第95話:最初の協力
龍馬と中岡に未来への種を蒔いた永倉は、新選組二番隊組長としての日常に戻っていました。
しかし、その平穏は斎藤一がもたらした凶報によって破られます。
中岡慎太郎と「陸援隊」という未来への種を蒔いた日から、数日が過ぎた。俺は壬生の屯所に戻り、新選組二番隊組長としての日常をこなしていた。昼間は隊士たちの訓練に立ち会い、夜は市中見廻りに出る。その合間を縫っては、近藤さんや土方さんへの報告、隊の運営に関する雑務に追われる。
表面上は、何も変わらない。俺は幕府の走狗、京の治安を守る壬生狼の一匹だ。だが、俺の内側では、確実に何かが変わり始めていた。
坂本龍馬に授けた「亀山社中」の構想。中岡慎太郎と誓った「陸援隊」の盟約。俺が投じた二つの小石は、今頃、歴史という巨大な水面の、見えざる場所で波紋を広げ始めているはずだ。それは、薩長でも幕府でもない、第三の道を切り拓くための布石。徳川幕府を、この手で史上最強の近代国家へと魔改造するための、壮大な計画の第一歩だった。
(今は、雌伏の時だ)
木刀を振るう隊士たちの鋭い気合いを聞きながら、俺は己に言い聞かせる。焦りは禁物だ。龍馬と中岡がそれぞれの場所で事を起こすまで、俺は新選組の永倉新八として、ここに在り続けなければならない。この立場こそが、俺にとって最大の情報源であり、いざという時の切り札なのだから。
そんなある日の昼下がりだった。一日の訓練を終え、汗を拭っていると、背後から静かな声がかかった。
「永倉さん」
振り返ると、そこにいたのは斎藤一だった。感情の読めない涼やかな顔立ちはいつも通りだが、その瞳の奥に、仕事人としての鋭い光が宿っているのを俺は見逃さなかった。三番隊組長であると同時に、新選組の諜報活動の全てを束ねる男。彼が俺に直接話しかけてくる時は、必ず何かがある。
「斎藤君か。どうした?」
俺が促すと、斎藤は周囲に軽く視線を走らせ、人がいないことを確認してから、声を潜めて言った。
「少し、耳に入れておきたい儀がありまして」
「聞こう」
俺たちは道場の隅に移動した。斎藤は、まるで世間話でもするかのような淡々とした口調で、しかし内容は恐るべきものであることを告げた。
「長州の残党に、不穏な動きがあります」
「……またか。連中も懲りないな」
池田屋で壊滅的な打撃を与え、禁門の変で京から叩き出したというのに、未だにゴキブリのように湧いてくる。その執念深さには、ある種の感心すら覚えた。
「今度の狙いは、我らではない様子」と斎藤は続けた。「標的は、土佐の中岡慎太郎」
その名が出た瞬間、俺の全身の神経が張り詰めた。心臓が、どくん、と重い音を立てる。だが、俺は表情一つ変えず、平静を装って聞き返した。
「ほう……。土佐勤王党の中岡を?理由はなんだ」
「裏切り者、と見ているようです」
斎藤の報告は、常に簡潔で的確だった。
「中岡は、薩摩との連携を深めるために動いている。それが、長州の過激な連中の気に障った。『薩賊と手を結ぶなど、尊皇攘夷の志を忘れた裏切り者』。そう断じて、天誅を下す機会を窺っている、と」
(……やはり来たか)
俺の脳裏に、中岡の実直な顔が浮かんだ。彼のような人間は、敵を作る。特に、自分たちの信じる正義以外を認めない、視野の狭い狂信者たちにとっては、格好の標的だ。史実で彼が龍馬と共に暗殺されたのも、決して偶然ではない。彼の存在そのものが、様々な勢力の思惑を刺激し、敵意を呼び覚ますのだ。
「奴らの言い分も、分からんでもないがな」と俺は、あくまで新選組の幹部としての建前を崩さずに言った。「で、その情報は確かか?」
「はい。俺の配下の者が、長州浪士の潜伏先の一つに潜り込ませて掴んだ話です。時期や場所まではまだ特定できていませんが、計画が動いているのは間違いありません」
斎藤の諜報網は、俺が未来の知識を基に助言し、再構築したものだ。その精度は、幕府の隠密や諸藩の間諜すら凌駕する。彼が「間違いない」と言うのなら、それは絶対の事実だった。
「そうか。ご苦労だった、斎藤君。引き続き、連中の動向を探ってくれ。何かあれば、すぐに知らせろ」
「承知」
斎藤は短く答えると、音もなくその場を去っていった。まるで、そこに最初から誰もいなかったかのように。
一人残された俺の頭の中は、激しい嵐が吹き荒れていた。
(どうする……?)
中岡慎太郎が殺される。それは、俺の計画の根幹が揺らぐことを意味した。「陸援隊」という、全国の志士たちを束ねる軍事組織の構想は、中岡という核がいてこそ成り立つ。彼を失えば、あの計画は絵に描いた餅に終わる。海の亀山社中だけでは、片肺飛行も同然だ。
(知らせなければ……!)
選択肢は、一つしかなかった。中岡に、この情報を伝え、危険を知らせる。
だが、それはあまりにも危険な賭けだった。俺は新選組の二番隊組長。彼は、幕府から見れば紛れもない敵である土佐の尊攘派志士。俺が彼に警告を与えたことが露見すれば、それは新選組への、ひいては幕府への裏切りと見なされる。最悪の場合、俺自身が切腹を命じられてもおかしくない。近藤さんや土方さんからの信頼も、全て失うだろう。
新選組という立場を捨てる覚悟は、まだできていない。いや、捨ててはならない。この立場こそが、俺の力の源泉なのだから。
(だが、中岡を見殺しにはできない……!)
脳裏で、天秤が揺れ動く。新選組の組長としての立場と、日本の未来を賭けた計画の担い手としての使命。どちらを取るべきか。
「……決まってるじゃねえか」
俺は、誰に言うともなく呟いた。答えは、最初から出ていた。
俺がこの時代に来たのは、新選組の歴史を変えるためだけじゃない。日本という国そのものの未来を、より良い方向へ導くためだ。そのためならば、多少の危険は覚悟の上。そもそも、俺のやっていること自体が、歴史に対する壮大な裏切り行為なのだ。今更、一つや二つ、危険が増えたところでどうということはない。
問題は、どうやって中岡に接触し、警告を伝えるかだ。斎藤に掴まれた情報だ。俺が動けば、斎藤に感づかれる可能性もある。いや、あの男のことだ、俺が中岡に関心を持っていることなど、とうに気づいているのかもしれない。
(それでも、やるしかない)
俺は覚悟を決めた。幸い、中岡との連絡手段は、先日の密会で確保してある。彼が懇意にしている京の商家の一つを、緊急時の連絡窓口とすることで合意していた。
その夜、俺は非番を装い、一人で夜の京の町に繰り出した。見廻り中の隊士たちと出くわさないよう、裏道を使い、人目を避けて進む。まるで、自分が追っている不逞浪士にでもなったような気分だった。
目的の商家の前に着くと、俺は辺りを警戒し、誰もいないことを確認してから、戸を軽く叩いた。合言葉は決めてある。
「土佐の、中岡様にご伝言を」
中から出てきた主人は、俺の顔を見て一瞬驚いたようだったが、すぐに全てを察した顔で、静かに俺を中へと招き入れた。
店の奥、薄暗い一室で、俺は筆を借り、一枚の紙に簡潔に事実だけを記した。
『長州ノ過激派、貴殿ノ命ヲ狙ウ。薩摩トノ連携ヲ快ク思ワヌ者ドモナリ。身辺ニ警戒サレタシ。詳細ハ不明ナレド、計画ハ動イテイル。――永倉』
自分の名を記すことに、一瞬の躊躇があった。だが、この警告に信憑性を持たせるには、誰からのものかを明かす必要があった。そして何より、これは俺と中岡との間の、最初の「協力」なのだ。匿名の手紙では意味がない。
「これを、必ず中岡慎太郎殿本人に。一刻も早く」
俺は念を押し、主人に紙を託した。主人は、何も聞かず、ただ深く頷いた。
屯所への帰り道、俺の心は妙に静かだった。賽は投げられた。あとは、中岡がこの警告を信じ、どう動くかだ。
もし彼が、これを新選組の罠だと疑えば、全ては終わりだ。だが、俺は彼を信じていた。あの夜、日本の未来を語り合い、固く手を握ったあの男の、曇りのない瞳を。
そして、この行動は、俺の真意を中岡に示すための、何よりの証となるはずだった。
俺は、単なる幕府の手先ではない。新選組という組織に属しながらも、その枠を越えて、国全体の未来を見据えている。この警告は、その事実を、どんな言葉よりも雄弁に彼に伝えてくれるだろう。
(頼むぞ、中岡さん……。あんたは、まだ死んでもらうわけにはいかないんだ)
夜空に浮かぶ月を見上げながら、俺は心の中で強く念じた。
これが、俺と中岡慎太郎との、本当の意味での最初の共同作業だった。敵であるはずの俺が情報を提供し、彼がそれに基づいて行動する。それは、身分も藩も立場も越えた、ただ「日本の未来を憂う者」同士の、秘密の協力関係の始まりだった。
そしてこの小さな一歩が、やがて「陸援隊」という巨大な力を生み出し、歴史の流れを大きく変えることになる。
そのことを、この時の俺は、確信に近い予感として感じていた。
長州の過激派による中岡慎太郎暗殺計画。
新選組の立場か、それとも日本の未来か。
究極の選択を迫られた新八が下した決断は、歴史の裏側で静かに、しかし確実に動き出す「最初の協力」でした。
一通の手紙が、やがて陸援隊という巨大な組織を守り、育てるための礎となります。




