第90話:幕府の犬
ついに坂本龍馬と中岡慎太郎の元へたどり着いた新八。
しかし、そこは敵地も同然の場所です。
新選組の名を明かせば、即座に血の雨が降るかもしれない緊迫の状況下で新八はどう動くのか?
静寂が、まるで固まったかのように座敷に満ちた。
俺の言葉――「このままでは、この国は滅びる」――その響きだけが、男たちの間に漂っている。
値踏みするような坂本龍馬の視線と、射抜くような中岡慎太郎の視線。二対の瞳が、俺の一挙手一投足を見逃すまいと注がれている。ここで俺が何者であるかを告げる。その一言が、この奇跡的な出会いを、ただの斬り合いの場に変えてしまうかもしれない。
だが、退く気も、偽る気もなかった。
俺は、ゆっくりと息を吸い、腹の底から声を出すように、はっきりと名乗りを上げた。
「新選組、二番隊組長。永倉新八だ」
その瞬間、座敷の空気が凍りついた。
いや、凍りついたのは一瞬。次の瞬間には、沸騰した。
「なっ……新選組だと!?」
弾かれたように立ち上がったのは、中岡慎太郎だった。その顔は怒りと憎悪で赤黒く染まり、右手はすでに鞘走りの音を立てて、刀の柄に握られている。その眼光は、もはや俺を「対話の相手」ではなく、ただ斬り捨てるべき「敵」としか見ていない。
「てめえら幕府の犬が……!人斬り集団が、何の用じゃ!池田屋で飽き足らず、まだ志士の血を吸おうというのか!」
怒声が、狭い座敷に響き渡る。無理もない。彼らにとって新選組は、理想を同じくする多くの仲間を斬殺した、不倶戴天の敵。その隊長格が、今、目の前にいるのだ。すぐに斬りかかってこないだけでも、相当に理性が働く男なのだろう。
対照的に、坂本龍馬は座ったまま、動かなかった。ただ、その人懐っこい笑みは消え、代わりに底の知れない、深い探求の色が瞳に浮かんでいる。彼は立ち上がった中岡の腕を、そっと制した。
「待て、慎太郎。気持ちはわかるが、早まるな」
「龍馬!なぜ止める!こいつは、あの壬生の狼ぞ!俺たちの仲間を、何人も……!」
「わかっちょる。じゃが、よう考えてみい。ただの人斬りが、さっきのような目をするか?『この国は滅びる』などと、わしらと同じ言葉を吐くか?それに……」
龍馬は、俺の全身を改めて検分するように眺め、そして言った。
「こんだけの殺気を浴びて、眉一つ動かさん。肝が据わっちょる。ただの犬じゃなか。こいつは、何か考えがあってここに来ちゅう」
その言葉は、俺への評価であると同時に、激昂する中岡を冷静にさせるためのものでもあった。さすがは坂本龍馬。この男の器の大きさは、やはり規格外だ。
俺は、刀に手をかけることもなく、両手を軽く広げてみせる。敵意がないことの、ささやかな証明だ。
「中岡さん、と言ったか。あんたの怒りはもっともだ。俺たちの刀が、あんたたちの仲間の命を奪ったのは事実。そのことについて、弁解するつもりはない」
俺は静かに、だがはっきりと告げた。
「だが、俺は今日、斬り合いをしに来たのではない。話を、しに来た」
「話だと?笑わせるな!幕府の手先と、何を話すことがある!」
「国を憂う心に、幕府も藩も関係ない」
俺がそう言った瞬間、中岡の言葉が、ぴたりと止まった。彼の瞳に、ほんのわずかに動揺の色が浮かぶ。それは、俺が先ほど襖越しに聞いた、彼らの会話の核心に触れる言葉だったからだ。
俺は、その隙を逃さなかった。前世で培った交渉術。相手の感情を認め、受け入れた上で、こちらの土俵に引きずり込む。
「あんたたちは、薩摩も長州も、自分たちの藩のことしか考えていないと嘆いていた。違うか?」
「……っ!」
中岡が息を呑む。龍馬の目が、面白そうに細められた。
「そして、このままでは日本がバラバラになり、異国の思う壺だと。そう言ったな、坂本さん」
「……いかにも。わしはそう言うた。それが、何か?」
龍馬が、初めて俺の言葉を肯定した。俺は、畳み掛ける。
「その通りだ。全くもって、あんたたちの言う通りだ。だが、一つだけ、あんたたちが見えていないものがある」
「見えていないもの?」
「ああ。それは、異国……欧米列強が、どれほど狡猾で、どれほど貪欲で、そしてどれほど強大か、ということだ」
俺は、二人の顔を交互に見ながら、語り始めた。それは、この時代の人間が知り得ない、未来の歴史という名の、絶対的な事実。
「あんたたちは、黒船の威容に驚き、鉄の船や大砲の威力に目を見張っているだろう。だが、本当に恐ろしいのは、そこじゃない。彼らの本当の武器は、武力だけじゃないんだ」
俺は、一度言葉を切り、彼らの反応を窺う。二人は、固唾を飲んで俺の言葉を待っていた。
「清国を知っているな?眠れる獅子と恐れられた、あの大国だ。その清が、どうやって英国に蹂躏されたか。アヘンという名の毒薬によってだ」
「アヘン戦争のことか。噂には聞いている」
中岡が、吐き捨てるように言った。
「そうだ。だが、あれは単なる戦争じゃない。国家ぐるみの、壮大な収奪だ。英国は、アヘンで清の民を骨抜きにし、国力を削ぎ、銀を流出させた。そして、それを口実に戦争を仕掛け、不平等な条約を結ばせ、香港を奪い、莫大な賠償金を取った。武力は、全てを合法化するための、最後の仕上げに過ぎん」
俺の言葉に、二人の顔色が変わる。特に、海外との交易を夢見る龍馬にとって、それは他人事ではなかったはずだ。
「彼らは、まず『貿易』という顔で近づいてくる。そして、国の内部を巧みに乱す。対立を煽り、内輪揉めをさせ、国が自ら疲弊していくのを、笑いながら待っているんだ。そして、弱りきったところを、骨の髄までしゃぶり尽くす。インドがそうだ。東南アジアの国々がそうだ。そして、清国も、今まさにその道を辿っている」
俺は、目の前の二人を、いや、この国の全ての志士たちを代表する彼らに、語りかける。
「今の日本は、どうだ?尊王か、佐幕か。開国か、攘夷か。薩摩だ、長州だ、土佐だ、会津だと、小さな藩益を巡って睨み合い、いがみ合っている。これこそ、欧米列強が最も望んでいる状況だということに、なぜ気づかん!」
声が、自然と熱を帯びる。それは、霞が関の官僚として、国際社会の冷徹な現実を見てきた男の、魂の叫びだった。
「このまま内戦でも始めれば、彼らは大喜びで双方に武器を売りつけ、恩を売り、最後には漁夫の利をかっさらうだろう。勝った方も、負けた方も、彼らから借金を背負い、言いなりになるしかない。そうなれば、もう日本という国は、事実上、存在しないも同然だ!」
座敷は、水を打ったように静まり返っていた。俺の言葉は、彼らが今まで抱いていた「攘夷」という観念を、根底から揺さぶるものだったはずだ。ただ異人を斬り、打ち払えば済む。そんな単純な話ではないのだと。
やがて、重い沈黙を破ったのは、中岡だった。
彼の顔からは、先ほどまでの激しい怒りは消え、代わりに深い苦悩と、そして信じられないというような困惑が浮かんでいた。
「……おまんの言うことは、まるで、その目で見てきたかのようじゃな。じゃが、それがどうした。仮におまんの言う通りじゃとしても、だからこそ、腐りきった幕府をまず倒し、帝の下で国を一つにまとめにゃならんのじゃないか!おんしら新選組は、その幕府に尻尾を振る、ただの犬に過ぎん!」
「犬で結構!」
俺は、即座に言い返した。
「俺は、幕府の犬だ。だが、主は徳川家だけじゃない。この日ノ本という国そのものだ!俺は、この国を守るためなら、どんな泥だって啜るし、どんな汚名だって着てやる!」
俺は、立ち上がったままの中岡を、真っ直ぐに見据えた。
「あんたに聞く、中岡慎太郎。あんたは、幕府を倒した後、どうする?長州や薩摩が、大人しく帝の臣下になると本気で思っているのか?彼らが次に狙うのは、幕府が握っていた覇権だ。結局、徳川が島津や毛利に取って代わられるだけだ。また、新たな戦が始まるだけじゃないか。その間に、日本は、本当に取り返しのつかないことになるぞ!」
「そ、それは……」
中岡が、言葉に詰まる。彼の理想は、あくまで純粋な尊王攘夷。その先の、権力闘争という生々しい現実から、無意識に目をそらしていたのかもしれない。
その時だった。
ずっと黙って話を聞いていた龍馬が、ポン、と膝を打った。
「面白い……!面白いぜよ、永倉さん!」
彼は、目を子供のように輝かせ、満面の笑みを浮かべていた。
「おまん、最高に面白い男じゃ!わしは、今まで新選組の人間と、こんだけ胸のすくような話をしたことはない!まるで、十年、いや、百年先の未来から来たみたいじゃ!」
龍馬の屈託のない声が、張り詰めた空気を和らげる。彼は、俺の正体や目的を探るのではなく、俺が提示した「ビジョン」そのものに、純粋な興味を抱いていた。
「慎太郎、まあ座れ。こんだけ面白い男の話、最後まで聞かんでどうする。こいつは、わしらが今まで会った、どの勤王の志士よりも、どの幕府の役人よりも、ずっと遠くを見ちょる」
龍馬に促され、中岡は、まだ納得しきれない顔つきではあったが、渋々といった様子で腰を下ろした。だが、その視線は、もはや単なる敵意だけではなく、疑いと、そしてほんのわずかな関心の色を帯び始めていた。
俺が仕掛けた、危険な賭け。
それは、最悪の形で終わる可能性もあった。だが、俺は信じていた。彼らが真に国を憂う志士であるならば、必ずこの話に耳を傾けるはずだと。
龍馬が、身を乗り出して尋ねてくる。
「して、永倉さん。おまんの言う、恐ろしい未来を避けるために……わしらは、どうすればえい?おまんの考えを、もっと聞かせてくれんか?」
その問いは、新たな時代の幕開けを告げる、号砲のようにも聞こえた。
俺は、この歴史的な出会いが、ただの出会いでは終わらないことを確信しながら、静かに頷いた。
新八はあえて堂々と名乗りを上げました。
彼が持ち込んだのは、剣ではなく「言葉」という武器。
「幕府の犬」と罵られても、新八の信念は揺らぎません。
現代の知識を持つ彼だからこそ語れる、欧米列強による植民地支配の真の恐怖。
その圧倒的な説得力が、激昂する中岡を黙らせ、龍馬の好奇心に火をつけました。




