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第93話:亀山社中の設立

龍馬の夢である貿易結社。

しかし、現代の知識を持つ新八の目には、それはあまりに脆い砂上の楼閣に映りました。

「いいだろう。あんたの夢物語を、現実にする手伝いをしてやる」


 俺がそう言い放つと、坂本龍馬の瞳がカッと見開かれ、少年のような輝きを放った。京の隠れ家、その一室の熱気は最高潮に達していた。魂の共鳴を経て、俺と龍馬は今、単なる敵でも味方でもない、「日本の未来」という共通の目的を掲げた共犯者になろうとしていた。


「さすがは永倉さんじゃ!話が早いのう!」


 龍馬は豪快に笑い、俺の肩をばしりと叩いた。その手には、遠慮のかけらもなかった。


「して、わしの計画ちゅうんは、こうじゃ」


 身を乗り出した龍馬が語り始めた計画は、荒唐無稽でありながら、彼の非凡な着想力を示すものだった。長崎を拠点に、志を同じくする浪士たちを集め、船を手に入れ、藩の後ろ盾を持たない自由な立場で異国と貿易を行う。薩長や幕府といった既存の枠組みから独立した、全く新しい経済と軍事の共同体。それが彼の夢見る「貿易結社」の姿だった。


「なるほど。面白い。面白いが……あまりに穴だらけだ」


 俺は腕を組み、率直な感想を述べた。龍馬の眉がぴくりと動く。


「何じゃと?」


「まず、あんたの言う『結社』は、ただの仲良しグループだ。口約束だけで繋がった集団は、金が絡めば容易く崩壊する。誰が、何を、どこまでやるのか。儲けをどう分けるのか。失敗した時の責任は誰が取るのか。その全てが曖昧だ」


 俺の指摘に、龍馬はぐっと言葉に詰まる。彼の構想は、あくまで個人の才覚と仲間との信頼関係という、不確かな土台の上に成り立っていた。


「そこで、これが必要になる」


 俺は懐から紙と筆を取り出し、さらさらと書き付け始める。


「『定款』。言わば、あんたの会社の憲法だ」


「ていかん……?」


「ああ。第一条、この会社は『亀山社中』と称す。第二条、この会社は、海上輸送、貿易、開墾、投機を以て利益を追求し、日本国の発展に寄与することを目的とす……という風に、組織の目的、事業内容、構成員の権利と義務、利益の分配方法まで、全てを明文化する。これにより、組織は個人の感情や都合に左右されない、一個の独立した人格を持つことになる」


 龍馬は、俺が書いた即席の定款の条文案を、食い入るように見つめている。彼の頭脳が、この「法で組織を律する」という概念の持つ、革命的な意味を理解し始めているのが分かった。


「さらに、金の流れを透明にするための仕組みも必要だ」


 俺は続ける。


「『複式簿記』。これは、全ての取引を『借方』と『貸方』に分けて記録する帳面の付け方だ。これにより、いつ、どこから金が入り、どこへ消えたのか、一目瞭然になる。横領や使い込みは不可能になり、出資者は安心して金を預けられる。そして何より、経営者であるあんた自身が、会社の財産状況を正確に把握できる」


「金の流れが……手に取るように分かる……?」


「そうだ。勘定奉行が束になってかかっても敵わない、魔法の帳面だと思ってもらっていい」


 龍馬は、ゴクリと喉を鳴らした。彼の野生的な勘が、この二つの仕組み――「定款」と「複式簿記」――が、彼の夢を現実にするための、強力無比な武器になることを告げていた。


「永倉さん……あんた、本当に何者なんじゃ……」


「憂国の士だ。それ以上でも、それ以下でもない」


 俺はそう言って笑い、そして、本題を切り出した。


「だが龍馬さん、どんなに優れた仕組みを作っても、今のあんたたちには決定的に足りないものがある」


「……金か?」


「いや、金よりもっと厄介なものだ。それは、『信用』だよ」


 俺の言葉に、龍馬の表情が険しくなる。


「脱藩浪士の集団が『日本のために商売を始めます』と言ったところで、一体誰が信用する?異国の商人は、素性の知れない相手と大きな取引はしない。幕府の役人に見つかれば、即刻お縄だ。船一隻買うことすら、ままならんだろう」


 これこそが、龍馬が抱える最大のアキレス腱だった。志も、人も、才覚もある。だが、それを社会的な活動へと転換するための「信用」がない。


「そこで、だ。虎の威を借りる」


「虎……?」


「ああ。虎の皮を被って、こちらの正体を隠し、同時に相手を威圧する。あんたが借りるべき虎の皮は、一つしかない」


 俺は、畳に指で三つの丸を書いた。島津家の家紋、「丸に十の字」。


「薩摩藩だ」


「……!」


 龍馬の息を呑む気配が伝わってくる。隣で黙って話を聞いていた中岡慎太郎も、驚きに目を見開いた。


「薩摩の名義を借りる。あんたたちの結社は、表向きは『薩摩藩が運営する商社』ということにするんだ。そうなれば、幕府も簡単には手を出せん。異国の商人たちも、天下の薩摩藩が相手となれば、態度を軟化させるだろう」


「しかし、あの薩摩が、わしらのような素性の知れん浪士に、やすやすと名義を貸すとは思えんが……」


「そこであんたの出番だ、龍馬さん。あんたには、薩摩を動かせるだけの知己がいるはずだ」


 俺の脳裏には、一人の男の顔が浮かんでいた。薩摩藩家老、小松帯刀。史実において、龍馬の才能を見抜き、亀山社中を庇護し、薩長同盟を斡旋した傑物。彼ならば、この策の持つ意味を理解できるはずだ。


「小松帯刀……」


 龍馬の口から、俺が思い描いていた通りの名前が漏れた。


「彼に会え。そして、こう言うんだ。『我々は、貴藩の名の下、利益の全てを薩摩にもたらす』と。いや、それだけじゃ弱いな」


 俺は思考を巡らせる。小松帯刀ほどの男を動かすには、もっと大きな餌が必要だ。


「こう言え。『我々が得た利益で、貴藩のために蒸気船を買い、軍艦を買い、最新の銃を揃えてみせる。我々は、藩の金を一切使わずに、薩摩を日本最強の軍事力を持つ雄藩にしてみせる』と。あんたの会社は、薩摩にとって『金のなる木』になるのだと説くんだ」


 藩の財政を圧迫することなく、軍備を近代化できる。これは、幕府との対決を視野に入れ始めた薩摩にとって、抗いがたい魅力を持つ提案のはずだ。


「……永倉さん」


 龍馬は、呆然とした表情で俺を見ていた。


「あんたには、未来が見えちょるのか?」


「見えているさ。このまま何もしなければ、日本が異国に食い物にされる未来がな」


 俺は彼の目を真っ直ぐに見返し、断言した。


「龍馬さん。俺の言う通りにやれ。そうすれば、あんたの夢は、必ず現実になる」


 その夜、俺と龍馬は夜が白むまで語り明かした。定款の具体的な条文、複式簿記の簡単な手ほどき、小松帯刀への交渉術、そして、集めるべき人材の条件……。俺が持つ未来の経営学の知識を、この時代の言葉に翻訳し、龍馬の脳に叩き込んでいく。彼は、乾いた砂が水を吸うように、その全てを吸収していった。


 翌朝、龍馬は俺の目を真っ直ぐに見て言った。


「永倉さん、恩に着る。この御恩は、日本の夜明けで必ず返すと誓う」


 その目には、昨日までの迷いは微塵もなかった。確固たる自信と、揺るぎない決意が漲っている。


「慎太郎、すまんが、ちっくと長崎まで行ってくらあ!」


 龍馬は、まだ状況を完全には飲み込めていない中岡の肩を叩き、嵐のように京の隠れ家を去っていった。その背中を見送りながら、俺は確信する。歴史の歯車は、また一つ、大きく動き出した。


 ◇


 それから、およそ一月後。

 長崎、薩摩藩蔵屋敷の一室。坂本龍馬は、薩摩藩家老・小松帯刀と相対していた。


「――以上が、わしが長崎で成したいことの全てじゃき」


 龍馬は、京で新八から授けられた知恵の全てを、己の言葉で、魂を込めて語り尽くした。株式会社の仕組み、定款による組織統治、複式簿記による会計の透明化、そして、薩摩藩が名義を貸すことによって得られる莫大な利益。


 小松帯刀は、腕を組んだまま、静かに龍馬の話に耳を傾けていた。その表情は能面のように変わらないが、切れ長の瞳の奥では、龍馬という男の器量と、その提案の持つ価値を冷静に値踏みしていた。


「……坂本殿」


 やがて、小松は重々しく口を開いた。


「そん策は、あまりに突拍子もにゃあ。そして、あまりに合理的。まるで、百年先ん世ん商人が考えたかのごとき仕組みじゃ。正直、とっさには信じがたい」


「……」


「じゃが」と小松は続けた。


「そん仕組みが、もし真に機能すっとすれば……我が薩摩にとっせえは、いや、この日の本にとって、計り知れぬ価値を持つものになるやもしれん。藩ん金を一文使わんで、藩の海軍力が強化される……夢のような話でごわす」


 小松は、龍馬の背後にいるであろう「知恵者」の存在を感じ取っていた。だが、彼はそれを問いただすような野暮な男ではない。重要なのは、誰が考えたかではなく、その策が本物かどうかだ。


「よかでしょう」


 小松は、ついに決断した。


「坂本殿のそん志、この小松帯刀が預かる。貴殿らの結社に対し、我が薩摩藩の名義を貸すことを許可いたす。長崎の亀山にある、我が藩所有の空き家を活動拠点として提供しよう。思う存分、暴れてみられい」


「……小松殿!」


 龍馬の顔が、喜びに輝いた。


「ただし」と小松は釘を刺す。


「あくまで、これは表沙汰にできぬ密約。万が一、幕府に嗅ぎつけられた場合、我らは貴殿らとの関係を一切知らぬ存ぜぬで通す。その覚悟があるならば、の話でごわすが」


「望むところじゃき!」


 龍馬は、畳に手をつき、深々と頭を下げた。


 こうして、歴史の表舞台に、一つの組織が産声を上げた。土佐脱藩浪士・坂本龍馬を筆頭に、長州を追われた者、幕府の追手を逃れた者、様々な過去を持つ二十名ほどの男たちが、長崎の亀山の一角に集った。


 彼らは、永倉が起草し、龍馬が完成させた定款に血判を押し、固い契りを交わした。そして、真新しい木の看板を、その家の門に掲げた。


 看板には、力強い筆跡で、こう書かれていた。


『亀山社中』


 ◇


 その設立の知らせが、早馬によって京の俺の元に届いたのは、さらに半月後のことだった。


 龍馬からの手紙には、小松帯刀との談判の成功と、社中設立の喜びが、彼のものらしい奔放な筆致で綴られていた。そして、末尾にはこうあった。


『永倉さん、あんたのおかげで、わしの夢が形になった。これは、もはやわし一人の夢じゃない。日本の未来を担う、大きなうねりの始まりじゃ。いつか、この社中が動かす金で、徳川の世を根こそぎひっくり返してやるき、楽しみに待っちょれ』


 俺は手紙を静かに畳み、窓の外に広がる京の空を見上げた。


(ひっくり返すのは徳川の世じゃない、龍馬さん。あんたたちがひっくり返すのは、旧態依然とした、この国の経済構造そのものだ)


 亀山社中。それは、単なる貿易結社ではない。日本で初めて、身分によらず、志と才覚ある者が集い、近代的なルールに基づいて運営される営利組織。やがて日本の産業革命を牽引し、巨大な財閥へと成長していくことになる、未来の経済システムの原点。


 俺は、その歴史的な一歩を、この手で後押ししたのだ。


「海は、龍馬に任せた……」


 俺は小さく呟いた。大海原を舞台にした経済戦争の駒は、盤上に置かれた。


 ふと、視線を感じて振り返る。そこには、部屋の隅で、広げた日本の地図を静かに見つめる中岡慎太郎の姿があった。彼の目は、海ではなく、日本列島を縦横に走る道――陸路を、じっと見据えている。


(さて、次は陸か……)


 海の龍馬に対し、陸の中岡。彼もまた、この国の未来を憂い、変革のための力を求めている。俺の次なる一手は、この実直な男と共に打つことになるだろう。俺は、静かに闘志を燃やす中岡の背中に、未来の「陸援隊」の姿を幻視していた。


新八が授ける「定款」と「複式簿記」という最強の武器。

そして薩摩藩という巨大な後ろ盾を利用する大胆な策。

龍馬の野性と新八の知性が融合し、ついに日本初の株式会社「亀山社中」が産声を上げようとしています。

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