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第9話:参謀の片鱗

近藤、土方、沖田と共に江戸の市中を散策する永倉栄吉。束の間の平穏は、酔った旗本が町人に絡む場面に遭遇したことで破られます。義憤に駆られた近藤が前に立ち、一触即発の事態に。


栄吉は、このままでは破滅的な結末を迎えることを察知し、誰もが予想しない方法でこの危機に介入しようと試みます。

 近藤さんと二人で語り合った夜から数日後。俺は近藤さん、土方さん、そして沖田君の四人で、江戸の市中を歩いていた。

 表向きは道場に必要なこまごまとした物の買い出しだが、近藤さんの「たまには皆で息抜きも必要だろう」という鶴の一声で、半ば散策のようなものだった。


「いやあ、活気があるな!江戸の町はこうでなくっちゃいけねえ!」

 人の往来が激しい大通りで、近藤さんが腕を組んで満足げに声を上げる。その横で、沖田君が珍しい異国の反物などを冷やかしながら、子供のようにはしゃいでいる。

 対照的に、少し後ろを歩く土方さんは、相変わらず鋭い目で周囲を警戒し、気を抜く様子はない。そして俺は、そんな三者三様の姿を眺めながら、この束の間の平穏を味わっていた。


(これが、後に「新選組」となる者たちの日常か……)

 史実の彼らは、常に死と隣り合わせの緊張の中にいたはずだ。だが今はまだ、ただの田舎道場の剣客たち。京に上る前の、嵐の前の静けさ。

 俺の胸を、近藤さんの夢を聞いた夜と同じ、ちりちりとした罪悪感が焼く。この何気ない日常が、やがて血と炎に塗りつぶされる未来を、俺だけが知っている。


 そんな感傷に浸っていた俺の耳に、不意に怒声と悲鳴が飛び込んできた。

「無礼者!この俺を誰だと心得る!」

「ひぃっ!お許しください!お許しください!」


 通りの一角がにわかに騒がしくなり、人だかりができている。俺たちが顔を見合わせ、そちらへ向かうと、人垣の中心で一人の町人が武士に土下座させられていた。

 武士は見るからに上等な着物を着崩し、昼間から酒の匂いをぷんぷんとさせている。腰には大小二本差し、傍らには同じく武士の供回りが二人、困惑した表情で控えている。旗本か、あるいはどこかの藩の上士だろう。

 どうやら、町人が武士の肩にぶつかった、というありふれたいざこざらしい。


「てめえのような下衆が、俺の体に触れていいと思ってんのか!ああ!?」

 酔った旗本は、土下座して震える町人の頭を、足蹴にしようと足を振り上げた。


「そこまでにしろ!」

 それより早く、雷のような声が響いた。近藤さんだ。

 彼の義憤は、常に弱い者へと向けられる。人垣をかき分け、敢然と旗本の前に立ちはだかった。

「理由はどうあれ、丸腰の者にその仕打ちは武士の道に悖るのではないか!」


 近藤さんの登場に、旗本は面白くなさそうに顔を歪めた。

「なんだ、てめえは。ただの浪人風情が、俺に意見する気か?」

「浪人ではない!天然理心流宗家、近藤勇!」

「天然……なんだって?聞いたこともねえ田舎剣法が、この俺に楯突くとはいい度胸だ。供の者、こいつを斬り捨てろ!」


 旗本の命令に、供回りの二人が渋々といった様子で刀の柄に手をかける。

 それを見て、沖田君の目がすっと細められた。

「近藤先生に斬りかかるなんて、面白いことを言うなあ。ねえ、土方さん」

 その声は鈴の音のように涼やかだが、明確な殺気がこもっている。

 土方さんも「やれやれ」と首を振りながら、いつでも動けるように腰を落とした。


 一触即発。

 まさに、斬り合いが始まろうとしたその瞬間、俺の頭の中で警報が鳴り響いた。

(まずい!最悪の展開だ!)


 官僚としての俺の思考が、猛スピードで状況を分析し、リスクを弾き出す。


【ケース1:試衛館側が勝利した場合】

 ・相手は旗本。公儀の人間を斬れば、いかなる理由があれど、こちらが「お上への反逆者」となる。

 ・近藤勇はもとより、試衛館そのものがお取り潰し。最悪、全員が打ち首。

 ・得られるメリット:目の前の町人が救われる。近藤さんの義憤が満たされる。

 ・結論:リターンに対してリスクが壊滅的に大きい。絶対に避けなければならない選択肢。


【ケース2:試衛館側が敗北した場合】

 ・言うまでもなく、近藤さんたちが斬られる。俺の知る歴史が、ここで終わる。

 ・結論:論外。


【ケース3:この場を無視して立ち去った場合】

 ・近藤さんの性格上、絶対に不可能。

 ・仮に無理やり連れ帰ったとしても、彼の武士としての矜持を深く傷つけ、俺たちへの信頼は失墜する。

 ・結論:実行不可能。


 どのルートを選んでも、待っているのは破滅的な結末だ。

 近藤さんの正義感は尊いが、あまりにも猪突猛進すぎる。土方さんの冷静さも、結局は「斬るか斬られるか」の二元論から抜け出せていない。沖田君に至っては、斬り合いそのものを楽しんでいる節すらある。

 これが、彼らの限界。そして、俺が介入すべき領域だ。


(目的は何か?「町人を救い、かつ、この場を穏便に収めること」。そのためには、相手の「戦意」を削ぎ、「撤退」させることが最善手。だが、どうやって?)


 酔った旗本本人に何を言っても無駄だ。プライドの塊で、今さら自分から折れることはできないだろう。

 ならば、狙うべきは――。


 俺は、人垣に紛れるようにして、すっと動いた。

 目指すは、刀に手をかけながらも、明らかに及び腰になっている供回りの二人だ。彼らの表情には「主人の暴走を止めたいが、逆らえない」という苦悩がはっきりと浮かんでいる。

 俺は、そのうちの一人の背後に音もなく近づき、囁いた。


「――お主らの主人は、名を何と申される?」


 突然のことに、供回りの肩がびくりと震えた。

「な、何だ、貴様は!」

「ご覧の通り、しがない浪人です」

 俺は努めて穏やかな声で続けた。

「ですが、このままでは大事になりますぞ。相手は道場の宗家。腕も立つ。万が一、あなた方の主人に何かあれば、誰が責任を取るのです?あなた方の上役か?それとも、あなた方自身か?」


 俺の言葉に、供回りの顔が青ざめる。

 官僚組織の常として、末端の人間は常に「責任」という言葉に弱い。

 俺は、畳み掛けた。


「事が大きくなれば、お上の耳にも入るでしょう。白昼堂々、酔って町人に絡み、刃傷沙汰を起こしたと。そうなれば、いかに旗本といえど、ただでは済むまい。何より――」

 俺はそこで一度言葉を切り、決定的な一言を彼の耳に吹き込んだ。


「ご家名に、傷がつきますぞ」


 家名。

 武士にとって、命よりも重いもの。

 自分の失態ならまだしも、主人の愚行によって家の名誉が汚されることは、彼らにとって耐え難い屈辱のはずだ。


 供回りの男は、ゴクリと唾を飲んだ。その目は、明らかに動揺している。

 俺は、彼に「逃げ道」を作ってやることにした。

「ここは、我らが穏便に場を収めます。あなた方は、ご主人をあちらの角までお連れし、お茶でも飲ませて差し上げてはいかがか。事を荒立てず、主人の顔も立てる。それが、忠義というものでしょう」


 俺はそこまで言うと、すっと身を引いた。

 あとは、彼がどう動くか。


 数秒の沈黙の後、供回りの男は意を決したように、もう一人の供回りに目配せした。

 そして、酔った旗本の腕を取り、必死の形相で説得を始めた。

「旦那様!お聞き入れください!このような場所で騒ぎを起こせば、上様にご迷惑がかかります!」

「そうだ、旦那様!ここは一度、我らの顔に免じて……!」


「うるさい!離せ!」

 旗本は抵抗したが、二人の必死の説得に、その勢いは明らかに削がれていた。

「家名に傷がつく」という言葉が、彼の酔いをいくらか覚ましたのかもしれない。

 その隙に、俺は近藤さんと旗本の間に入り、深々と頭を下げた。


「近藤殿、ここは私の顔に免じて、矛を収めてはいただけないでしょうか。この方々も、深く反省しておられるご様子」

 そして、旗本の方を向き、

「旦那様も、これ以上のご無体は、ご自身の品位を貶めることになりましょう。ここは、お引き取りを」


 俺が作った「和解」の舞台。

 近藤さんは、まだ納得いかないという顔をしていたが、俺の必死の眼差しに何かを察したのか、苦々しくも刀から手を離した。

 旗本も、供回りに腕を引かれ、俺に「落としどころ」を与えられたことで、ようやく矛を収める気になったらしい。

「……ちっ。覚えていろよ」

 捨て台詞を吐き、舌打ちをしながらも、人垣の向こうへと消えていった。


 嵐が、去った。

 土下座していた町人は、俺たちに何度も頭を下げて礼を言い、雑踏の中へ紛れていった。

 残されたのは、試衛館の四人だけだった。


「永倉君、すまなかったね。君のおかげで、大事にならずに済んだ」

 近藤さんが、バツの悪そうな顔で俺に言った。

「いえ。近藤さんの義侠心あってこそです」

 俺がそう答えると、沖田君が不思議そうに首を傾げた。

「でも、永倉さん。どうしてあの人たち、急に帰る気になったんですか?まるで狐につままれたみたいでした」


 その問いに、俺が答えるより早く、静かな声が割り込んだ。

「――てめえ、面白いことするじゃねえか」


 声の主は、土方さんだった。

 彼は、腕を組んだまま、値踏みするような、それでいてどこか感心したような目で、俺をじっと見ていた。

「腕ずくで黙らせるんじゃねえ。相手の立場と、一番言われたくねえ言葉を読んで、動けねえように追い込む。まるで、熟練の博徒みてえな手際だ」


「……大事は、避けたい性分なもので」

 俺は、曖昧に笑って見せた。

 だが、土方さんの視線は、もはや俺を単なる「得体の知れない剣客」として見てはいなかった。

 彼の目は、こう語っていた。

『こいつは、使える』と。


 剣の腕だけではない。状況を分析し、人の心理を読み、最小限のコストで最大のリターンを得る。

 それは、天然理心流の誰も持ち合わせていない、「参謀」としての片鱗。

 俺がこの時代で生き抜くために、そして、彼らの未来を変えるために磨き上げてきた、もう一つの刃。


 その刃の鋭さに、土方歳三という男が、初めて気づいた瞬間だった。

 俺は彼の視線を受け止めながら、静かに覚悟を決めた。

 この男に認められたということは、俺が本格的に、この「新選組」という組織の根幹に関わっていくことを意味するのだから。


栄吉は剣ではなく、官僚として培った知略を駆使して、見事に争いを収めました。

相手の心理を読み、最小限の力で事態を収拾するその手腕は、まさに「参謀」の片鱗を感じさせます。


腕っぷしだけではない栄吉の異質な才能に、土方歳三はいち早く気づき、その存在に注目し始めます。彼の力が、試衛館の未来を大きく変えていくかもしれません。

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