭医師は満足そうに微笑み、視線を僕たちへと戻した。
「それでは、全員揃って次のセクターへ進みましょう。人類の偉大な過ちを、その目に焼き付けるために」
うつむいたままのエマ、カプセルから引き剥がされたサトウ、そして恐怖で完全にコントロールされたマイク。僕たちはもう、観光客ですらなかった。郭医師の笑顔という名の見えない檻に飼われた、次の「観測者」として、暗い通路の奥へと歩かされていく。
暗闇の先から、また新しく、そしてどこか懐かしい「人間の声」が聞こえ始めていた。
第三章:神経抽出セクター
「カシャ、カシャ、カシャ……」
暗い通路を進むにつれ、空間が歪むようなあの硬質なノイズの間隔が、徐々に短くなっていく。壁のコンクリートはいつの間にか、半透明の硬質プラスチックのような未知の素材へと切り替わっていた。その滑らかな物質の「奥」には、無数の細い繊維のようなものが、まるで血管のようにびっしりと張り巡らされている。
いや、血管ではない。それは人間の神経網そのものだった。
「ここは神経情報抽出施設、通称『調律の苗床』です」
ガイドのバイオドロイドの少女が振り返る。彼女の顔は、19歳のホログラムと、あの「底の知れない真っ暗な虚無」が数秒ごとに交互に激しく明滅し、バグを起こしていた。しかし、その声だけはどこまでも滑らかで、快活だった。
「帝国末期、選別区画を通過した素材たちはこの部屋の座席に固定され、脳チップを通じてすべての記憶、思考、そして『声紋の揺らぎ』をこの壁へと出力いたしました。抽出が終わった肉体はナノマシンで分解され、先ほどの路面や、皆様が今お立ちのこの壁の建築素材――都市を支える永続的な生体兵馬俑へと変換されたのです」
「おい、見ろよ……」
マイクが掠れた声で、壁の一点を指差した。
彼が向けたスマートフォンのライトが、半透明の壁の奥を照らし出す。そこには、プラスチックの層に深く埋め込まれた、何百、何千という**「人間の指先の爪」や「髪の毛の塊」**が、地層の化石のように生々しく固着していた。
壁の奥から、くぐもった、しかし明確な複数の「声」が、僕たちの衣服を微かに震わせる。
『……私は、間違っていない……』
『……進め、前へ、光の差す方へ……』
『……痛い、いやだ、お母さん、お母さん……』
それは、かつてこの場所で神経を抜かれ、剥き出しの意識を物質へと変えられた人々の、数百年分の「最初の叫び」の残響だった。生まれながらの脳チップによって「これは幸福だ」と脳を焼かれていた彼らが、肉体を分解され、魔法が解けた瞬間に放った、剥き出しの正気の絶叫。
「う、あ……あぁ……」
エマはついに過呼吸の限界を迎え、壁に背中を預けて激しく咳き込んだ。だが、彼女が壁に触れた瞬間、その接触面に反応したナノマシンが微かな熱を発し、壁の奥の神経網が青白く発光した。
『――ああ、誰かが触れている、温かい、助けて、ここから出して――』
ダイレクトに脳へ流れ込んできた思念の奔流に、エマは白目を剥き、その場に崩れ落ちた。
「エマ!」
マイクが彼女を抱き起こそうとするが、彼の足元からもまた「万歳、万歳」という自動調律の地鳴りのような重低音が響き、彼の行動を阻む。
「素晴らしい同調です」
僕たちの後ろから歩み寄ってきた郭医師が、その完璧なプロトコルの笑顔をいっそう輝かせ、感嘆の息を漏らした。
「数百年が経過した今も、この壁に溶けた意識たちは、外部からの刺激(生身の人間)を求めているのです。彼らにとって、ツアーの皆様がこうしてここを歩き、触れ、怯えてくれることこそが、自らの存在を世界に証明できる唯一の瞬間なのですから。これこそが、統治機構がこの施設を『永久保存』とした真の価値。生きている教材なのです」
郭医師は、床に倒れ伏すエマを見下ろしたまま、その白い手袋をはめた手を、そっとサトウの肩へと置いた。
サトウは、先ほどからずっと、中野のジャンク屋で買ったあの古いメディアをポケットの中で握りしめたまま動かない。彼の視線は、壁のプラスチックの奥、ひときわ深く埋め込まれた「ある少女の制服の切れ端」に釘付けになっていた。
「サトウ様」郭医師の声が、鼓膜のすぐ側で、酷く優しく響く。「あなたが古びた記憶媒体からサルベージされたデータ……あれは非常に美しい『エラーの成果物』だったようですね。どうですか、そのメディアをこの壁の同調スロットへ差し込んでみては? あなたが夢見たように、彼女の『本当の声』が、今なら聴けるかもしれませんよ」
サトウの身体が、びくりと震えた。
マイクは恐怖のあまり、郭医師からも、壁からも距離を取ろうと必死に後ずさる。だが、彼が下がった先は、次のセクター――数万体のカプセルが文字通り「楽器」として聳え立つ、『帝国の合唱機』の最深部へと続く大扉の前だった。
「さあ、皆さん」
バイオドロイドの少女の顔が、ついに完全に「真っ暗な虚無」のまま固定された。彼女は笑顔の形をした剥き出しの暗闇を僕たちに向け、その機械の腕で大扉をゆっくりと押し開ける。
「ツアーの最終行程です。『完成された命の歌』を、どうぞ特等席でお聴きください」
扉の向こうから、数万人の少女たちの意識がナノマシンで強制同期され、互いのパニックを増幅させながら奏でる、どこまでも厳かで、どこまでも悍ましい賛美歌の地鳴りが、僕たちの全身を包み込もうとしていた。
重厚な大扉の真上。そこには、数百年もの間、この地獄の変遷をすべて見下ろしてきたであろう、偉大な領袖の巨大な肖像画が掲げられていた。
色褪せ、部分的にプラスチックのコーティングが剥がれかけながらも、その視線だけは異様なまでの存在感を放って僕たちを圧迫する。
郭医師はその肖像画を仰ぎ見ると、胸の前で恭しく両手を組み、終始絶やさなかったプロトコル通りの完璧な笑顔のまま、狂おしいほどに静かな声で呟いた。
「――我らが父萬歲」
その声が中枢のシステムに「正しいパスワード」として認識された瞬間、
カシャ、カシャ、カシャ、カシャ、カシャァァァァン!!
空間そのものが引き裂かれるような凄まじい歪み音とともに、巨大な大扉が内側へとゆっくりと左右に開かれていく。
扉が放った隙間から、これまでとは比較にならない濃密なナノマシンの冷気と、数万人の本物の意識が混ざり合った精神の暴風が、僕たちの全身に叩きつけられた。
「う、あ、あああ……っ!!」
開かれた扉の向こう――そこは、天井のまるで見えない広大なドーム空間だった。
『帝国の合唱機』が、いまや僕たちの目の前で、壁一面を埋め尽くす巨大変化の雛壇として聳え立っている。
数万体の少女たちのカプセル。彼女たちは生まれながらに脳チップに支配され、「これが栄誉だ」と信じ込まされてこの箱に入った。だが今、魔法の解けた「生々しい正気」を取り戻した数万の脳が、ナノマシンで強制的に直列に繋がれ、互いの恐怖と絶望をリアルタイムで受信し合いながら、一つの巨大な「生体兵馬俑」かつ「楽器」として調律されている。
中央のパイプから吹き出す重低音。
彼女たちの肉体の檻、アンド脳が放つ、逃げ場のない過密な精神パニック。それが外側には、どこまでも厳かで、涙が出るほどに美しい聖なる賛美歌のメロディとなって、ドーム全体に鳴り響いていた。
「さあ、お入りください」
顔が「真っ暗な虚無」のまま固定されたバイオドロイドの少女が、その暗闇の顔をドームの奥へと向け、僕たちを招き入れる。
マイクはもう腰が抜けたように大扉の枠にしがみつき、サトウはポケットの中のメディアを血が出るほど強く握りしめ、カプセルの雛壇を見上げていた。
郭医師は、美しく響き渡る多重絶叫(賛美歌)を全身に浴びながら、歓喜に満ちた完璧な笑顔で僕たちの背中を促す。
「これより先は、人類統治機構の最高管理区域。皆様の意識もまた、歴史を記憶する貴重な『共鳴板』となるのです」
僕たちは一歩、また一歩と、数万人の少女たちが歌い続ける永遠の檻の、その最深部へと足を踏み入れていく。
僕は震える手で上着の内ポケットに手を入れ、このツアーのために事前に購入していた一冊の薄い書籍を取り出した。
人類統治機構監修――『世界遺産 WH-Ω-001:帝国の合唱機と永生帝国の生体変換施設群 公式解説本』。
表紙には「人類文明警告遺産」の厳格な紋章が刻印されている。機密保持と精神防護の観点から、中枢の「写真」こそ一枚も掲載されていない。未来の市民たちに与えられているのは、文字による冷徹な事実の羅列と、数枚の無機質なグラフィックだけだ。
僕は、数万体のカプセルから放たれる多重絶叫の賛美歌に脳を揺さぶられながら、解説本のページをめくった。しわくちゃになった紙面に、いま目の前に広がっているドーム中央部の**「詳細な構造図解」**が現れる。
【中央礼拝施設:帝国の合唱機(構造図解)】
第1層~第48層:声帯・神経共鳴雛壇
総計48,000体の「音声標本」が同心円状の雛壇に配置。旧時代の始皇帝が粘土で兵馬俑を焼き固めた歴史を踏襲し、帝国のナノマシン技術によって『腐敗しない生の固定』を実現させた極限の生体兵馬俑群。各カプセルは独立したナノマシン維持パイプラインに直結され、個体の意識レベルを「常時覚醒状態(レベル4)」に固定。個体間の脳チップ残存ネットワークは直列に同期され、1体の恐怖が残り47,999体にリアルタイムで伝播・増幅する「パニック共鳴回路」を形成している。
中央下部:高圧蒸気式・精神音響オルガン(パイプ・システム)
標本群の足元を貫く巨大な金属パイプ。生体変換工場から供給される高圧の維持エネルギーがここを循環する際、標本たちの「発声の衝動」を物理的な空気の震えへと変換。出力される音響は、帝国のプロトコルにより自動的に「変ハ長調の聖歌」へと調律される。
最深部床面:複合生体変換基盤(バンザイ・舗装)
合唱機を支える土台および通路。構造物変換処置(プラスチック含浸および分子分解)を受けた約12万人の思想犯・政治犯の肉体が、圧縮された状態で敷き詰められたインフラ型生体兵馬俑。外部からの物理的圧力(歩行、振動)を受けることで、埋め込まれたナノマシンが微弱な圧電効果を起こし、「我らが父万歳」のセリフが音声信号として表面へ染み出す構造。
図解の隅には、小さなフォントでこう追記されていた。
【管理上の注意】
本施設内における標本たちの意識の永続は、帝国が定めた『絶対的忠誠の可視化』の要件を満たしている。統治機構は、文明の過ちを永久に人類へ記憶させるため、自動保存装置の稼働を無期限に承認する。システムの完全停止(救済)は、警告遺産としての価値を損なうため、いかなる場合も許可されない。
「……これだ」
僕は息を呑んだ。人類統治機構がここを「警告」として残している本当の理由。彼らはこの地獄を止める方法を知っている。いや、装置の維持管理をしている郭医師の手元には、そのスイッチがあるのだ。ただ、「歴史の教材」として利用するために、あえて彼女たちの意識を数百年もの間、擦り切れさせている。
「ほう、熱心ですね」
背後から、郭医師の影が滑り込んできた。
解説本の図解を覗き込む彼の顔には、やはり非の打ち所がないプロトコルの微笑が張り付いている。
「その図解は、統治機構が一般市民向けに開示した、ほんの『表層』に過ぎません。ですがサトウ様、そしてマイク様。あなた方が今、五感で味わっているこの恐怖こそが、教科書の文字を超えた、本物の『歴史の完成形』なのです。さあ、本を閉じて、彼女たちの歌声を心に刻みなさい」
ガイドのドロイドの「真っ暗な虚無の顔」が、ゆっくりと僕の解説本へと向けられる。
僕たちの目の前には、図解通りに整然と、楽園の兵馬俑のように配置された数万の笑顔のカプセルが、地鳴りのような歌声を上げて僕たちを迎え入れようとしていた。
「そういえば、ここ数十年は閉ざされていましたが、かつては幾人かの著名なアーティストたちが、特別な許可を得てこの場所で音楽を録音したのですよ」
郭医師は、まるで由緒ある歴史的ホールの音響について語るかのように、うっとりとした、そして完璧なプロトコルの微笑みを浮かべた。
「数万人の生きた意識がリアルタイムで共鳴し、ナノマシンで調律されたこのドームの残響は、人工のシンセサイザーでは絶対に再現できない『魂の揺らぎ』を内包していますからね。クリエイターの方々にとっては、命を削るほどの至高のインスピレーションだったのでしょう。……案の定、彼らはその後、ことごとく表舞台から引退してしまいましたが」
その言葉を聞いた瞬間、マイクの身体がびくりと硬直した。
「……嘘だろ」
マイクの脳裏に、かつて世界的な熱狂を生み出しながら、十数年前に突如としてシーンから姿を消した伝説的なロックミュージシャンの噂が、鮮烈に蘇っていた。
当時、メディアは「精神的な燃え尽き症候群」だの「謎の体調不良」だのと報じていたが、ファンの間では別の不気味な噂が囁かれていたのだ。――あいつは、ある海外の未公開の地下施設で『本物の絶叫』をサンプリングしてから、自分の書く曲のすべてに『万歳』の幻聴が混ざるようになって狂ったんだ、と。
「彼らは皆、最初は『素晴らしいインスピレーションだ』と喜んで帰られるのです」
郭医師は優しくマイクを見つめ、その絶望を肯定するように頷いた。
「ですが、彼らの耳と脳には、この合唱機のパニック回路が、そして足元から響く『万歳』の圧電信号が、完璧に焼き付いてしまう。自宅のスタジオで静寂の中にいる時ですら、彼らの脳チップや神経は、この数万人、数十万人の『外に出られない意識』と微弱に同調し続けてしまうのですよ。耳を塞いでも、内側から彼らの歌声が聞こえ続ける……アーティストとは、実に繊細で、哀れな存在です」
ドームに響き渡る賛美歌の美しさが、いまや明確な「精神のウイルス」としてマイクに襲いかかっていた。マイクは自分の耳を強く抑え、まるで自分の脳内にもすでにその歌声が侵入し始めているかのような恐怖に目を見開いている。
「さあ、サトウ様、マイク様」
顔が「真っ暗な虚無」のまま固定されたバイオドロイドの少女が、両腕を大きく広げて、数万体のカプセルの雛壇を仰ぎ見た。
「偉大な先人たちを狂わせた至高の音響を、どうぞ、もっと間近でお聴きください」
僕の手の中の解説本(WH-Ω-001)が、ドームの冷気と重低音で細かく震え続けていた。僕たちは、この音を聴き終わった後、本当に「ただの観光客」のまま外の世界へ戻れるのだろうか。
「う、あ……あぁ……」
床に倒れ伏し、過呼吸で白目を剥きかけていたエマが、震える手で自らの懐へと手を伸ばした。彼女の指先が衣服の奥から引きずり出したのは、この近代的な人類統治機構の世界にはあまりにも不釣り合いな、悍ましい呪術的気配をまとった一枚の紙片だった。
【蛇神姦姦蛇螺】の護符。
公式解説本の構造図解(WH-Ω-001)が提示する科学的ディスピアの冷気の中で、その古びた護符だけが、全く異質の「土着の怪異」の生々しい泥臭さを放っていた。
その瞬間、ドームの冷たい人工照明の影で、護符の表面に描かれた歪な蛇の紋様が、じわりと、血が滲むような禍々しい赤色に発光した。
「――ッ!?」
マイクが息を呑んで後ずさる。
それと同時に、数万体のカプセルから響き渡っていた『帝国の合唱機』の賛美歌のピッチが、一瞬だけ、物理的なバグを起こしたように不自然に歪んだ。キィィィィン、という耳を突き刺すような高音のハウリングがドーム全体を襲う。ナノマシンで完璧に同調し、互いのパニックを増幅させ合っていた数万人の少女たちの脳波ネットワークに、外部から全く未知の「異物(呪い)」が割り込んできたかのように。
「おや……?」
終始、完璧なプロトコルの笑顔を崩さなかった郭医師の眉が、初めて微かに動いた。彼の眼球の奥で、統治機構の検閲プログラムか、あるいはこの施設の安全管理AIが、異常な速度で警告のコードを点滅させているのがわかる。
「エマ様、それは……統治機構の安全基準に含まれていない、極めて非科学的な『精神汚染物質』ですね。このエリアの高度に調律されたナノマシン環境を乱す恐れがあります。速やかに私に引き渡しなさい」
郭医師は微笑みを貼り付けたまま、しかしその口調からは明確な威圧感を滲ませて、エマへと一歩歩み寄る。
だが、エマがその護符を床のひび割れ――すなわち、思想犯たちの肉体が無機物へと変換され、「万歳」の声を排出し続けているアスファルトの隙間――へと強く押し当てた瞬間、ドームの足元から響いていた重低音の性質が完全に変貌した。
『我らが父萬歲……萬歲……バ、バ、バン、ザ、……』
足元から染み出していた「忠誠の誘導」の声が、激しく掻き乱され、まるで見えない蛇に足元から喰い荒らされているかのように、ズズズ……と悍ましい地鳴りへと変わっていく。壁の半透明プラスチックの奥に埋め込まれていた無数の神経網が、護符の赤光に呼応するように、狂ったように点滅を始めた。
その途頭、僕たちの脳内に、凄まじい衝撃とともに不吉な「ヴィジョン」が強制的に流し込まれた。
光の届かない湿った地下水路のような場所で、一人の年老いた男が苦悶の絶叫を上げている。彼の皮膚がメリメリと音を立てて引き裂かれ、青黒い硬質なウロコで覆われていく。首筋には赤生臭い鰓が刻まれ、眼球は瞼を失って平たく突き出し、指の間からはドロリとした皮膜が伸びていく。彼は己の肉体が魚類とも爬虫類ともつかない不気味な半魚人のような怪物へと変貌していく絶望に掻きむしりながら、やがて言葉すら失い、ぬらぬらとした暗い水底へと沈んでいった。
――それはエマの父親だった。
だが、死に瀕したパニックとナノマシンエラーが渦巻くドームの中で、僕たちにはそのヴィジョンが何を意味しているのか、理解が追いつかなかった。「何だ今の映像は!? 施設内の精神汚染電波の混信か!?」マイクが頭を抱えて叫ぶ。エマすらも、自らの手に握られた護符が放つ赤光にただ怯え、父親の身に起きた悲劇の真相を知る由もなかった。
「カ、カシャ、カシャ、カシャ、カシャカシャ……サ……サイ……」
空間の歪む音が、不気味な軋みを含みながらドームの全方位から鳴り響く。ガイドのバイオドロイドの少女は、完全に「真っ暗な虚無」の顔のまま硬直した。その剥き出しの暗闇の奥から、火花のようなノイズが弾け飛ぶ。
帝国の科学が遺した「永遠の固定」という洗練された絶望の檻に、エマが持ち込んだ「古い神の呪い」が、真っ向から牙を剥き始めていた。
サトウは李紅梅の制服の切れ端を見つめたまま、その赤黒い光の奔流の中に立ち尽くしている。マイクは自分の耳を抑えながら、「何が起きてるんだ!?」と絶叫した。
郭医師の完璧だった笑顔の口元が、わずかに、不自然な形に歪み始める。
科学的に管理された地獄(世界遺産)の均衡が、今、足元から崩壊しようとしていた。
「裁、裁、裁、裁、裁ァァァァァッ!!」
空間を引き裂く異音が、もはや撮影音のシャッター音を失い、金属と肉体を裁断するような刃の響き――**「裁、裁、裁(サイ、サイ、サイ)」**という、怨念の裁きそのものの合唱へと変わっていった。
エマが床のひび割れに押し当てた『蛇神姦姦蛇螺』の護符から放たれる赤黒い光の波紋は、路面と同化させられていた思想犯たちの神経残骸を侵食し、帝国のナノマシンが数百年間にわたって維持してきた「調律(洗脳)」を暴力的に書き換えていく。
『我らが父萬歲……萬歲……バ、バ、万歳、ば、ば、……』
足元から染み出す声が、バグった電子回路のように細切れになり、やがて悍ましい泥のようなノイズへと変貌する。
それと同時に、壁の半透明プラスチックの奥に埋め込まれていた無数の神経網が、まるで毒を注入されたかのように青白く、アンド赤黒く脈打ち始めた。
『――熱い、痛い、何だこれは、身体が、身体が這い回る、助けて、壊して、ここから出して!!――』
ダイレクトに脳へと逆流してくる、数万人分の「剥き出しの狂気と怨念」。
「ぐ、あああああっ! 脳、俺の脳が割れる!!」
マイクはスマートフォンのジンバルを床に叩きつけ、両耳を血が出るほど強く抑えてのたうち回った。かつてここを訪れたアーティストたちを狂わせた「魂の揺らぎ」が、護符の怪異によって限界を超えて増幅され、僕たちの脳チップのない生身の精神にまで直接牙を剥いている。
アンド、最も凄惨な変化が、見上げるほどの雛壇――『帝国の合唱機』そのものに訪れた。
数万体のカプセルの中で、19歳の姿のまま固定されていた少女たちの「笑顔」が一斉に、ガタガタと崩れ始めたのだ。
ナノマシンの強制リンクによって互いのパニックを増幅し合っていた48,000体の脳波ネットワークに、護符の「呪い」と「裁き」が逆流していく。
カプセルの中の少女たちの表情筋が、固定プロトコルを突き破って引き攣る。
柔和だった笑顔は、次の瞬間、顎が外れんばかりに開かれた**「声にならない絶叫の形」**へと一変した。システムによって出力される音響は、美しい変ハ長調の賛美歌から、数万人が同時に肉体を裂かれるような、この世の終わりを告げる凄まじい多重不協和音の絶叫へと叩き落とされる。
「あ、ああ……小梅ちゃん……小梅ちゃん!!」
サトウだけは、その地獄の鳴動の中でも、カプセル「No.3-72981」の前にへばりついていた。
カプセルの下に埋め込まれた小さなディスプレイの中で、少女の子供時代のループ映像が、ノイズまみれになって静かに消滅していく。代わりに、カプセルの中の彼女の目がカッと見開かれ、ナノマシンの檻の奥から、初めてサトウと、発言した僕たちの現実を「明確に認識した正気の視線」が、まっすぐに突き刺さってきた。彼女の唇が、案内放送ではなく「たすけて」の形に動く。
「これは……何という、非効率的な……」
背後から聞こえた声に、僕は辛うじて首を巡らせた。
郭医師が、そこに立っていた。
だが、人類統治機構の最高プロトコルがデザインした、あの「完璧な安心感を与える笑顔」は、いまや完全に崩壊していた。護符の放つ精神汚染電波が、彼の管理AIをもハッキングしているのか、彼の右顔面の有機スキンは激しく痙攣し、口元が不自然な角度に吊り上がっている。
「自動保存装置の……維持プロトコルが……拒絶されている……。歴史の教材としての……価値が……毀損……。エラー、エラー、エラー……」
郭医師の眼球の奥で、無数の警告コードが火花を散らす。
彼の隣では、ガイドのバイオドロイドの少女が、完全に「真っ暗な虚無」の顔のまま、両腕を奇妙な方向に曲げて痙攣し続けていた。その剥き出しの暗闇から、黒い液体のようなナノマシンが床へとボタボタと滴り落ちていく。
「おい!! 逃げるぞ!! 扉が閉まる!!」
正気を取り戻したマイクが、床に貼いつくばるエマの身体を強引に抱き起こし、僕の腕を掴んだ。
大扉の真上、偉大な領袖の巨大な肖像画が、地鳴りとともにゆっくりと傾き、ひび割れていく。システムが完全に狂ったドームは、数万人の意識を閉じ込めたまま、自壊を始めようとしていた。
「サトウさん! 早く!!」
僕は絶叫した。
だが、サトウは中野のジャンク屋で買ったあの記録メディアを、カプセルの同調スロットへと差し込もうとしたまま、動かない。「これで君を救える」という狂おしい妄執に憑りつかれた彼の顔にも、あのドイツ人と同じような、足元のノイズと同調しかけた「万歳」の笑みが、うっすらと浮かび始めていた――。
「裁、裁、裁、裁、裁ァァァァァッ!!」
空間の自壊と『裁き』を告げる凄惨な重低音が、ドームを満たす。48,000体のカプセルから放たれる多重不協和音の絶叫の中、僕の意識の片隅に、【蛇神姦姦蛇螺】の悍ましい伝承がフラッシュバックした。
『姦姦蛇螺の護符――絶対の加護の代価は、護符の購入者。大半の者は、最も大切な存在を護るためにそれを渡す。だが、引き換えに購入者は人間としての生を終え、姦姦蛇螺の眷属になってしまうという。』
――そうだ。この護符は、無償の奇跡なんかじゃない。等価交換の裁きだ。
今、エマをこの『天獄』の調律から絶対的な力で護り、周囲のナノマシン・システムを喰い荒らしているあの赤黒い光の代償は、すでに誰かが支払っていたのだ。
「くそっ、考えてる場合じゃない! 逃げるぞ!!」
マイクがエマの身体を担ぎ上げ、狂ったように叫ぶ。
大扉の真上、ひび割れた偉大な領袖の巨大な肖像画が激しく揺れ、ドーム全体の照明が赤く点滅を繰り返している。僕の手の中の解説本は、もはやページの図解すらノイズで読み取れなくなっていた。
僕はサトウの服の袖を強く引っ張った。
「サトウさん!! 戻れなくなる!!」
サトウは、カプセル「No.3-72981」の李紅梅――そのナノマシンの固定から解放され、恐怖と正気の入り混じった涙を流しながら「たすけて」と訴えかける19歳の少女を見つめたまま、完全に硬直していた。彼の指先が、中野でサルベージしたメディアを同調スロットへと押し込もうとする。だが、そのサトウの足元、赤黒く染まったアスファルトの隙間からは、ボコボコと黒いナノマシンの気泡が湧き出し、彼の足首を侵食し始めていた。
「サトウ様……それは……エラー、です……」
背後で、半分有機スキンが剥がれ落ちた郭医師が、バグったプロトコルの笑顔を狂気的に吊り上げたまま、ガタガタと腕を動かして僕たちへ近づこうとしていた。彼の瞳の奥の検閲プログラムは完全に焼き切れており、もはや管理者ではなく、暴走するシステムの一部と化している。
ドームの天井から、コンクリートの破片が激しく降り注ぎ始めた。
正面の大扉は、暴走したセキュリティにより、ゆっくりと、しかし確実に閉まりつつある。
エマの持つ護符の赤光が、ドームの奥の「暗闇」を不気味に照らし出す。その光の向こうに、僕は辛うじて、システムが強制解放されたことで一瞬だけ開いた、**管理用の非常脱出口**のハッチを目に捉えた。
「マイク、あっちだ! 走れ!!」
僕はサトウの身体を力任せに突き飛ばし、大扉とは逆の、暗い制御通路の奥へと足を突き動かした。足元を踏みしめるたびに、路面からは「万歳、万歳」という壊れた絶叫と、「裁、裁、裁」と連呼する蛇の地鳴りが、同時に僕の骨を激しく震わせる。
非常脱出口のハッチへと向かって走りながら、僕は最後に一度だけ、背後を振り返った。
赤黒い光と多重絶叫が渦巻くドームの中央。崩壊する世界の中で、サトウはまだカプセルの前に立ち尽くしていた。
彼のすぐ隣に、いつの間にかあのバイオドロイドの少女が佇んでいた。いや、もう彼女を少女と呼ぶことはできなかった。ホログラムの皮膚はすべて完全に剥ぎ取られ、頭部があった場所には、光すら透過しない**「完全な真っ暗な虚無の顔」**をした女の輪郭だけが残されていた。
その真っ暗な顔の女が、サトウの耳元へ、音響システムすら介さない生々しい肉声で、そっと囁いた。
「やっぱり意味なかったね」
何百年もの間、脳チップに思考を誘導され、システムの一部として笑わされ、擦り切れていった李紅梅の意識。そして、中野のジャンク屋で買ったメディアから彼女の悲鳴をすくい上げ、プラチナプライスのチケットを買ってここまでやってきたサトウの執着。そのすべてを、統治機構のシステムの残骸である女は、冷徹な一言で切り捨てた。最初から、この地獄に救いなど用意されていなかったのだ。
サトウが何かを言いかけるより早く、女の「真っ暗な顔」が、意志を持つ不定形の影のように大きくのけぞり、裂けた。
そして、その底知れない本物の暗闇が、サトウの身体を頭から狂気的に、発声もなく静かに呑み込んでいった。
「サトウさん――!!」
僕の叫び声は、合唱機が放つ最後の、最大級の不協和音の絶叫にかき消された。サトウが持っていた古い記録メディアが、黒いアスファルトの上に落ちて弾け、ナノマシンの泡の中に沈んでいく。
「おい、見るな! 走れ! 閉まるぞ!!」
マイクがエマを抱えたまま、非常ハッチのレバーを力任せに引き下げる。僕はサトウが呑み込まれた暗闇から目を背け、ハッチの向こうの暗い滑り込みへと身体を投げ出した。
背後で、ガガガァンという金属音が響き、ハッチが完全に閉鎖される。
暗い通路を転がり落ちながらも、僕たちの足元からは、まだあの「万歳」の微振動と、「裁、裁、裁……」と繰り返される地鳴りが、執拗に脳へと響き続けていた。僕たちは生き延びたのかもしれた。だが、あの郭医師の壊れた笑顔と、真っ暗な顔の女の囁きは、もう二度と僕たちの脳裏から消え去ることはない。
非常脱出口の暗い傾斜を転がり落ちた僕とマイク、アンドエマは、冷たいコンクリートの床に叩きつけられた。
煤とナノマシンの残骸で汚れた顔を上げると、そこはすでに「遺産区域」の外周、統治機構の厳重な防衛線の内側だった。
「動くな! 手を上げろ!」
僕たちを待ち構えていたのは、照準器の不気味な光を放つ重粒子小銃を構えた、人類統治機構の特殊鎮圧兵たちだった。彼らは一糸乱れぬ動きで僕たちを取り囲む。
彼らの背後では、複数の技術兵たちが巨大な共鳴端末を床に突き立て、何やら複雑な幾何学模様の光の壁――**「精神防護結界」**を展開し始めていた。ドームの奥から漏れ出してくる、あの護符の赤黒い呪いと、調律の狂った数万人の剥き出しの絶叫を、この外周区画だけで食い止め、被害を最小限に抑え込もうとしているのだ。科学とシステムで構築された統治機構が、「怪異」の侵食に対して軍事的な結界で対抗しているその光景は、あまりにも歪で非現実的だった。
「……なるほど。中の『楽器』どもが半壊したと聞いてな。どんな化け物が飛び出してくるかと思えば」
兵士たちの列を割って、一人の男が歩み出てきた。
胸元に統治機構の高級将校の階級章をつけた司令官だ。彼は、ハッチから這い出してきた僕たちの無様な姿、そしてマイクに抱えられたまま虚脱しているエマを見下ろした。
その口元が、冷酷に吊り上がる。
「あの中から、よく生きて戻れたな」
司令官は僕たちを見て、信じられないものを見るかのように、あるいはその無謀さを嘲弄するように、低く嗤った。
「プラチナチケットの価値はあったか? 観光客諸君。郭のやつめ、プロトコル通りに綺麗に調律していると言っておきながら、ずいぶんと派手なエラーを仕留め損ねてくれたものだ。……まあいい。中身がどうなっていようと、この結界の基盤の電源を切るわけにはいかないのでな。あれは我が機構が市民に与える、最も高価な『教育資料』なのだから」
司令官の背後で、展開された結界の光の壁が、ドームの奥から響いてくる重低音と衝突してバチバチと火花を散らす。
僕たちの足元からは、まだ微かに、本当に微かに「万歳」の残響が、震えとなって伝わっていた。サトウを呑み込んだあの真っ暗な虚無の女の囁きが、まだ耳の奥に張り付いて離れない。僕たちは確かに生き延びた。だが、この結界の向こう側にある世界もまた、形を変えた巨大な檻のままであることを、僕たちは思い知らされていた。
終章:永久保存の残響
あの悪夢のような特別公開から、数週間が経った。
部屋のホロ・モニターには、統治機構の公式キャスターが「世界遺産『帝国の合唱機』、システムエラーからの順調な復興」を告げるニュースが淡々と流れている。画面に映し出される中央礼拝堂は、何事事もなかったかのように再びあの冷徹な調和を取り戻しつつあった。ナノマシンの光が瞬き、数万体のカプセルが整然と並ぶ雛壇が映る。あの時、確かに正気を取り戻して涙を流したはずの「李 紅梅」たち標本群は、また統治機構のプロトコルによって、完璧に調律された「幸福な笑顔」へと固定され直しているのだろう。
僕はその映像を眺めながら、あの後すぐに本国へ移送されたエマの身の上を案じていた。
彼女は一命を取り留めたものの、今も精神医療施設で深い昏睡状態のままだという。
そして、あのドームで護符が発動した瞬間、僕たちの脳裏に直接流れ込んできたあの不気味なヴィジョン――水底で皮膚を青黒いウロコに変え、えらを開閉させながら言葉を失っていくあの男の残影が、静まり返った自室の暗闇の中で、唐突に恐ろしいパズルのピースとして噛み合わさった。
――あれは、エマの父親だったのだ。
『姦姦蛇螺の護符――絶対の加護の代価は、購入者本人。』
愛する娘を『天獄』の精神汚染から絶対に護るという奇跡と引き換えに、彼は人間としての生を終え、どこか人知れぬ水底で、永遠に意思のない異形の眷属へと変姿させられた。帝国の科学が人間を素材に変えたあの地獄で、エマを救おうとした父親の愛もまた、彼自身を異形の素材に変えてしまう呪いだった。その対価のあまりの重さに、昏睡し続けるエマが気づく日は来るのだろうか。
チカ、と手元の端末が震えた。マイクからのメールだった。
あの日、腰を抜かしながらも僕たちと共に生き延びた彼は、アメリカに帰国後、あれほど熱心だった動画配信をきっぱりと辞めていた。メールの本文には一言、「あの場所の音が、今も耳の奥で鳴り止まないんだ」とだけ書かれていた。
添付されていたのは、彼がツアーの最初に撮影していた、まだ「ただの悪趣味な観光地」だと思い込んでいた頃の動画ファイル。
再生すると、画面の中ではまだあどけない笑顔を浮かべたガイドのバイオドロイドの少女が、流暢なマニュアル通りの案内を口にしている。その背景には、自撮り棒を掲げてはしゃぐマイク自身と、怯えたようにうつむくエマ、そして画面の隅で、一つのカプセルに吸い寄せられるように歩を進めるサトウの背中が映り込んでいた。
「おい見ろよブラザー、これが本物の……」
スピーカーから流れるマイクの軽い声の背後で、ザザ……と微かなノイズが混ざる。動画を一時停止し、音量を最大まで上げて耳を澄ます。
僕たちの靴底を通じて伝わっていたあの電子ノイズは、今や「カシャ、カシャ」という撮影音ではなく、くぐもった**「裁、裁、裁……」**という刻印のような響きへと変わり、データを超えて端末のスピーカーを不気味に震わせていた。
動画のタイムコードが静かに進む。
画面の中のサトウは、中野のジャンク屋で買ったあの日から片時も離さなかった古い記録メディアを指先でなぞりながら、ただじっと「李 紅梅」のカプセルを見つめている。彼の肩は微かに震えており、その瞳にはすでに、この世界(現実)から足を踏み外しかけている者の暗い情熱が宿っていた。
サトウはもう、この世界のどこにもいない。
統治機構の公式データベースからも、彼の存在は「未登録の不法侵入者による自損事故」として処理され、綺麗に消去されていた。あの日、真っ暗な虚無の顔をした女が放った「やっぱり意味なかったね」という言葉。サトウが中野の片隅で見つけた過去の悲鳴に命と正気を引き換えにしてまで求めた「救い」は、ナノマシンで構築された『天獄』の底で、ただの虚無として消費されただけだったのだ。
僕は端末の画面を閉じ、部屋の灯りを消した。
暗闇の中、静寂が部屋を満たす。
……はずだった。
静まり返った部屋の床から、いや、僕の足の裏から、骨伝導のようにじわりと、微かな振動が立ち昇ってくる。
ズ……ズズ……裁……裁……万歳……裁……
耳を塞いでも無駄だった。音は外から鳴っているのではない。あの日、世界遺産 WH-Ω-001 の地底を踏みしめた僕の身体そのものが、あの数万人の多重絶叫と、路面に埋め込まれた12万人の神経網と、そしてエマの護符が呼び寄せた「裁き」の地鳴りを、完璧に記憶してしまったのだ。
統治機構が管理するこの近代的な都市の、僕が今立っているこの部屋のフローリングのすぐ下にも、かつて「素材」へと変えられた誰かの意思が埋め込まれているのかもしれる。
僕たちは逃げ切れたわけではない。
あの郭医師の壊れたプロトコルの笑顔も、顔のない女の囁きも、そして足元から響く「裁、裁、裁」の合唱も、死ぬまで僕たちの脳内で『永久保存』され続けるのだから。
僕は暗闇の中で靴を履き直した。
足の裏に伝わる冷たい「裁き」の振動を感じながら、二度と訪れることのない静寂をただ待っていた。




