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第82話:兄からの手紙

江戸城大奥で、夫・家茂の優しさに触れながらも、故郷への想いを募らせる和宮。

そんな彼女の元に、兄である孝明天皇から一通の手紙が届きます。

そこには、京の不穏な情勢への憂いと共に、一人の意外な人物の名前が記されていました。

 江戸城。大奥。季節は晩秋。


 吹上の御庭から運ばれてくる風は日に日に冷たさを増し、冬の到来を告げている。漆塗りの廊下に面した和宮親子内親王かずのみやちかこないしんのうの居室は、上質な香木が絶えず焚きしめられ、雅やかで落ち着いた空気に満たされていた。


 しかし、その主である和宮の心が晴れることはなく、鉛色の冬空のように、静かに沈んでいた。手にした『源氏物語』の絵巻に描かれた、きらびやかな宮中の雅宴も、今の彼女の目には色褪せて映る。


「……京は、今頃、底冷えのする頃でしょうか」


 誰に言うともなく、ぽつりと呟かれたその声は、あまりに小さく、広間に吸い込まれて消えそうだった。


 夫である第十四代将軍、徳川家茂の存在は、和宮にとってささやかな救いであった。月代の剃り跡も涼やかな顔立ちの青年は、常に柔和な笑みをたたえ、慣れない環境で心を閉ざしがちな自分を、辛抱強く、そして深く気遣ってくれる。彼の誠実さに触れるたび、凍てついた和宮の心も、少しずつ、春の雪解けのように和らいでいくのを感じていた。家茂もまた、京の不穏な情勢に心を痛めており、その苦悩を分かち合える唯一の存在が和宮であった。


 だが、心の奥底にある郷愁と、皇女としての矜持、そして兄への思慕は、何者にも埋めがたい、聖域のようなものだった。その聖域に唯一届くのが、故郷から定期的に送られてくる、兄からの手紙であった。


「宮様、京のお方より、御文おふみが届いております」


 侍女頭である和宮の腹心の一人、庭田嗣子にわたつぐこが、恭しく文箱を差し出した。


「……ご苦労様」


 その言葉を聞いた瞬間、和宮の表情に、かすかな光が灯った。待ちわびていた光が、ようやく雲間から差し込んだかのように。彼女は嗣子に目配せして人払いさせると、一人きりになった部屋で、静かに文箱を開いた。


 上質な鳥の子紙に認められた、流麗な筆跡。それは紛れもなく、彼女が世でただ一人「兄上」と呼ぶ、孝明天皇その人のものであった。


『愛しき妹、親子ちかこへ。

 江戸の冬は、京よりも厳しく冷えると聞く。息災に過ごしているか。風邪など引いておらぬか。そなたの事ゆえ、武家の慣れない暮らしに戸惑い、心を痛めているのではないかと、朕は常に案じておる』


 兄の肉声が聞こえてくるかのような、優しく、温かい言葉の数々。その一つ一つを、和宮は愛おしむように指でなぞった。乾いた心に、清らかな水が染み渡っていくのを感じる。ああ、兄上も、自分のことを想ってくださっている。それだけで、胸が熱くなった。


 手紙は、京の近況へと続いていく。


『さて、京の都は、近頃ことさらに騒がしい。尊皇攘夷を掲げる者たちの声は日増しに大きくなり、市中では「天誅」と称して人を斬り捨てるような、許しがたい所業も頻発しておる。長州や薩摩の者たちの動きも、過激になる一方で、朕の望む「公武合体」の道は、いまだ遠いと言わねばならぬ。誠に、嘆かわしい限りじゃ』


 その一文に、和宮の眉間に、わずかに憂いの影が差した。夫である家茂も、同じことを憂いていた。過激な攘夷派の行動が、かえって朝廷と幕府の結束を妨げ、国を危うくしている。兄も、夫も、同じ苦悩を抱えている。その事実に、和宮の胸は締め付けられるようだった。


(兄上も、上様も、お心を痛めておられる……。私に、何かできることはないのだろうか……)


 無力な自分がもどかしい。だが、彼女にできるのは、ただひたすらに、兄と夫の安寧を祈ることだけだった。


 しかし、手紙を読み進めるうち、和宮の目は、ある一文に釘付けになった。それまでの憂いに満ちた筆致とは明らかに違う、どこか楽しげで、弾むような気配が、その文字から感じられたのだ。


『……そういえば、話は変わるが、近頃、面白い男が朕の側に仕えるようになった。会津藩預かりの新選組に籍を置く、永倉新八という武士なのだが、これがなかなかの知恵者でな。異国の事情に驚くほど詳しく、彼奴きゃつの話を聞くのが、近頃の朕の密かな楽しみとなっておる』


「……え?」


 思わず、小さな声が漏れた。

 新選組。

 その名は、和宮も聞き及んでいる。京の治安維持のために結成された浪士組。腕は立つが、粗暴で学のない田舎侍の集まりだと、江戸城の女中たちは噂していた。夫の家茂でさえ、その働きを認めつつも「荒くれ者の集団」と評していたはずだ。


(そのような者たちの中から、兄上の側に……?)


 にわかには信じがたい話だった。兄、孝明天皇は、極度に潔癖な性格で知られる。見知らぬ者を、ましてや素性の知れぬ浪士などを、安易に側に近づけるはずがない。一体、何用あってのことなのか。そして、なぜ兄は、これほど楽しそうにその男のことを語るのだろう。


 和宮は、ごくりと喉を鳴らし、食い入るように文の続きを追った。


『先日は、西欧で起こったという「産業革命」なるものについて話を聞いた。なんでも、蒸気の力で鉄の塊を動かし、一度に多くの人や物を遠くまで運ぶのだという。また、その力で糸を紡ぎ、布を織る機械は、数百人もの女工の仕事をこなすそうじゃ。にわかには信じがたいが、永倉の話は筋が通っており、聞いていると、まるで見てきたかのように情景が目に浮かぶのだ』


「産業……革命……?」


 初めて聞く言葉だった。蒸気の力で鉄が動く。機械が布を織る。まるで、お伽噺のようだ。だが、兄の言葉には、それをただの与太話として片付けていない、真摯な驚きが満ちていた。


『そして、昨日は「議会」と「憲法」について教えを受けた。民が己の代表者を選び、国の行く末を決める。帝や将軍といった為政者すらも、「法」という定めによって縛られる。まさに、天がひっくり返るような話であった。じゃが、永倉は申す。それは、民一人ひとりが国を己の事として考え、支える仕組みである、と。朕は、その考えに深く感銘を受けた』


「……!」


 和宮は、息を呑んだ。

 議会。憲法。

 兄の手紙に書かれている言葉は、彼女がこれまで生きてきた世界とは、あまりにかけ離れていた。だが、その一つ一つが、途方もなく重要で、この国の未来を根底から揺るがしかねない響きを持っていることだけは、直感的に理解できた。


 そして、何よりも和宮の心を揺さぶったのは、その未知の知識を語る兄の、文面から滲み出る、抑えきれないほどの高揚感であった。


『……永倉は申す。いたずらに異国を打ち払うのではなく、学ぶべきは学び、取り入れるべきは取り入れるべきである、と。西欧の猿真似をするのではない。我が国が古来より育んできた美しき伝統と、西欧が生み出した合理的な仕組み。その二つを融合させ、日ノ本独自の、新しい国の形を築き上げるべきである、と。朕も、全くの同感じゃ。この男となら、それが成し遂げられるやもしれぬ。そう思うと、長らく忘れていた、心が躍るという感覚を思い出す。この国の未来も、まだ捨てたものではないのやもしれぬな』


「兄上が……心が、躍る……」


 その一文を読んだ瞬間、和宮の胸に、ちくりと小さな棘が刺さった。

 それは、嫉妬、と呼ぶにはあまりに些細で、しかし無視するには確かな存在感を放つ、複雑な感情だった。


 兄は、自分以外の誰かに、心を開いている。

 自分が知らない世界の話を、楽しそうに聞いている。

 自分が知らない未来の夢を、見知らぬ武士と語り合っている。


 嫁いで以来、兄から届く手紙は、常に妹を気遣う優しい言葉と、まつりごとに対する憂いに満ちていた。こんなふうに、まるで学問に夢中になる少年のような、純粋な好奇心と喜びに満ちた手紙を受け取ったのは、初めてのことだった。


 寂しい、という感情が、ふと湧き上がる。兄の心が、自分の知らない場所へ行ってしまったような、そんな疎外感。だが、それはすぐに、別の、もっと強い感情にかき消されていった。


(……知りたい)


 永倉新八。

 その名を、和宮は唇の上で、そっと転がしてみた。

 兄を、これほどまでに変えてしまう男。

 兄に、未来への希望を語らせる男。

 一体、何者なのだろう。

 どんな顔で、どんな声で、兄に世界のことを語るのだろう。

 そして、その男が描く「日ノ本独自の、新しい国の形」とは、一体、どのようなものなのだろうか。


 和宮の心に、熱い興味の炎が灯った。

 それは、これまで感じたことのない、知的な探究心にも似た感情だった。この閉ざされた大奥で、ただ郷愁に浸り、己の無力を嘆くだけではない。自分にも、何かできることがあるのではないか。兄が見ている新しい世界を、自分も知りたい。理解したい。そして、もしできることなら、夫である家茂にも伝えたい。


(そうだわ。この話はきっと、上様のお役にも立つはず……)


 そう思い至った瞬間、和宮の中で、点と点が線で結ばれた。兄の希望は、夫の助けになるかもしれない。それは、公武合体の象徴として嫁いできた自分が、今ここで果たせる、最も重要な役割ではないだろうか。


「……典侍ないしのすけ


 いつの間にか、和宮の声には、以前の沈んだ響きは消えていた。代わりに、皇女としての気品と、揺るぎない意志の強さが宿っていた。典侍とは、和宮が降嫁する以前の嗣子の役職である。公の場では嗣子と呼ぶが、私的な空間では、慣れ親しんだ名で呼ぶことがあった。


「はっ。宮様、お呼びにございますか」


 すぐに襖が開き、控えていた嗣子が静かに入室した。主の表情に、先ほどまでとは違う輝きがあることに、彼女はすぐに気づいた。


「お願いがあります。新選組について、詳しく調べてちょうだい。それから……その中にいる、永倉新八という隊士のことを、特に念入りに」


「しんせん、ぐみ……にございますか?」


 嗣子は、意外な言葉に、わずかに眉をひそめた。宮様が、そのような武骨な者たちに関心をお持ちになるとは。


「ええ。出自、経歴、人柄、得意なこと、苦手なこと。些細なことでも構いません。できるだけ、詳しく。お願いね」


 有無を言わせぬ、凛とした声だった。それはもはや、憂鬱に沈むか弱い姫君のものではなく、国の未来を憂い、行動しようとする為政者の血を引く者の声であった。


「……かしこまりました。早速、手を尽くして調べてご覧にいれます」


 嗣子が静かに頭を下げて部屋を辞すと、和宮は再び、兄からの手紙に目を落とした。そこには、未来への希望を語る、生き生きとした言葉が並んでいる。


 最初に感じた小さな嫉妬は、いつの間にか、兄への純粋な喜びと、そして自らの使命感へと変わっていた。


 遠く離れた京の都で、兄の心をとらえて離さないという、不思議な武士。

 その存在が、やがて自分の、そしてこの国の運命をも大きく左右することになるとは、この時の和宮は、まだ知る由もなかった。


 晩秋の冷たい空気の中で、和宮は、まだ見ぬその男の姿と、彼がもたらすであろう「新しい国の形」に、静かに思いを馳せていた。江戸城の奥深く、彼女の中に灯った小さな炎は、確かに熱を帯び始めていた。


兄の手紙に綴られた未知の世界と、それに希望を見出す兄の姿。

和宮の心は、小さな嫉妬から熱い知的好奇心へと変わりました。

新選組の永倉新八という人物の存在は、彼女を動かす大きなきっかけとなります。

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