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第78話:和宮の憂鬱

江戸城大奥で、和宮は政略結婚の重圧と孤独に耐えます

。誠実な家茂の優しささえ、越えられぬ壁を際立たせます。

新八が京で帝に知を授ける一方、江戸では妹の祈りが静かに綴られます。

 徳川幕府の本拠地、江戸城。その広大な敷地の最も奥まった一角に、男子禁制の空間が広がっている。

 大奥。そこは、絢爛豪華という言葉ですら生ぬるいほどの、贅を尽くした世界であった。磨き上げられた漆塗りの廊下は、歩む者の姿を鏡のように映し出し、襖に描かれた金碧の狩野派絵師による花鳥風月は、季節の移ろいを永遠に閉じ込めている。香木が絶えず焚きしめられ、甘く幽玄な香りが常に満ちていた。数多の侍女たちが、衣擦れの音も立てずに忙しなく行き交い、この空間の主のあらゆる望みを、その言葉が発せられる前に叶えんと、神経を研ぎ澄ませて控えている。


 しかし、その主である和宮親子内親王かずのみやちかこないしんのうの心は、晴れることのない薄曇りの空のように、静かに沈んでいた。


「……京は、今頃、紅葉が見事でしょうね」


 常であれば、その繊細な唇から紡がれるのは、柔らかく雅やかな京言葉。だが、今は江戸での暮らしに合わせ、武家の言葉を使おうと努めている。その努力が、かえって彼女の心を縛る枷の一つとなっていた。


 すぐさま、侍女頭である庭田嗣子にわたつぐこが、絹を滑らせるような柔らかな声で応えた。

「江戸の紅葉も、見事でございますよ、宮様。明日にでも、吹上の御庭を散策されてはいかがでしょう。西の丸の庭園とはまた違った趣向で、宮様のお心も和むかと存じます」


 嗣子は、和宮が京から伴ってきた数少ない腹心の一人だ。彼女の憂いを誰よりも理解し、心を砕いている。その忠義が、和宮にはありがたくもあり、同時に息苦しくもあった。


「ええ……そうですね。考えておきましょう」


 曖昧に微笑んで、和宮は手元の『源氏物語』の絵巻に視線を落とした。だが、そこに描かれた光源氏の憂い顔も、女三の宮の悲哀も、今の彼女の心には響かない。文字も、絵も、ただの模様として目の前を滑っていくだけだ。


 心は、ここにはなかった。

 生まれ育った京の都、桂御所の庭。幼い頃、兄である帝と共に追いかけた蜻蛉の羽のきらめき。手を繋いで眺めた、東山に燃え立つような錦繍の山々。耳に馴染んだ、柔らかい京言葉の優しい響き。その全てが、今では手の届かない夢のように遠い。


 公武合体。


 朝廷と幕府が手を取り合い、黒船来航以来の国難を乗り越える。そのための、政略結婚。その象徴として、帝の妹である自分が、徳川の将軍に嫁ぐ。

 その大義を、和宮は理解していた。いや、理解しようと必死に努めてきた。敬愛する兄、孝明天皇が、どれほどの苦悩の末に、この異例の降嫁を勅許したか。その聖慮を思えば、我儘など言えるはずもなかった。兄が「国の為だ」と、涙を堪えて自分に言い聞かせた、その顔を忘れることはできない。


 江戸へ下る道中は、それ自体が苦難の連続だった。そして、この大奥での暮らしが始まってからも、心の休まる日は一日としてなかった。武家の作法は、公家のそれとはあまりに違う。言葉遣い、食事の献立、着る物の様式、日々の慣わし。全てが一からの学びだった。特に、御台所としての立場は、彼女が想像していた以上に複雑怪奇なものだった。大奥という、数千人の女たちが蠢く園が、見えざる棘と嫉妬に満ちた世界であることも、身をもって知った。前御台所の天璋院篤姫との確執も、今でこそ雪解けの兆しが見えるが、当初は互いの意地と矜持がぶつかり合う、冷たい戦いの連続だった。


 それでも、和宮は必死に耐え、務めを果たしてきた。兄のため、国のため。そう、自分に何度も何度も言い聞かせて。


 だが、他の何よりも彼女の心を重くさせるのは、夫である第十四代将軍、徳川家茂との関係だった。


「宮様。上様が、お見えになりました」


 侍女の凛とした声に、和宮ははっとして顔を上げた。思考の海に沈んでいた意識が、急速に引き戻される。

 襖が静かに開かれ、月代の剃り跡も涼やかな顔立ちの青年が、柔和な笑みを浮かべて立っていた。


「宮、息災であるか」


「上様……。本日もお務め、ご苦労様でございます」


 慌てて居住まいを正す和宮の前に、家茂は「堅苦しい挨拶はよい」とでも言うように手をひらひらとさせ、どっかと腰を下ろした。その動きには、公家にはない、武家らしい実直さと若々しさがある。


「今日は、珍しい菓子が手に入ったゆえ、宮と共に味わいたいと思ってな。下がってよい」


 侍女たちを下がらせると、家茂は傍らの小姓が運んできた硝子の器を、少し照れたように和宮の前に差し出した。

「南蛮渡来の金平糖というものだそうだ。星の形をしておる」


 色とりどりの小さな星が、硝子の器の中でキラキラと光を反射している。その可憐な様に、和宮の強張っていた表情が、わずかに和らいだ。


「まあ、美しゅうございます。まるで、夜空の星々を閉じ込めたかのよう」


「カステラほど、宮のお口に合うかは分からぬがな」


 そう言って朗らかに笑う家茂の顔に、悪意や裏はない。彼は、誠実で、心優しい青年だった。この政略結婚の相手である自分を、ただの道具としてではなく、一人の妻として、懸命に気遣い、心を寄せようとしてくれている。それが痛いほど伝わってくる。


 だが、その純粋な優しさが、かえって和宮の心を締め付けた。


「上様は、いつもお優しいのですね」


 思わず漏れた言葉に、家茂はきょとんとした顔をした。

「夫が妻を気遣うは、当然のことではないか。それとも、何か不満でもあったか?遠慮なく申すがよい。大奥の者たちが、宮に無礼を働いてはいないか?」


 悪戯っぽく、しかし真剣に気遣う眼差しで尋ねる家茂に、和宮は小さく首を横に振った。

「いいえ。そのようなことは……。ただ……」


 言葉が、続かない。

 自分たちは、夫婦だ。だが、その絆は「公武合体」という政の道具として結ばれたもの。互いに、その事実から目を逸らすことはできない。この江戸城にいる限り、彼は「将軍」であり、自分は「帝の妹君」なのだ。


 家茂は、幕府の長として。

 自分は、朝廷の象徴として。


 その役割を脱ぎ捨てて、ただの男と女として向き合うことが、どうしてもできなかった。二人の間には、常に薄く、しかし決して破れない、障子紙のような壁が存在している。家茂が優しくすればするほど、その壁の存在が、より一層際立って感じられた。


「……京の兄上様は、お変わりなくお過ごしでしょうか」


 気づけば、口をついて出ていたのは、故郷への思慕と、最大の懸念だった。

 その言葉を聞いた瞬間、家茂の表情から柔和な夫の笑みがすっと消え、わずかに曇った。


「……そうだな。風の便りでは、ご健勝と伺ってはいるが……」


 家茂は言葉を選びながら、慎重に続けた。

「近頃、また京の都も騒がしくなっていると聞く。長州の者たちの不穏な動きも、いよいよ幕府として看過できぬところまで来ている。京の市中では、天誅と称して人斬りが横行しているとも……」


 政の話になった途端、家茂の顔は、夫から「将軍」のそれに変わる。その瞳には、二百数十年の長きにわたって天下を治めてきた徳川の棟梁としての、重い責務の色が浮かんでいた。


「私の耳にも、入っております。兄上様が、どれほど心を痛めておられることか……」


 攘夷か、開国か。

 佐幕か、尊王か。


 様々な思惑が渦巻き、血で血を洗う抗争が繰り広げられる京の都。その混沌の中心で、全ての責を一身に背負うかのように、兄は日々、伊勢の神宮や賀茂の社の方角を向いて、国の安寧を祈り続けているという。

 その心労を思うと、和宮は胸が張り裂けそうだった。江戸での暮らしの不便さや、大奥での人間関係の煩わしさなど、兄の苦悩に比べれば、取るに足らないことのように思えた。


「上様。一つ、お願いがございます」


 和宮は、すっと背筋を伸ばし、意を決して家茂の瞳をまっすぐに見つめた。その眼差しには、先程までの儚げな憂いはなく、内親王としての凛とした光が宿っていた。


「何だ、申してみよ」

 家茂もまた、彼女のただならぬ気配を察し、居住まいを正した。


「兄上様に、文をしたためるお許しを、いただきたく存じます」


 家茂は、一瞬、逡巡の表情を見せた。

 将軍の正室が、帝に私的な手紙を送る。それは、極めて政治的な意味合いを帯びる行為だ。幕閣の中にも、老中たちの中にも、朝廷とのこれ以上の繋がりを快く思わない者たちは、少なくない。この手紙が、彼らを刺激する可能性は十分にあった。


 だが、家茂は、和宮の瞳に宿る、切実な光を見て取った。それは、政の道具としての姫のものではなく、ただひたすらに肉親である兄を思う、一人の妹の瞳だった。自分が江戸で感じる孤独と同じ、あるいはそれ以上の孤独を、京で兄君が感じているのではないか。妹として、それを慰めたいという純粋な気持ちが、痛いほど伝わってきた。


「……分かった。許す」


 しばしの沈黙の後、家茂は、静かに頷いた。

「だが、くれぐれも差し障りのない範囲で、頼む。この文が、新たな火種とならぬよう」


「はい。上様のご配慮、痛み入りまする」


 深く頭を下げる和宮に、家茂は「よい」と短く告げ、立ち上がった。「長居は無用であろう。ゆっくりと、お認めたられよ」そう言い残し、彼は将軍の顔に戻って部屋を去っていった。


 その夜。

 侍女たちを全て下がらせた私室で、和宮は一人、文机に向かった。

 上質な硯で丁寧に墨をする。その静かな音と、墨の香りが、ささくれだった心を少しずつ落ち着かせていく。そして、真っ白な料紙に、愛用の小筆を滑らせた。


『兄上様におかれましては、御息災にましますや。江戸の空の下、いつも京の都を、そして兄上様を案じております』


 書き出しは、儀礼的な時候の挨拶。

 続けて、江戸での自らの暮らしぶりを、当たり障りのない言葉で綴る。夫である家茂が、いかに自分を大切にしてくれているか。幕府の人々が、敬意をもって接してくれているか。それは、兄を安心させたいという、偽らざる気持ちだった。


 だが、筆が進むにつれ、その行間には、隠しきれない本心が滲み出ていく。


『……されど、近頃伝え聞く京の騒乱、まことに心痛の極みにございます。攘夷の声は日増しに高まり、血気にはやる者たちが、兄上様のお心を惑わさんと、様々な策動を巡らせている由。兄上様が、幕府を信じ、この国の安寧を第一に願っておられるお心は、誰よりも深く存じております。なれど、その尊きお心が、己が野心を満たさんとする者たちの政争の具にされることだけは、あってはなりませぬ』


 そこには、政治的な分析や提言はない。

 ただ、兄の身を案じ、その聖慮が汚されることを恐れる、妹としての純粋な祈りがあった。


『……江戸の暮らしにも、ようやく慣れてまいりました。上様は、まことに誠実な御方。されど、この大奥という場所は、わたくしのような者には、あまりに広く、人の心が幾重にも重なり、息苦しく感じられることもございます。弱音を吐くをお許しくださいませ。ただ、兄上様にだけは、偽らざる心を打ち明けとうございました』


 最後の一文を書き終えた時、和宮の頬を、堪えきれなかった一筋の涙が伝った。

 それは、寂しさか、悔しさか、それとも故郷への思慕か。自分でも、分からなかった。


 涙で文を汚さぬよう、そっと袖で目元を拭い、彼女は静かに筆を置いた。

 そして、書き上げたばかりの文を、丁寧に折り畳み、封をする。


 この一通の手紙が、公儀の飛脚によって、厳重に警護されながら江戸から京へと運ばれ、やがて兄の側近くに仕える一人の男――永倉新八という、会津藩預かりの新選組組長の手に渡ることになるとは、この時の和宮は知る由もない。


 そして、この手紙に込められた妹君の憂いと真心が、その男の心を強く揺り動かし、歴史の歯車を、また一つ、大きく動かすことになるということも。


 和宮はただ、遠い江戸の空の下、敬愛する兄の安寧と、この国の平穏を、一心に祈り続けるのだった。


お読みいただきありがとうございます。

和宮の手紙は、兄を案じる真情とともに、新八へと連なる運命の糸を紡ぎます。

権勢の渦中でこそ素の心が光ります。

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― 新着の感想 ―
今史では、これが「お兄ちゃん、東京に行く」の切っ掛けになったのか・・・。
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