第88話:帝の密命
帝に「国家戦略」としての公武合体を説いた新八。
その熱弁は帝の心を動かし、ついに将軍との直接会見という歴史的な決断を引き出します。
それは新八自身にとっても、想像を絶する重責を背負う日々の始まりでした。
静寂が、再び御学問所を支配した。俺の「身命を賭して」という言葉が、まるで水面に投じられた小石の波紋のように、ゆっくりと空間に溶けていく。目の前には、この国の頂点に立つ若き君主、孝明天皇。その瞳には、先ほどまでの憂いや迷いはなく、確固たる決意の光が宿っていた。
歴史が動いた。いや、俺が動かしてしまった。
史実では、この聡明な帝は、その真意を誰にも理解されぬまま、公武合体と尊王攘夷の狭間で苦悩し、そして志半ばで崩御する。その死は、幕府の崩壊と血で血を洗う内戦への、悲劇的な序曲となった。
だが、今は違う。帝は、公武合体を「国家戦略」として捉え、将軍との直接会見という、前代未聞の行動を起こす決意を固められた。これは、単なる歴史の修正ではない。全く新しい未来への、巨大な一歩だ。
「永倉。楽にせよ」
帝は、俺の肩に置いていた手を離し、元の玉座へと戻られた。その所作は、先ほどまでの張り詰めた空気を和らげるような、不思議な優雅さに満ちていた。促されるままに、俺は平伏していた姿勢を改め、正座する。
「そなたの申す『経済』の話、そして『国家戦略』の話。朕の知らぬことばかりであった。朕はこれまで、この御所という鳥籠の中から、書物を通してしか世を見てこなかった。だが、そなたの言葉は、まるで生きているかのように、朕の胸に響いた。それはなぜだと思う?」
問いかけられ、俺は一瞬言葉に詰まる。俺の知識は、未来の日本の、それも霞が関という中枢で培われたものだ。この時代の人間に理解できるよう、必死に言葉を選び、概念を翻訳してはいるが、その根底にあるものは、二百年以上先の未来の常識なのだ。
「……恐れながら、申し上げます。それは、俺が机上の空論ではなく、市井の民の暮らしを、その目で見てきたからではないかと愚考いたします。民の喜びも、悲しみも、そして日々のささやかな営みこそが、国の礎であると信じております。その視点が、陛下の御心に、わずかながらでも響いたのであれば、これに勝る光栄はございません」
我ながら、模範解答だった。だが、それは本心でもあった。官僚時代、俺は数字の向こうにある国民の生活を、どれだけ想像できていただろうか。この時代に来て、屯所の仲間たちや、京の町の人々と触れ合う中で、俺は初めて「民」というものを、生身の人間として感じられるようになったのだ。
「うむ」帝は深く頷かれた。「まさに、それだ。朕は、そなたを通して、民の声を、その息遣いを聞きたい。これからも、そなたを朕の『教師』としたいのだ。この国の真の姿を、そして朕の進むべき道を示す、ただ一人の教師として。これは、勅命である」
「……っ!」
教師。帝の、教師。
その言葉の重みに、俺は息を呑んだ。一介の剣客、新選組の組長に過ぎない俺が、この国の最高権威である帝の師となる。ありえない。歴史のどこを探しても、そんな前例はないだろう。
だが、拒否できるはずもなかった。いや、拒否する気など、毛頭なかった。これは、俺がこの時代で成し遂げようとしている「徳川幕府の近代国家化」という大事業において、これ以上ないほどの追い風となる。
「……御意。この永倉新八、不才の身ではございますが、謹んでお受けいたします。陛下の『目』となり、『耳』となり、この国の真の姿をお伝えすることをお約束いたします」
俺は、再び深く頭を下げた。その頭上から、満足げな帝の声が降ってくる。
「頼む。そして、もう一つ。そなたにしか頼めぬ、極めて重要な密命がある」
来たか。将軍との会見を実現させるための、具体的な命令が。俺はゴクリと唾を飲み込み、帝の次の言葉を待った。
「朕は、将軍に会うと決めた。だが、事を急いてはならぬ。幕府の中にも、様々な思惑があろう。我らの真意を理解せぬまま会見を行えば、かえって亀裂を深めることになりかねぬ」
帝の指摘は的確だった。今の幕府は、一枚岩ではない。開国進取を是とする改革派もいれば、旧態依然とした体制にしがみつく守旧派もいる。そして、そのどちらでもなく、ただ己の保身と権力維持に汲々とする者たちが、大半を占めている。そんな中で、天皇が将軍に会いたいと申し出れば、守旧派は「朝廷の幕政介入」と猛反発し、日和見主義者たちは、その混乱を己の利のために利用しようとするだろう。
「そこで、永倉。そなたに、幕府内の『改革派』と接触し、朕の真意を伝える橋渡し役となってもらいたい」
「……橋渡し役、にございますか」
「うむ。そなたは新選組の組長であり、幕臣の身分。幕府の人間と会うことに、不自然はなかろう。だが、同時に、そなたは朕が直々に信頼を置く者。そなたの言葉ならば、彼らも耳を傾けるはずだ。朕の『公武合体』は、幕府をないがしろにするものではない。むしろ、共に手を取り、この国を強くするためのものであると。その真意を、まずは我らの意を汲むであろう者たちに、確実に伝えたいのだ」
それは、天皇自らが幕政に関与するという、前代未聞の決断だった。二百数十年にわたる徳川の治世において、朝廷は権威の象徴ではあっても、政治の実権からは完全に切り離されてきた。その天皇が、特定の派閥と繋がり、幕府の内部から改革を促そうとしている。これは、もはや革命的な所業と言っていい。
俺は、その密命の持つ、途方もない重さに、身の引き締まる思いがした。これは、単なる使い走りではない。帝の代理人として、幕府の、いや、日本の未来を左右する交渉を任されたのだ。
「……御意。しかし、陛下。幕府内の誰が、我らの意を汲む『改革派』であると、お考えでしょうか」
俺の問いに、帝は少し考え込むように目を伏せた。
「……難しい問いだ。今の京は、会津藩主・松平容保が守護職として睨みを利かせている。彼は、確かに忠義の士ではあろう。だが、いささか頑固で、徳川家への忠誠心が強すぎる。我らの真意が、果たしてどこまで通じるか……。江戸にいる閣僚たちの中にも、小笠原長行や板倉勝静など、開明的な人物はいると聞く。だが、彼らの真意も、ここ京の都からでは見えぬ」
帝の言う通りだった。松平容保は、人格者ではあるが、あくまで「徳川家を守る」という視点から抜け出せない。俺が目指すのは、徳川家を頂点とした「近代国家」の創設であり、そのニュアンスの違いを理解させるのは骨が折れるだろう。江戸の幕閣たちは、さらに遠い。
「永倉よ。誰が味方となり、誰が敵となるか。それを見極めるのも、そなたの役目だ。そなたの持つ『知恵』で、真に国を思う者を見つけ出し、朕の言葉を届けてほしい」
「はっ……。なれど、事を進めるにあたり、一つ、お許しをいただきたい儀がございます」
「申してみよ」
「はい。この密命、あまりに重大。会津藩や所司代を通さず、俺が独断で幕府要人と接触することになれば、あらぬ疑いを招き、新選組そのものの立場を危うくする恐れがございます。そこで、陛下から、わたくしに、何らかの『証』を賜りたく存じます。いざという時に、わたくしが陛下の勅命によって動いていることを証明できる、何らかの……」
我ながら、大胆不敵な要求だった。だが、これは必須だ。何の権威も持たない俺が、幕府の要人たちに「帝の密命だ」と言ったところで、誰が信じるだろうか。狂人扱いされて、斬り捨てられるのが関の山だ。
帝は、俺の要求に驚いたように、わずかに目を見開いた。だが、すぐにその意図を理解されたのだろう。ふっと、その口元に笑みを浮かべられた。それは、面白い玩具を見つけた子供のような、無邪気な笑みだった。
「ふふ……面白いことを申す。確かに、そなたの言う通りだ。証もなしに、そのような大役が務まるはずもないな」
帝はそう言うと、すっと立ち上がり、御簾の奥へと入っていかれた。しばしの静寂。やがて、帝は一つの小さな桐の箱を手に、再び姿を現した。
「永倉。これを授ける」
俺の前に、そっと置かれた桐の箱。俺は、恐る恐るその蓋を開けた。中には、紫の袱紗に包まれた、一つの小さな守り袋が収められていた。そして、その横には、一枚の紙が。
「それは、朕が身につけていた守り袋だ。そして、その紙は、朕の宸筆である。『朕、永倉新八を信ず』とだけ、書いてある」
「……っ!」
俺は、震える手でその紙を手に取った。そこには、力強く、そして優美な筆跡で、確かに「朕、永倉新八を信ず」と記されていた。たった一言。だが、この世の何よりも重い、絶対的な権威を持つ言葉。これがあれば、少なくとも俺が帝の意を受けて動いているという証明にはなる。むやみに見せることはできないが、いざという時の切り札としては、これ以上ないものだった。
「その守り袋と宸筆、決して人に見せてはならぬ。だが、そなたが真に信じるべき相手と会うた時、最後の切り札として使え。よいな」
「は……ははっ!ありがたき幸せにございます!」
俺は、桐の箱を胸に抱き、何度も、何度も頭を下げた。
官僚時代、俺は上司の決裁印をもらうために、どれだけ頭を下げ、根回しに奔走したことだろうか。だが、今、俺の手の中にあるのは、そんなものとは比較にもならない、この国の最高権威者からの、絶対的な信頼の証なのだ。
歴史の歯車を、俺自身の力で回している。その凄まじい実感に、俺は武者震いが止まらなかった。霞が関の片隅で、日本の未来を憂いながらも、巨大な組織の歯車の一つとして無力感に苛まれていた、あの頃の自分はもういない。
「下がってよい。永倉。これより、そなたは朕のただ一人の密使となる。その身、くれぐれも大事にせよ」
「はっ!」
俺は、最後にもう一度、深々と頭を下げると、静かに御学問所を退出した。
御所の長い廊下を歩きながら、俺は胸に抱いた桐の箱の重みを、改めて感じていた。これは、単なる物理的な重さではない。日本の未来、数千万の民の命運が、この小さな箱に、そして俺の双肩にかかっているのだ。
屯所への帰り道、夕暮れの京の町は、家路を急ぐ人々の喧騒に満ちていた。俺は、その流れに逆らうように、ゆっくりと歩を進める。
(まずは、情報収集だ)
俺は思考を切り替える。帝の言う通り、いきなり江戸の閣僚や会津藩主に接触するのは危険すぎる。まずは、信頼できる情報源を確保し、幕府内部、そして京に集う各藩の情勢を正確に把握する必要がある。
山崎の諜報網は優秀だが、彼らの仕事はあくまで裏の汚れ仕事だ。政治の表舞台、それも各藩の思惑が複雑に絡み合うような高度な情報戦には、また別のネットワークが必要になるだろう。
(京には、各藩から、腕利きの人材が集まっているはずだ。薩摩、長州はもちろん、土佐や肥前からも……)
史実では、この時期、多くの志士たちが、それぞれの目的を胸に、この京の都で暗躍していた。その中には、俺が知る「英雄」たちもいるはずだ。
(坂本龍馬、中岡慎太郎……彼らは今、どこで何をしている?)
彼らもまた、この国の未来を憂い、新しい時代を模索していたはずだ。目的は違えど、その志の高さは本物。彼らと接触できれば、何か新しい道が開けるかもしれない。特に、あの坂本龍馬。彼の持つ柔軟な発想と、常識にとらわれない行動力は、俺の計画を大きく前進させる可能性を秘めている。
俺は、ふと足を止め、木屋町の料亭が立ち並ぶ一角に目をやった。この辺りには、各藩の藩士たちが密かに会合を開くための店が、いくつもある。
「よし……」
俺は小さく呟くと、再び歩き出した。帝の密命という重責。だが、それ以上に、歴史を創るという、途方もない興奮が、俺の心を支配していた。
まずは、この京の町で、運命の出会いを探すことから始めよう。俺の知らない、新しい日本の夜明けは、きっとそこから始まるはずだ。
一介の剣客が、国の命運を握る唯一の密使となりました。
重圧の中、彼が次に見据えるのは、坂本龍馬ら幕末の英雄たちとの接触です。
次回、京の闇に潜む志士たちとの邂逅にご期待ください。




