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第94話:陸援隊の萌芽

龍馬が「海」へ向かった後、残された中岡慎太郎の視線は「陸」へと向けられていました。

彼が抱くのは、藩や身分を超えた志士たちによる軍隊という壮大な構想。

しかし、それは烏合の衆になりかねない危うさを孕んでいるものでした。

 時は一月前に遡る。


 嵐のような男が去った後、京の隠れ家には、まるで祭りの後のような静けさと、微かな熱の名残が漂っていた。坂本龍馬という奔放な魂が放った熱量に、俺も中岡慎太郎も、少なからず当てられていた。


「……行ってしもうたのう」


 ぽつりと、中岡が呟いた。その横顔は、龍馬が指し示した「海」という壮大な未来を見送っているようでもあり、同時に、別の何かを見つめているようでもあった。彼の視線は、窓の外の空ではなく、足元の畳、その下に広がる日本の大地に向けられているように感じられた。


「ああ。坂本さんは一度走り出したら、誰にも止められそうもない。きっと、長崎でとんでもないことをしでかすだろうな」


 俺は腕を組み、壁に寄りかかりながら応じた。亀山社中。俺が与えた知識と、龍馬の行動力が組み合わされば、それは歴史の必然として生まれるべくして生まれた組織だ。日本の経済を根底から揺るがす、巨大なうねりの第一波になるだろう。


「永倉さんは、坂本を信じておるか」

「信じる信じないじゃない。彼はやる。ただそれだけだ。だが……」


 俺は言葉を切り、中岡の顔を真っ直ぐに見据えた。


「中岡さんは違うらしいな。坂本さんとは、見る先が違うか?」


 俺の問いに、中岡は驚いたように目を見開いた。そして、観念したように、ふっと息を吐いて苦笑した。


「……敵わんのう、永倉さんには。お見通しか」


 彼は居住まいを正し、俺に向き直った。その瞳には、龍馬とは質の違う、静かだが、どこまでも深く、そして揺るぎない意志の光が宿っていた。


「坂本は海を行く。異国と渡り合い、富を得て、この国を強くしようとしゆう。その考えは素晴らしい。けんど、わしは……わしは、この(おか)を歩きたい」


「陸を?」


「ああ」と、中岡は力強く頷いた。「この日本には、藩にも幕府にも属さず、ただ国の未来を憂い、尊皇攘夷の志を抱く者たちが、数え切れんほどおる。じゃが、そのほとんどは、ただ徒党を組んで騒ぐか、天誅と称して人を斬るだけの烏合の衆じゃ。それでは、何も変わりはせん」


 彼の言葉には、もどかしさと怒りが滲んでいた。池田屋事件で俺たちが斬った者たちも、その多くはそうだった。志はあっても、それを建設的な力に変える術を知らなかった。


「わしは、そんな全国の志士たちを、一つの大きな力としてまとめ上げたい。藩という垣根を越え、身分にもとらわれず、ただ帝とこの国のためだけに働く、真の実力組織を作るんじゃ」


 その構想は、俺が新選組という組織に抱いていた理想と、奇妙なほどに共鳴した。浪士や百姓上がりの寄せ集めだった俺たちを、鉄の規律と共通の目的で縛り上げ、京最強の戦闘集団へと変えた。中岡がやろうとしていることは、その全国版と言ってもよかった。


「面白い。だが、どうやって?」


 俺は核心を突いた。


「あんたの言う志士たちは、一癖も二癖もある連中ばかりだろう。おまけに、それぞれに出身藩も違えば、考え方も違う。そんな連中を、どうやってまとめ上げる?下手をすれば、内部で斬り合いが始まるのが関の山だ」


「……そこじゃ」


 中岡は、悔しそうに畳を睨んだ。「わしには、志を同じくする仲間がおる。薩摩の西郷殿や、長州の桂殿とも繋がりはある。じゃが、彼らを繋ぎ合わせ、一つの軍勢として動かすための具体的な手立てがない。結局は、個人の信頼関係という脆い糸で繋がっておるに過ぎん……。坂本のように、金を生み出す仕組みがあるわけでもない」


 それは、致命的な欠陥だった。志だけでは、組織は動かない。人は、食わねば生きていけないし、明確な規律と目標がなければ、すぐに統制を失う。


 俺は、壁から背を離し、彼の前にあぐらをかいた。


「中岡さん。あんたの構想は正しい。だが、あんたに足りないのは、龍馬さんのような金の算段じゃない。もっと泥臭い、組織をゼロから作り上げ、動かすための『技術』だ」


「技術……?」


「そうだ。それは、俺が新選組で、血反吐を吐きながら培ってきたものだ」


 俺の言葉に、中岡の瞳が揺れた。新選組。それは、彼ら尊攘派の志士にとっては、不倶戴天の敵のはずだった。


「驚いたか?だがな、敵も味方も、組織を動かす理屈は同じだ。あんたが作ろうとしているのは、言わば『尊攘派の新選組』だ。ならば、俺の経験が役に立つ」


 俺は、懐から紙と筆を取り出すと、龍馬にしたのと同じように、いくつかの項目を書き出し始めた。


「まず、必要なのは『隊規』だ。亀山社中が『定款』で動くなら、あんたの組織は『隊規』で動かす。目的、指揮系統、入隊と脱退の条件、そして何より、賞罰の規定。これを最初に定め、血判を以て全員に誓わせる。感情や私情で動くことを禁じ、全てをこの規律に従わせるんだ。新選組の『局中法度』のような、死を前提とした厳しいものである必要はない。だが、組織の根幹を成す憲法として、絶対のものでなければならない」


 中岡は、俺が書き出した「隊規」という文字を、食い入るように見つめている。


「次に、訓練法だ」と俺は続けた。「剣の腕前に頼るだけでは、近代兵器の前では無力だ。これからの戦は、個人の武勇ではなく、集団の連携が全てを決める」


 俺は、新選組で根付きつつある、未来の軍隊で常識となっている基本的な戦術ドクトリンを、この時代の言葉に噛み砕いて説明した。


「兵を最小単位の『組』に分け、組長を置く。数個の組をまとめて『小隊』とし、小隊長を置く。命令は、必ず指揮系統を通じて上から下へ伝達させる。そして、訓練も個人ではなく、この『組』を単位として行うんだ。前進、後退、射撃、防御。全ての動きを、笛や太鼓の合図一つで、一糸乱れず行えるように叩き込む。言葉ではなく、音で体を動かすんだ」


「……まるで、西洋の軍隊じゃな」


「その通り。だが、形だけ真似ても意味がない。重要なのは、なぜそうするのかを全員が理解することだ。一人の突出した動きが、全体の陣形を崩し、仲間を危険に晒す。一人の勝手な判断が、作戦全体を失敗させる。集団で戦うとは、己の命を隣の仲間に預けることだと、骨の髄まで叩き込む必要がある」


 さらに俺は、未来では当たり前の概念である「兵站(ロジスティクス)」の重要性を説いた。


「そして、最も重要なのが兵站だ。戦は武器と兵士だけでやるもんじゃない。飯を食わせ、傷を癒し、情報を伝え、弾を補給する。その後方支援の仕組みなくして、軍隊は一日たりとも動けん。あんたの組織が全国規模で動くなら、各地に協力者を作り、武器、弾薬、食料、薬を事前に集積しておく『拠点』が必要になる。そして、その拠点と本体とを繋ぐ、確実な『連絡網』を構築するんだ」


 隊規による統治、集団行動を基本とした訓練、そして兵站という後方支援の概念。俺が語る体系的な組織論と軍事論に、中岡は完全に呑まれていた。彼の頭の中にあった漠然とした構想が、俺の言葉によって、みるみるうちに具体的で、実現可能な計画へと姿を変えていく。


「永倉さん……」


 彼の声は、かすかに震えていた。


「あんたは、一体何者なんじゃ……。ただの剣客ではないとは思うていたが、まるで……まるで、国一つを動かす軍学者のようじゃ」


「言ったはずだ。憂国の士、それだけだ、と」


 俺は筆を置き、彼の目を真っ直ぐに見返した。


「中岡さん。あんたには、人望がある。志士たちを惹きつける熱意と、誠実さがある。だが、彼らをまとめ上げ、一つの力に変えるための『器』の作り方を知らない。俺には、その器を作る知識と経験がある。だが、それを注ぎ込むべき、あんたのような『人』がいない」


 俺たちの出会いは、偶然ではない。歴史の必然だったのかもしれない。


 やがて、中岡は意を決したように、深く、深く、頭を下げた。その額が、畳に擦れるのではないかというほどに。


「永倉さん……!わしに、力を貸してはくれまいか!あんたのその知恵と経験が、わしの夢には、この日本の未来には、必要不可欠じゃ!この通りじゃ、頼む!」


 土佐の頑固者が、敵であるはずの新選組の男に、全てを投げ出して頭を下げている。その姿に、俺の胸は熱くなった。坂本龍馬が太陽なら、中岡慎太郎は大地だ。派手さはないが、どこまでも実直で、揺るがない。この男となら、共に未来を創れる。


 俺は彼の前に膝を進め、その肩に手を置いた。


「頭を上げてくれ、中岡さん。俺の方こそ、頼みたい」


 顔を上げた彼の目には、涙が浮かんでいた。俺は、その手を力強く握った。


「あんたが日本の陸を支えるというのなら、俺はあんたを支える。それが、俺がこの時代で成すべきことの一つだ。俺の選んだ道だ」


 固い握手が、言葉以上の盟約を交わす。敵と味方という立場を越え、ただ日本の未来を憂う二人の男の魂が、確かに一つになった瞬間だった。


「よし、決まったな」


 俺は笑って言った。


「ならば、その組織に、ふさわしい名をつけよう。龍馬さんの『亀山社中』に負けない、立派な名前をな」


 俺は少し考え、そして提案した。


「あんたの組織は、陸を往き、各地の同志を糾合し、助け、そして来るべき時には国を援ける力となる。ならば……『陸援隊』というのはどうだ?」


「りくえんたい……」


 中岡は、その新しい響きを、噛みしめるように呟いた。陸を、援ける、隊。彼の構想の本質を、これほど的確に表す言葉はなかった。


「陸援隊……!えい名じゃ!実にえい!」


 彼の顔が、ぱあっと明るくなった。それは、自分の夢が確かな形を得たことへの、純粋な喜びの表情だった。


 俺は、歴史の大きな流れの中に、また一つ、新たな楔を打ち込んだことを実感していた。史実よりも早く、そして、より強固な理念と方法論を持って、陸援隊が産声を上げようとしている。


 海の亀山社中が経済を動かし、陸の陸援隊が軍事を担う。この二つの組織が両輪となり、薩長とも幕府とも違う第三の勢力として、この国を新たな時代へと押し上げていく。俺の描く「徳川幕府による近代国家」という魔改造計画の、重要な布石がまた一つ、打たれたのだ。


(だが……)


 俺は、喜びに沸く中岡の顔を見ながら、冷静に思考を巡らせた。


(重要な駒であればあるほど、敵はそれを潰しにかかる。特に、中岡さんのように実直で、人を繋ぐ中心になる人物は、真っ先に狙われる)


 史実において、彼は龍馬と共に、近江屋で暗殺者の刃に倒れた。その未来を変えるためには、まず彼を守り抜かなければならない。


 海の龍馬、陸の中岡。この二人を失うことは、俺の計画の破綻を意味する。


「中岡さん」


 俺は、声を潜めて言った。


「今日から、身の回りには十分に気をつけろ。あんたの命は、もはやあんた一人のものじゃない」


 俺の真剣な口調に、中岡は頷いた。だが、彼はおそらく、その忠告の本当の意味をまだ理解してはいないだろう。彼の身辺に、すでに長州の過激派という不穏な影が迫っていることを、この時の俺はまだ知らない。


 だが、俺の心の奥底で、警鐘が鳴り響いていた。この男は、俺が守る。新選組としてではなく、永倉新八個人として。それが、この固い盟約に対する、俺なりの誠意だった。


「陸援隊」――その名の通り、陸を行き、国を援ける組織が、新八の知恵を得て史実よりも強固な形で生まれようとしています。


海の龍馬と陸の中岡。二つの巨大な歯車が回り始めましたが、新八の脳裏には次なる懸念が。

歴史の改変は、果たして吉と出るのか?

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