第8話:近藤勇の夢
原田左之助との一本勝負の後、永倉栄吉は近藤勇から二人で話がしたいと誘われます。
稽古での合理的な剣技に感心した近藤は、栄吉の持つ「理」に興味を抱きます。
酒を酌み交わしながら、近藤は自らの出自と、「武士になりたい」という純粋で熱い夢を栄吉に語り始めます。
その真っ直ぐな瞳は、史実を知る栄吉の心を大きく揺さぶるのでした。
昼間の稽古の熱気がまだ残る道場の縁側で、俺は近藤勇と差し向かいで酒を酌み交わしていた。
原田左之助との一本勝負の後、興奮冷めやらぬ近藤に「ぜひ、ゆっくりと話がしたい」と誘われたのだ。土方や沖田たちも興味を示していたが、「まずは俺と二人でだ」と近藤が半ば強引に場を設けた形だった。
「いやはや、永倉殿!今日のあんたの剣、実に見事だった!」
大きめの徳利から、俺の杯に並々と酒を注ぎながら、近藤は上機嫌で言った。その顔は昼間の道場で見せる厳しい宗家の顔ではなく、人の好い農家の男の顔に戻っている。
「原田の奴、相当悔しがっていたぞ。『狐につままれたようだ』とな。だが、あれは手品でも何でもない。あんたの剣には、俺たちの知らん『理』がある」
「理、ですか」
俺は杯を傾けながら、オウム返しに呟いた。
「そうだ。俺たち天然理心流の剣は、気合で相手を圧倒し、一撃で仕留めることを身上とする。いわば『剛』の剣だ。だが、あんたの剣は違う。相手の力を利用し、最小限の動きで相手を制する。まさに『柔』の剣。それでいて、神道無念流の激しさも内に秘めている。一体、どういう修行をすれば、あのような剣が身につくのだ?」
その問いに、俺は一瞬言葉を詰まらせた。
(どう答える?物理学と運動力学、そして人体構造に基づいた合理的な動きの追求、などと説明できるはずもない)
「……俺は、ただ無駄が嫌いなだけです」
結局、俺の口から出たのは、そんな素っ気ない言葉だった。
「どんなに屈強な男でも、急所を打たれれば倒れる。どんなに速い突きでも、当たらなければ意味がない。俺はただ、その一点を突き詰めているに過ぎません」
「無駄が嫌い、か」
近藤は俺の言葉を面白そうに繰り返し、ぐいっと自分の杯を呷った。
「なるほどな。歳三が、あんたに興味を持つわけだ。あいつも、無駄と理不尽を何より嫌う男だからな」
土方の名が出たことで、俺は少し身構えた。あの男の鋭い観察眼は、俺の本質を見透かしている可能性がある。
「土方さんは……俺を警戒しているのでは?」
「ははは、警戒、か。まあ、そうかもしれんな。だが、それはあんたが『得体が知れない』からだ。得体が知れんが、その腕は確か。だからこそ、味方としてこれほど頼もしい男はいないと、あいつは考えているはずだ。口には出さんだろうがな」
近藤はカラカラと笑う。その屈託のない笑顔を見ていると、俺の心の壁が少しずつ溶かされていくような気がした。
しばらく、虫の音だけが響く静かな時間が流れる。
先に沈黙を破ったのは、近藤だった。
「永倉殿。あんたは、なぜ強さを求める?」
その問いは、先ほどまでの剣技に対する興味とは少し違う、もっと核心に迫る響きを持っていた。
「……生きるため、です」
俺は正直に答えた。
「この乱世で、何者にも脅かされず、己の信じるままに生きるために。そのためには力が必要だ」
「そうか。生きるため、か」
近藤は夜空に浮かぶ月を見上げながら、ぽつりと言った。
「俺はな、永倉殿。武士になりたいのだ」
その言葉に、俺は息を呑んだ。
知っている。彼が武州多摩の百姓の生まれであることも、その出自に強い劣等感を抱いていたことも、そして、その劣等感をバネにして、誰よりも「武士らしい武士」であろうとしたことも。
史実として知ってはいた。だが、こうして本人の口から、その夢を直接聞かされるのは、全く違う衝撃があった。
「俺の家は、宮川という。代々、畑を耕して生きてきた。だが、俺は幼い頃から、剣の道に憧れた。そして幸運にも、天然理心流の三代目、近藤周助様に見出され、養子としてこの試衛館を継ぐことを許された。だが、俺の身に流れる血は、百姓の血だ。どれだけ剣の腕を磨こうと、どれだけ義理人情を説こうと、俺を『成り上がりの百姓』と嘲る者は後を絶たない」
近藤の声には、普段の彼からは想像もできないほどの、暗く、そして熱い感情が込められていた。
「俺は、そんな連中を見返してやりたい。百姓の生まれだろうと、志さえあれば、立派な武士になれるのだと証明したい。そして、この一身を、将軍家とこの国のために捧げたいのだ。それが、俺の夢だ」
近藤は、俺の方に向き直った。その瞳は、まるで少年のように純粋な光で輝いていた。
その真っ直ぐな瞳に見つめられ、俺は激しい罪悪感に襲われた。
(この男は、数年後にその夢を叶える。だが、その先にあるのは……)
脳裏に、あの忌まわしい記憶が蘇る。
板橋の刑場で、血に濡れた首が晒される光景。
「偽官軍」の汚名を着せられ、夢破れて散っていく、この男の無念。
(俺は、それを知っている。知っていて、今、この男の夢を聞いている。これは、あまりにも残酷ではないか?)
官僚としての合理的な思考が、警鐘を鳴らす。
『感傷に浸るな。彼の死は確定した未来だ。お前一人の力で覆せるものではない。下手に介入すれば、お前自身の未来すら危うくなる』
だが、目の前の男の、あまりにも純粋な瞳を見ていると、そんな冷徹な思考は霧散してしまう。
この男を、死なせたくない。
この男の夢を、こんな形で終わらせたくない。
気づけば、俺の口からは、自分でも予想しなかった言葉が漏れていた。
「近藤さん」
俺は、初めて彼のことを「殿」ではなく、そう呼んだ。
「国に尽くす道は、剣働きだけではないかもしれません」
「……どういう意味だ?」
近藤は不思議そうな顔で、俺に問い返した。
「例えば、です」
俺は、言葉を選びながら、慎重に続けた。
「いくら腕の立つ剣客を千人集めても、彼らに食わせる飯がなければ、戦はできません。いくら立派な大義名分を掲げても、それを支える金がなければ、組織は立ち行かなくなる」
これは、官僚時代の俺が骨身に染みて理解した現実だ。国家運営とは、突き詰めれば「予算」と「兵站」に行き着く。どれだけ崇高な理念も、それを実行するためのリソースがなければ絵に描いた餅に過ぎない。
「戦とは、剣と剣のぶつかり合いだけではない。むしろ、その裏側にある、米の数、弾の数、そして金の流れこそが、勝敗を決する。俺は、そう考えています」
「米と、弾と、金……」
近藤は、俺の言葉を反芻するように呟いた。彼の表情は、まるで未知の言語を聞いているかのように困惑している。
それも当然だろう。この時代の武士にとって、金勘定は「卑しいこと」とされている。戦とは、あくまでも個人の武勇と、主君への忠義によって成り立つもの。それが、彼らの常識だ。
「永倉殿、あんたは面白いことを言うな」
近藤は、ようやくそう言うと、豪快に笑った。
「まるで、どこぞの勘定奉行のような物言いだ。だが、あんたの言うことにも、一理あるのかもしれん。俺たちは、剣の腕を磨くことばかりに気を取られて、そういう視点を持ったことがなかった」
「……出過ぎたことを申しました」
俺は、慌てて頭を下げた。少し踏み込みすぎたかもしれない。俺の「異質さ」を、さらに際立たせてしまった可能性がある。
だが、近藤は笑って手を振った。
「いや、いい。実に興味深い話だった。永倉殿、あんたはただの剣客じゃない。何か、俺たちにはないものを持っている。歳三が言っていた意味が、少しだけ分かった気がする」
そう言うと、近藤は立ち上がった。
「夜も更けてきた。今日はここまでにしよう。だが、また聞かせてくれ。あんたの考える『戦』とやらを。そして、俺の夢も、もう少し聞いてほしい」
「……はい、喜んで」
俺も立ち上がり、深々と頭を下げた。
自室に戻る道すがら、俺は先ほどの会話を反芻していた。
近藤勇という男の、底知れない器の大きさと、その純粋すぎるほどの夢。
そして、その夢の行く末を知る者としての、重い、重い罪悪感。
(神のような視点、か……)
かつて自分が立てた分析を思い出し、自嘲気味に呟く。
(冗談じゃない。神であるものか。俺はただ、未来の歴史を知っているだけの、無力な人間に過ぎない)
だが、無力だと嘆いていても、何も始まらない。
俺には、この時代の人間にはない「知識」という武器がある。
財政、兵站、経済、外交……。
それらを駆使すれば、あるいは。
(徳川幕府を、史上最強の近代国家に魔改造する……)
この転生における、俺の壮大な目標。
それは、目の前の男、近藤勇の「武士になりたい」というささやかな、しかし切実な夢を守ることと、どこかで繋がっているのかもしれない。
「やるしかない、か」
俺は、夜空に浮かぶ月を見上げ、誰に言うでもなく呟いた。
その夜、俺は初めて、この幕末の時代で、自分の成すべきことの輪郭を、確かに掴んだ気がした。
近藤勇の夢と、その悲劇的な末路を知る栄吉は、激しい罪悪感に苛まれます。
しかし、彼はただ感傷に浸るのではなく、自らが持つ未来の知識を武器に、近藤の夢を守ることを決意します。
剣の腕だけでなく、財政や兵站といった新たな視点で「戦」を語る栄吉。
その言葉は、近藤にどう響くのでしょうか。彼の壮大な目標が、今、確かな輪郭を帯び始めます。