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第79話:産業革命と蒸気機関

新八による帝への秘密の進講が続きます。

今回のテーマは、英国を覇者たらしめた力の源泉「産業革命」です。


 清らかな白檀の香が、静寂に満ちた御所の一室に漂っている。その香の中心、御簾の向こうに坐すのは、この日ノ本の頂点に立つ第百二十一代天皇、今上帝、孝明天皇その人である。


 そして、御簾の前に平伏するのは、会津藩預かり新選組組長、永倉新八であった。


 先の進講で永倉が広げてみせた世界地図。そして、アヘン戦争によって大国・清が小国・英国に屈したという衝撃的な事実。それらは、帝の心を根底から揺さぶった。中華こそが世界の中心であるという、長年信じてきた世界観は、音を立てて崩れ去った。


 だが、帝はただ衝撃を受けるだけの凡庸な君主ではなかった。その知的な探求心は、即座に未知なる強国の力の源泉へと向けられていた。


「永倉」


 御簾の向こうから、張り詰めた、しかし威厳のある声が響く。


「先にその方は、英国の力の源は『産業革命』なるものにあると申したな。今日は、その詳細について、朕に説いて聞かせるがよい」


「はっ。御意にございます」


 永倉は深く頭を下げ、ゆっくりと顔を上げた。その眼差しは、目の前の御簾のさらに奥、日ノ本の未来を見据えているかのようだった。


「帝。恐れ多くも、まずはこの日ノ本の『国力』というものについて、お考えを巡らせていただきたく存じます。それは、石高、すなわち米の取れ高であり、民の数であり、あるいは戦に動員できる兵馬の数でありました。しかし、英国をはじめとする西欧諸国は、我らとは全く異なる力の単位を発見し、それを掌中に収めたのでございます」


「異なる、力の単位……?」


「はい。それは、『蒸気』にございます」


 永倉の口から放たれた意外な言葉に、御簾の向こうで帝が息を呑む気配が伝わった。


「先日もそのようなことを話しておったな…。蒸気、と申すか。茶釜の湯気のことか」


「まさに、それにございます。帝の仰せの通り、薬缶の湯が沸騰いたしますると、蓋がカタカタと音を立てて持ち上がります。あれは、水が熱せられて蒸気となり、その体積が元の水の一千倍以上にまで膨れ上がることで生まれる力にございます。英国人は、この身近にありふれた小さな力を、鉄の筒の中に封じ込めることを考え出したのでございます」


 永倉は、自らの言葉を補うように、目の前の畳の上に指で簡単な図を描き始めた。それは、円筒と、その中を往復するピストンの絵だった。


「頑強な鉄の筒の中で水を沸かし、発生した蒸気の逃げ道を一つに絞る。そういたしますと、筒の中に仕込まれた鉄の栓を、凄まじい勢いで押し出す巨大な力が生まれます。そして、その鉄の栓が往復する動きを、仕掛けを用いて車輪の回転運動に変える。これこそが、西欧の力の根幹をなす『蒸気機関』。いわば、鉄でできた心臓にございます」


 人力でもなく、馬力でもない。自然界に存在する力を、人間の意のままに、しかも際限なく取り出すという概念。それは、帝にとって、まるで陰陽師が使う呪術か、あるいは伝説に語られる魔法のように響いた。


「して、その鉄の心臓は、何を糧として動くのだ?馬が秣を食むように、人もまた米を食らう。それほどの力を生み出すからには、相応の糧を必要としよう」


 帝の的を射た問いに、永倉は「はっ」と力強く応じた。


「その糧は、『石炭』にございます。地中深くから掘り出される、『燃える石』。これを炉にくべ、燃やし続ける限り、蒸気機関は昼夜を問わず動き続けます。人のように疲れて眠ることもなく、馬のように病にかかることもございませぬ。ただ、石炭と水を与え続ける限り、永久に等しい力を生み出し続けるのでございます」


 帝は言葉を失った。それは、自然の摂理から、生命の軛から解き放たれた、人知を超えた力の誕生を意味していた。日の本の国力が、天候に左右される米の収穫量に依存しているのとは、次元が違う。人が作り出した神が、人のために働き続けるようなものだ。


 永倉は、畳に描いた図を指し示しながら、さらに言葉を続けた。


「英国人は、まずこの蒸気機関を使い、織物工場を動かしました。かつて、何百人もの女工が手作業で一日がかりで織っていた布を、蒸気機関はたった一台で、しかも遥かに速く、大量に織り上げます。これにより、英国は安価で良質な布を世界中に売りさばき、莫大な富を築き上げました。この、蒸気機関の発明によって社会の仕組みそのものが劇的に変化した一連の流れこそ、『産業革命』の正体にございます」


 富は、力へと転化する。永倉の話は、いよいよその核心へと迫っていく。


「次に、彼らはこの鉄の心臓を船に積み込みました。それが『蒸気船』。先年、浦賀に来航した黒船が、まさにそれにございます。風や潮の流れに一切逆らって進むことができるため、世界の海を自在に航行し、望む場所へ兵を運び、望む相手に産物を売りつけることができる。これにより、世界の海は英国の庭と化しました」


 黒船の衝撃が、帝の脳裏に蘇る。風なくして海原を疾走する、あの不気味な黒い鉄の塊。その力の源が、薬缶の湯気と同じものから生まれているという事実に、帝は改めて戦慄した。


「それだけには留まりませぬ」と永倉の声に熱がこもる。「陸の上では、鉄でできた道を敷き詰め、蒸気機関を積んだ鉄の車両『汽車』を走らせました。これにより、一度に何百人もの兵と、山のような物資を、いかなる駿馬が駆けるよりも速く、正確に、遠くまで運ぶことを可能にしたのでございます。兵站、すなわち補給路の維持は、古来より戦の勝敗を分ける最も重要な要素。蒸気機関は、その概念すらも塗り替えてしまいました」


 蒸気が布を織り、富を生む。その富が、蒸気で動く船と汽車を生み、強大な軍事力を支える。そして、その軍事力が、さらなる富と植民地を英国にもたらす。永倉が語る、力の連鎖、拡大していく力の奔流に、帝は完全に言葉を失っていた。これまで信じてきた国のあり方、戦のあり方が、まるで砂上の楼閣のように、足元から崩れ落ちていく感覚に襲われた。


 長い、重い沈黙が、部屋を支配した。聞こえるのは、白檀の香炉から立ち上る、か細い煙の音だけだった。


 やがて、御簾の向こうから、絞り出すような声が漏れた。


「永倉よ……」


 その声は、微かに震えていた。


「そなたの申す通りであるならば……その『蒸気』の力なくして、この日ノ本が、世界の国々と渡り合うことは、もはやできぬと申すか」


 永倉は、顔を上げ、真っ直ぐに御簾を見据えた。その視線は、薄絹を貫き、帝の瞳を射抜くかの如く鋭い。


「御意にございます」


 迷いなき、断言であった。


「刀の時代は、終わりを告げようとしております。これからの国力とは、すなわち『蒸気』の力。どれだけ多くの蒸気機関をその内に有し、どれだけ多くの鉄の船や機械を造り出せるか。それが、国の存亡を左右する時代が、すぐそこまで参っております。この日ノ本の輝かしい未来のためには、この『蒸気』の力を使いこなすことが、何をおいても不可欠にございます」


 永倉の言葉は、もはや単なる知識の伝達ではなかった。それは、未来の歴史を知る者からの、魂の叫びだった。この国を心から憂い、その行く末を案じる者だけが発することのできる、熱を帯びた祈りにも似た響きがあった。


 帝は、ゆっくりと目を閉じた。


 魔法のように聞こえた話が、今や、決して逃れることのできない、冷厳な現実として、帝の双肩に重くのしかかっている。


 蒸気、石炭、鉄の機械……。


 それらが織りなす、新しい世界の秩序の姿。そして、その荒波の中を、この日ノ本という舟がいかにして進むべきか。


 永倉新八という、一介の剣客がもたらした言葉の一つ一つが、帝の心に、まるで槌で打ち込まれるかのように、深く、深く刻み込まれていくのだった。


お読みいただきありがとうございます。

新八は、茶釜の湯気という身近な現象から説き起こし、水を蒸気に変え、鉄の機械を動かす「蒸気機関」の原理を解き明かしました。

石炭を糧に無限の力を生み出すこの発明が、帝の世界観を再び揺るがします。

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― 新着の感想 ―
機械が存在しない時代に機械による生産力アップの説明は難しいよな。
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