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第87話:公武合体の真実

帝に再び召喚された新八。

今回の議題は、政争の具と化した「公武合体」です。

妹・和宮を嫁がせた苦悩を吐露する帝に対し、新八はその真実の意味を「国家戦略」として解き明かします。

 静寂が、御所の奥深く、帝の私室である御学問所を支配していた。焚かれた香の、清らかで落ち着いた香りがふわりと漂う。その中で、俺は帝の御前に平伏していた。数日前に「経済学」という、この時代の日本にとっては斬新な概念を進講したばかりだというのに、再びの召喚。それも、人払いされた密室での拝謁である。


 緊張が背筋を駆け上るが、それは恐怖から来るものではない。歴史が、俺の知るそれとは明らかに違う方向へ、大きく舵を切ろうとしている。その巨大な転換点に、自分が立っているという自覚。中央省庁の一官僚として霞が関で日本の未来を憂いていた頃の比ではない、凄まじいプレッシャーと、それを上回る武者震いにも似た興奮が、俺の全身を貫いていた。


「面を上げよ、永倉」


 凛として、しかしどこか親しみの籠った声が降ってくる。孝明天皇。この国の頂点に立つ、若き君主。顔を上げると、その聡明な瞳がまっすぐに俺を見据えていた。


「先日の『経済』の話、誠に興味深かった。富とは、石高や蔵の中の金銀のみにあらず。国全体を巡る『血』であり、その流れを太く、速くすることが、真の国富に繋がる……。朕の知らぬ、全く新しい考えであった。そなたの知識は、一体どこから来るのだ?」


 核心を突く問いに、俺は一瞬、息を詰める。だが、ここで動揺は見せられない。俺は、この帝に、未来の知識を持つ者としてではなく、あくまで「憂国の士」として信頼されなければならないのだ。


「はっ。恐れながら申し上げます。俺の知識は、書物と、そして市井の声から得たものにございます。異国の書物を読み解き、市井の人々の暮らしをこの目で見、この耳で聞くうちに、自ずと至った考えにございます。机上の空論ではなく、民の苦しみ、そして日本の行く末を案じる心が、俺に知恵を授けてくれたのだと愚考いたします」


 我ながら、よくもこれだけ淀みなく言えたものだ。だが、それは決して嘘ではなかった。現代知識というチートはあるが、それをどう使うべきか、この国の民のためにどう役立てるべきかを日夜考え抜いているのは事実なのだから。


 帝は、俺の答えに深く頷くと、ふと、その表情に憂いの色を浮かべた。


「……民の苦しみ、か。朕も、それを思わぬ日はない。異国からの脅威は増すばかり。だというのに、この国は一つにまとまれずにいる。朝廷と幕府、薩摩と長州……。皆が己の利ばかりを主張し、真に国の未来を考えている者が、一体どれほどいるのか……」


 その嘆きは、帝の偽らざる本心だろう。そして、それは俺が今日、この場で語るべき本題への、最高の序曲でもあった。


「恐れながら、陛下。今、陛下が口にされた憂いこそ、今日の我が国が抱える、最大の病にございます。そして、その病を治す唯一の薬が、陛下ご自身が推し進められた『公武合体』であると、俺は信じております」


「公武合体……」


 帝の口から、苦い響きを伴ってその言葉が漏れた。

「だが、永倉よ。朕の意に反し、公武合体は、政争の具と成り果てておるではないか。尊攘派の者らは、朕が幕府に屈したと非難し、佐幕派の者らも、朝廷の口出しを疎んじておる。そして……何より、朕の愛する妹、和宮を異郷の地へ嫁がせたというのに、その真意は誰にも伝わっておらぬ」


 その声には、兄としての深い悔恨と、君主としての無念さが滲んでいた。和宮降嫁。史実では、この政略結婚が、結果的に朝廷と幕府の溝を埋めるには至らなかった。尊攘派の反発を買い、岩倉具視のような公家が失脚を経て結果として暗躍する原因ともなった。だが、俺は知っている。この「公武合体」というカードが、本来、どれほどの可能性を秘めていたのかを。


「陛下。それは、皆が『公武合体』の真実を、その真の目的を、理解していないからにございます」


 俺は、すっと居住まいを正し、言葉に力を込めた。


「公武合体とは、単なる政略結婚ではございません。ましてや、朝廷が幕府に、あるいは幕府が朝廷に屈するなどという、矮小な話では断じてない。これは、この日本という国が、初めて一つの『国家』として団結し、外国の脅威に対抗するための、壮大なる『国家戦略』なのでございます!」


「……国家、戦略……?」


 初めて聞く言葉に、帝は怪訝な顔をされた。俺は構わず、畳み掛ける。


「そうです。今、清国がどうなっているか、陛下もご存知のはず。アヘンという毒で国力を奪われ、英国との戦に敗れ、国土の一部を奪われ、莫大な賠償金を支払わされております。インドや東南アジアの国々は、次々と欧米列強の植民地となり、その富を搾り取られ、民は奴隷同然の扱いを受けている。彼らがなぜ敗れたのか。それは、国が一つにまとまっていなかったからにございます。王族は王族の、役人は役人の、民は民の都合しか考えず、国全体で危機に立ち向かうという意識が欠けていたからにございます」


 俺は一度言葉を切り、帝の目をまっすぐに見据えた。


「翻って、今の日本はどうか。朝廷と幕府が睨み合い、有力な藩は己の勢力拡大しか考えていない。これでは、清国の二の舞。いや、それ以上に無残な未来が待っているやもしれませぬ。そうさせないための、唯一の道。それが、公武合体なのです」


「……」


「和宮様の降嫁は、血をもって、朝廷と幕府が、もはや他人ではない、一つの『家族』となるための、神聖な儀式であったはず。陛下と将軍家茂公が、義理の兄弟となる。それは、この国の二つの頂点が、固い絆で結ばれることを意味します。それは、もはや幕府の日本でも、朝廷の日本でもない、ただ一つの『日本』が、ここに誕生したのだと、内外に高らかに宣言する行為だったのではございませんか?」


 帝の目が、大きく見開かれた。その瞳の奥で、激しい動揺と、そして一条の光が揺らめくのが見えた。


「妹を……嫁がせた真の意味……。そうか、そういうことだったのか……」


 帝は、まるで自分に言い聞かせるように、何度も頷いた。これまで、ただ政争の具として、あるいは妹を犠牲にしたという悔恨の念と共に語られてきた和宮降嫁。その本当の意味を、その本来持つべき輝きを、帝は今、初めて理解したのだ。


 だが、俺の話はまだ終わらない。真実を理解させるだけでは不十分だ。具体的な行動へと繋げなければ、何の意味もない。


「しかし、陛下。その神聖なる儀式の意味も、その壮大なる国家戦略も、残念ながら、誰にも伝わってはおりません。言葉だけでは、伝わらないのでございます。ならば、行動で示すしかございません。この日本が、真に一つになったのだということを、天下万民に、そして侮り難き異国に示す、決定的な行動が」


「……その、行動とは、何だ?」


 帝の声が、わずかに震えている。俺は、深く、深く息を吸い込んだ。これから俺が口にすることは、この国の歴史上、二百年以上も途絶えていた、前代未聞の提案。下手をすれば、不敬罪で首が飛ぶ。だが、これを言わねば、未来は変わらない。


「恐れながら、申し上げます。陛下ご自身が、江戸へ赴き、将軍家茂公と直接、お会いになるのです。あるいは、将軍を京へ呼び、この御所にて、膝を突き合わせ、同じ未来を見据え、語り合うのです!」


「なっ……!」


 さすがの帝も、絶句された。御学問所の空気が、凍りつく。天皇と将軍が、直接会見する。それは、三代将軍家光が上洛して以来、絶えて久しい儀式。しかも、家光の上洛は、あくまで幕府の権威を朝廷に見せつけるための、デモンストレーションに過ぎなかった。俺が提案しているのは、それとは全く違う。国家の未来を共に語り合う、対等なパートナーとしての会見だ。


「馬鹿なことを申すな! 朕が、武家の棟梁と、同格に会うなど……。前例がない!」


 帝の叱責が飛ぶ。だが、その声に、以前のような絶対的な拒絶の色はなかった。むしろ、その前代未聞の提案に、心が揺れ動いているのが見て取れた。


「前例がないからこそ、意味があるのでございます! 陛下と将軍が、互いの顔を見て、同じ危機感を共有し、同じ未来を語り合う。そのお姿を、天下の者たちが見た時、初めて『公武合体』が絵空事ではないと知るのでございます。文や使者では伝わらぬ『覚悟』が、そこにはある。その会見こそが、何万の兵よりも、いかなる条約よりも雄弁に、『日本は一つである』と世界に示す、万言ばんげんに勝るあかしとなるのです!」


 俺は、平伏も忘れ、身を乗り出すようにして訴えていた。


「考えてもみてください、陛下。この国の頂点に立つお二人が、固く手を取り合っておられる。その姿を見た時、薩摩も長州も、幕府内の守旧派も、もはや己の利のために争うことなどできましょうか? 尊攘の志士たちも、真に国を憂う陛下のお気持ちを知り、その矛を収めるやもしれませぬ。全ての不和と対立は、この歴史的会見の前に、雪解けのように消え去るに違いありませぬ!」


 熱に浮かされたように、俺は語り続けた。これは、俺の、いや、過労死した官僚の、そして今を生きる永倉新八の、偽らざる魂の叫びだった。


 長い、長い沈黙が流れた。帝は、目を閉じ、俺の言葉を一つ一つ、吟味するように、深く、深く、思考を巡らせておられるようだった。やがて、ゆっくりと、その瞼が開かれる。その瞳に宿っていたのは、もはや迷いや憂いではなかった。確固たる、決意の光だった。


「……永倉。そなたの申すこと、あまりに突飛で、にわかには信じがたい。だが……」


 帝は、すっと立ち上がると、俺の前まで歩み寄られた。そして、驚くべきことに、俺の肩に、そっとその手を置かれたのだ。


「だが、そなたの言葉は、不思議と朕の心に響く。そうだ……朕は、ただ妹の幸せを願うだけではなかった。この国の未来を……この国の民を、守りたかったのだ。和宮を嫁がせた、あの日の決意の真の意味を、そなたが思い出させてくれた」


 その声は、威厳に満ち、そしてどこまでも澄み切っていた。


「朕は、将軍に会う。この国の未来のために。いや、朕と将軍が、この国の未来そのものとならねばならぬ」


 その言葉を聞いた瞬間、俺は全身に鳥肌が立つのを感じた。歴史が、動いた。俺の知る、あの悲劇に満ちた幕末の歴史が、今、この瞬間、全く新しい道へと、その一歩を踏み出したのだ。


「永倉新八」


 帝は、俺の名を呼んだ。その声には、絶対的な信頼が込められていた。


「そなたの知恵、そなたの覚悟、朕は見込んだ。この前代未聞の大事業、そなたの力を貸してはくれぬか?」


 それは、問いかけの形をしていたが、実質的には命令だった。いや、それ以上に重い、帝からの「密命」の始まりであった。俺は、震える声で、しかし、はっきりと答えた。


「はっ……! この永倉新八、身命を賭して、お役に立ってご覧に入れます!」


 俺の答えに、帝は満足そうに頷かれた。窓の外では、京の都が夕闇に染まろうとしていた。だが、俺の心の中には、日本の新しい夜明けを告げる、力強い太陽が昇り始めていた。


「公武合体」の真意を理解した帝は、ついに将軍との直接会見という歴史的な決断を下します。

これにより新八は帝からの絶対的な信頼を得て、前代未聞の大事業を推進する密命を帯びることになりました。

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前例:徳川家康は万難を排して豊臣秀頼と会見した…
メッセージで帝に伝わる? 意思表示とか意向表明とか他にも言い方があるような。
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