第91話:魂の共鳴
張り詰めた空気の中、ついに言葉の刃が交わります。
「幕府の犬」と罵られ、殺気すら向けられる絶体絶命の状況下、新八が切ったカードは刀ではなかった。
それは、「残酷な未来の真実」と、誰もが夢見ながらも口にできなかった「新しい国の形」。
しんと張り詰めた座敷に、俺の放った言葉が重く垂れ込めていた。「このままでは、日本は取り返しのつかないことになる」その一言が、京の隠れ家の一室を、まるで戦場のような緊張で満たしていた。
正面に座す中岡慎太郎の双眸が、抜き身の刃のように俺を射抜く。酒席の和やかな空気は、とうに霧散していた。無理もない。憎き「幕府の犬」、新選組の組長が、土佐勤王党の志士に日本の未来を説くなど、彼にとっては腸が煮え繰り返るほどの愚弄であろう。
「戯言を」
地の底から響くような、抑えつけられた怒りの声。中岡は、手にしていた杯を卓に叩きつけるように置いた。
「幕府の手先が、日本の何を憂うというがか。おまんらがしてきたことは何じゃ。逆らう者を斬り、力で民を押さえつけ、京の町を血で染め上げてきただけではないか。そのおまんが、未来を語る? 笑わせるな!」
言葉の端々から、純粋な怒りと侮蔑が迸る。その真っ直ぐな激情は、俺が歴史の知識として知る「中岡慎太郎」そのものだった。実直で、理想に燃え、身分のない平らかな世を本気で夢見た男。だからこそ、腐敗した幕府も、その暴力装置である新選組も、彼にとっては許しがたい悪なのだ。
俺は動じない。彼の怒りは、国を思うがゆえの熱量だ。それを真正面から受け止める覚悟はできている。
「その通りだ。俺たちは、数えきれないほどの血を流してきた。その事実は消えないし、正当化するつもりもない」
俺は静かに、だがはっきりと告げた。
「だが、中岡さん。あんたたちがやろうとしていることも、結局は同じではないのか? 幕府を倒すために、さらに多くの血を流し、この国を内戦の渦に叩き込もうとしている。その先に待っているのが、あんたの理想とする世の中だと、本気で信じているのか?」
「何……?」
中岡の眉が、険しく寄せられた。俺は構わず続ける。
「戦で国が疲弊すれば、誰が一番得をする? 俺たち日本人か? 違う。海の向こうで、俺たちが互いに潰し合うのを、涎を垂らして待っている奴らだ。漁夫の利を狙う西洋列強だよ。彼らは、疲弊しきった日本に最新の武器と莫大な借金を押し付け、骨の髄までしゃぶり尽くすだろう。そうなれば、武士も、農民も、商人もない。日本という国そのものが、異国の奴隷になるだけだ」
俺の脳裏には、アジアの国々が次々と植民地化されていった、未来の歴史が焼き付いている。この男たちが命を懸けて戦った結果、日本は奇跡的に独立を保った。だが、それは多くの犠牲と、ギリギリの綱渡りの上にかろうじて成り立ったものだ。俺が目指すのは、そんな危うい未来じゃない。
「俺が目指すのは、武力に頼らない国家の変革だ」
「……武力に、頼らない?」
中岡が、初めて嘲笑以外の色を目に浮かべた。疑念と、ほんのわずかな好奇心。
「そうだ。考えてもみてくれ。なぜ、この国は一部の武士が支配している? 生まれが違うだけで、なぜある者は全てを手にし、ある者は虐げられねばならない? あんただって、おかしいと思っているはずだ」
俺は、彼の心の最も深い場所にあるはずの問いを、直接投げかけた。
「俺が作りたいのは、身分によらない政治が行われる国だ」
その瞬間、中岡の纏う空気が変わった。彼の隣で黙って酒を呷っていた坂本龍馬が、ぴたりと動きを止め、面白そうに目を細めるのが見えた。
「身分によらない……政治?」
中岡が、噛みしめるように呟く。
「そうだ。例えば、村の寄り合いで名主を決めるだろう? その者が一番、村のことを考えているからだ。それと同じことを、国全体でやるんだよ」
俺は、現代の民主主義や議会制の概念を、彼らが理解できる言葉に必死で翻訳する。
「武士も、農民も、商人も、職人も、それぞれの暮らしの中で得た知恵がある。その知恵を、国のために持ち寄るんだ。家柄や身分ではなく、その者の才覚と志によって、国の舵取りを任せる者を選ぶ。そういう仕組みを作るんだよ。帝を中心としてな」
「……!」
中岡の目が、大きく見開かれた。彼の呼吸が荒くなる。
「武士の世を終わらせる。だが、それは武士を皆殺しにするという意味じゃない。刀を置き、そろばんやペンを手に取るんだ。武士がこれまで培ってきた統治の知識や教養は、新しい国づくりに必ず役立つ。農民は、より良い米を作るための知恵を出す。商人は、国の富を増やすための商才を発揮する。それぞれの持ち場で、誰もが国の主役になれる。そういう国を、俺は作りたい」
それは、過労死する前の俺が生きていた、当たり前の日本の姿。だが、この時代においては、途方もない夢物語に聞こえるだろう。
「馬鹿な……そんなこと、できるはずが……」
中岡の声が、震えている。反発ではない。混乱だ。目の前の、憎い「幕府の犬」が語る未来が、あまりにも自分の理想と重なることに、彼は激しく動揺していた。
「なぜできない? 今の幕府にできないというなら、幕府の仕組みそのものを変えればいい。徳川の将軍がそれを阻むというなら、将軍に代わる、新たな国の仕組みを帝の御名の下に作ればいい。大事なのは、『誰がやるか』じゃない。『何をやるか』だ。俺は、徳川の世を守りたいんじゃない。日本という国と、そこに生きる人々を守りたいだけだ」
俺は、懐から一枚の紙を取り出した。それは、この数日間、隠れ家で書き上げた「新国家構想」の骨子だった。
一、万民議会の設立。身分を問わず、各藩・各地域から代表者を選出し、国の方針を議論決定する。
一、四民平等の徹底。士農工商の身分制度を廃止し、全ての民は法の下に平等とする。
一、中央集権体制の確立と、それに伴う藩制度の改革。
一、富国強兵のための産業育成と、国民皆兵を基本とした近代的軍隊の創設。
一、海外との対等な条約締結を目指した、積極的な外交政策。
箇条書きにされたそれを、俺は中岡の前にそっと置いた。
「……これは」
中岡は、食い入るようにその紙を見つめている。彼の指が、わなわなと震えていた。
「おまんの……考えか……?」
「ああ。まだ骨組みだけだがな」
静寂が戻る。だが、先ほどまでの刺すような静寂とは違う。濃密な何かが、俺と中岡の間で生まれようとしていた。
やがて、中岡はゆっくりと顔を上げた。その目から、先ほどまでの敵意は消え失せ、代わりに深い苦悩と、そして一条の光を見出したかのような熱が宿っていた。
「……おまんの考えは」
絞り出すような声だった。
「おまんの考えは、わしが……わしらが、命を懸けて目指すもんと……同じぜよ……」
魂の叫びだった。
理想と現実の狭間で、血を流す覚悟を決めていた男が、全く別の道を示され、その道が自分の目的地と寸分違わぬことに気づいてしまった瞬間の、偽らざる告白。
「なぜ……なぜ、新選組のおまんが、そんな考えを……」
「言ったはずだ。俺は、日本を守りたいだけだと」
俺は、彼の目を見て真っ直ぐに答えた。
「あんたと同じだ、中岡慎太郎」
その言葉が、最後の壁を打ち砕いたようだった。中岡は、はっと息を呑み、それから全ての力が抜けたように、深く、深く畳に視線を落とした。彼の中で、俺という存在が「幕府の犬」から、未知の「何か」へと変わったのが分かった。彼はもはや、俺を斬り捨てるべき敵とは見ていない。
その時だった。
「くくく……こりゃあ、面白いことになったのう!」
沈黙を破ったのは、今まで狸寝入りでも決め込んでいたかのように静かだった坂本龍馬だった。彼は空になった杯を卓に置くと、にやりと口の端を吊り上げて俺を見た。その目は、獲物を見つけた狩人のように爛々と輝いている。
「なるほど、なるほど。永倉さん、あんたはとんでもない男じゃ。慎太郎をここまで骨抜きにするとはのう」
龍馬は立ち上がると、俺と中岡の間に置かれた紙をひょいとつまみ上げた。
「身分によらない政治、万民議会……夢物語じゃが、わしはそういう与太話は嫌いじゃないぜよ」
彼は構想の紙を眺めながら、値踏みするように俺に視線を走らせる。
「しかしのう、永倉さん。あんたの言う新しい国づくりには、莫大な金がいる。今の幕府にそんな金はない。薩摩も長州も火の車じゃ。その算段は、一体どうする気じゃ?」
鋭い問い。この男は、夢物語に酔うだけではない。その実現可能性、特に金の流れを瞬時に見抜いている。
俺は、龍馬の挑戦的な視線を受け止め、不敵に笑ってみせた。いよいよ、この男が最も食いつくであろう話をする時が来た。
「金なら、生み出せばいい」
「……ほう?」
「国が、民が、豊かになる仕組み。金が金を生む仕組みを、この国に根付かせるんだ」
俺は、次なる切り札の名を、はっきりと口にした。
「『株式会社』という仕組みを使ってな」
その言葉に、龍馬の目がカッと見開かれた。彼の慧眼が、その新しい言葉の持つ無限の可能性を、瞬時に捉えたのを俺は確かに見た。魂の共鳴は、まだ始まったばかりだった。
中岡慎太郎の頑なな心を溶かしたのは、巧みな弁舌ではなく、国を憂う同じ「魂」の響き合いでした。
敵対する男たちが、同じ未来図を共有した瞬間、歴史の歯車が大きく音を立てて回り始めます。
次に立ちはだかるのは「金」という現実的な壁。
新八が龍馬に投げかけた「株式会社」という切り札は、果たして稀代の商才を持つ男をどう動かすのか。




