第77話:世界地図という衝撃
帝からの密勅を受け、新八は自作の世界地図を携え御所へ向かいます。
中華中心の旧来観を打ち砕く事実と、英国の覇権、産業革命の実相を示す覚悟です。
そして、江戸では和宮の手紙が静かに運命の糸を紡ぎます。
帝からの密勅。
それは、想像を超えたシチュエーション。転生の前後を通して、かつてないほどに、俺を昂らせた。
霞が関で磨き上げた知識と経験の全てを、この国の最高権力者に直接インストールする。徳川幕府の魔改造という、俺の壮大な計画において、これほど強力な布石はない。
最初の御進講の日。
俺は、会津藩邸の一室に籠り、数日がかりで準備した「教材」を携え、再び御所へと上がった。もちろん、表向きは会津藩主・松平容保公からの報告という名目だ。昼間の、人目のある時間帯を選び、あくまで公務を装う。俺と帝との接触は、絶対に悟られてはならない。
通されたのは、前回と同じ、帝の私的な書斎だった。
すでに人払いと警備は、容保公の手によって完璧に行われている。この部屋で交わされる言葉が、外に漏れる心配はない。
「待っていたぞ、永倉」
書見台に向かっていた帝――孝明天皇は、俺の姿を認めると、柔らかい笑みを浮かべた。その表情には、数日前の怒りや苦悩の色はなく、知的な好奇心が満ち溢れている。この聡明な君主は、すでに気持ちを切り替え、未知の知識を吸収する準備を整えているのだ。
「はっ。本日は、主上に世界の真の姿を知っていただくための、最初の一歩となる品を持参いたしました」
俺は、恭しく一礼し、携えてきた大きな和紙の巻物を、畳の上に広げた。紙の大きさは、畳二畳分ほどもあるだろうか。俺が未来の記憶を頼りに、夜を徹して描き上げた、手製の「世界地図」だ。
「……ほう。これが、地図か」
帝は、興味深そうに立ち上がり、俺の隣に座って、広げられた図を覗き込んだ。
その地図を一目見た帝の眉が、わずかにひそめられる。無理もない。この時代の日本で描かれる世界地図――いわゆる「万国総図」の類は、そのほとんどが仏教的な世界観に基づいた、観念的なものか、中華思想の影響を色濃く受け、清国を世界の中心にどっかと据えた歪な構図をしている、地形のゆがみが著しいものだ。
だが、俺が描いた地図は違う。
未来の知識――正確な測量と科学に基づいて描かれた、メルカトル図法の世界地図。大陸の形、大きさ、そして海との比率。その全てが、帝がこれまで目にしてきたどの地図とも、根本的に異なっていた。
「永倉。これは……。日の本は、ここにあるとして……」
帝は、戸惑いながら、極東の小さな島国を指さす。
「して、中華はどこだ?世界の中心たる、あの大国は」
「恐れながら、主上。こちらにございます」
俺は、帝の指の先から少し左に視線を移し、アジア大陸の東部に広がる巨大な陸地を指し示した。
「……ここだと?中心ではないではないか。それに、この大陸の西には、さらに広大な土地が広がっている。これは一体、何なのだ?」
帝の声に、驚きと混乱が入り混じる。
これこそが、俺の狙いだった。中華思想という、古く、凝り固まった世界観の、根底からの破壊。
「主上。我らが中華と崇める清国は、決して世界の中心ではございません。ご覧の通り、広大なユーラシア大陸の、東の端に位置する一国に過ぎませぬ。そして、その西にはインド、ペルシャ、オスマントルコといった国々が連なり、さらにその先には、欧州と呼ばれる諸国がひしめいております」
俺は、一つ一つの地域を指し示しながら、淡々と説明する。国家公務員として培った、客観的な事実のみを伝えるブリーフィングの口調で。
「そして、こちら。大西洋を隔てた西の大陸には、アメリカ合衆国という、建国から百年にも満たない新しい国がございます」
「……なんと……」
帝は、言葉を失い、食い入るように地図を見つめている。その知性が、この一枚の紙に込められた情報の持つ、革命的な意味を、瞬時に理解しようとフル回転しているのが分かった。
「主上。世界の広さは、我らが想像する以上のものでございます。そして、今、この世界で最も強大な力を有しているのは、中華たる清国ではございません」
俺は、欧州大陸の北西に浮かぶ、小さな島を指さした。日の本よりも、さらに小さい。
「この、グレートブリテン及びアイルランド連合王国――通称『英国』と呼ばれる島国。今、世界を事実上、支配しているのは、この国にございます」
「……馬鹿な。この、日の本よりも小さな島国が、あの広大な清国を凌ぐと申すか」
帝は、信じられない、という表情で俺を見た。
「いかにも。その力の源泉こそ、主上にこれから御進講申し上げたい『産業革命』にございます」
俺は、あえてその言葉を口にした。
「産業革命……?」
「はっ。石炭を燃やし、水を沸騰させて得られる蒸気の力で、鉄の機械を動かす技術。それにより、人の手では到底不可能な量の製品を、昼夜を問わず生産することが可能となりました。特に、鉄と織物。この二つの生産において、英国は他国を圧倒しております」
俺は、受験生時代にインプットされた、世界史の知識を、淀みなく語り続ける。
「英国は、その圧倒的な生産力と、蒸気機関で動く鋼鉄の軍艦を背景に、世界中に植民地を広げ、富を収奪しております。かつて我らが中華の一部と見ていた天竺――インドも、今や英国の植民地。そして、数年前には、アヘン戦争と呼ばれる戦いで、あの清国を打ち破り、多額の賠償金と領土の割譲を認めさせました」
「……清が、敗れた……だと……?」
帝の顔から、血の気が引いていくのが分かった。
この時代の人間にとって、中華の敗北は、天が落ちてくるのに等しい衝撃だ。
「はっ。これが、世界の現実。力の序列でございます。人口で申せば、清国は4億人、日の本は3千万人。対して英国は、本国だけなら2千万人程度に過ぎませぬ。しかし、産業革命によって得た『国力』の差は、兵力の数といった単純な比較を、もはや意味のないものにしてしまったのです」
俺は、地図の上に、未来の記憶から引き出した各国の人口の概数を書き込んでいく。数字は、何よりも雄弁な事実だ。
「我らが今、直面している『異人』とは、かつてのように、徳をもって教化すれば従うような、野蛮な南蛮人ではございません。我らとは全く異なる価値観と、我らを遥かに凌駕する技術力、そして飽くなき欲望を持った、恐るべき『列強』なのでございます」
静寂が、部屋を支配する。
帝は、広げられた世界地図と、そこに書き込まれた数字を、ただ黙って見つめていた。その横顔は、驚愕と、屈辱と、そして……かすかな恐怖に彩られているように見えた。自分がこれまで信じてきた世界が、足元から崩れ落ちていく音を、聞いているのかもしれない。
攘夷。
異人を打ち払え。
その言葉が、この圧倒的な国力差の前で、いかに空虚な響きを持つか。この聡明な君主は、今、それを痛感しているはずだ。
長い、長い沈黙の後。
帝は、ゆっくりと顔を上げた。その瞳には、先程までの動揺は消え、代わりに、まるで乾いた大地が水を吸い込むような、激しい知的好奇心の光が宿っていた。
「……永倉」
帝の声は、わずかに震えていた。
「もっと、聞かせよ。その『産業革命』とは、一体何なのだ。なぜ、蒸気で鉄が動く。なぜ、それほどの富を生む。英国以外の国々は、どうしている。アメリカとは、どのような国だ。その……全てを、朕に教えよ」
その眼差しは、もはや「天子」のものではなかった。未知の知識を前にした、一人の純粋な「学者」の目だった。
「――御意」
俺は、深く、深く頭を下げた。
計画は、成功だ。
俺は、この国の頂点に立つ男の知性に、火をつけた。この火が、やがて日本全土を照らす、新たな時代の灯火となる。俺が、それを導くのだ。
俺の、帝への秘密の進講は、それから連日、続けられることになった。
世界の構造、近代国家のシステム、産業、金融、そして軍事。俺が持つ未来の知識の全てを、この渇望する知性へと、注ぎ込んでいく。
◇
その頃、遠く離れた江戸の城で、一人の女性が、兄を案じ、筆を執っていたことなど、俺はまだ知る由もなかった。
その頃、江戸城大奥。
公武合体の象徴として、徳川第十四代将軍・家茂に嫁いだ和宮親子内親王は、慣れない武家の暮らしに、心の休まる時もなかった。
煌びやかな調度品、数多の侍女たち。何一つ不自由のない生活。しかし、そこに、かつて京の桂御所で感じたような、安らぎはない。
何より心を悩ませているのは、夫である家茂との、微妙な距離感だった。
家茂は、誠実で心優しい青年だ。和宮のことも、大切に思ってくれているのが伝わってくる。だが、二人の間には、常に「政略結婚」という、見えない壁が存在していた。互いに、どこか踏み込めない。そのもどかしさが、和宮の心を、孤独の影で覆っていた。
「……兄上様……」
文机に向かいながら、和宮は、京にいる敬愛する兄、孝明天皇の顔を思い浮かべる。
攘夷か、開国か。揺れ動く国情の中で、兄がどれほど心を痛めていることか。その心労を思うと、胸が張り裂けそうだった。
『兄上様の、お力になりたい』
その一心で、和宮は筆を走らせる。
京の情勢を案じる言葉、自らの近況を伝える言葉。そして、その行間に、兄の身を心から気遣う、妹としての純粋な思いを込めて。
政治的な意味合いを持つこの手紙が、やがて兄の側近くに仕える一人の男――永倉新八と、自分とを結びつける、最初の糸になることなど、この時の和宮は、知る由もなかった。
密やかな御進講が始まり、帝の知性に火を点す一歩となりました。
世界地図と産業革命の衝撃は、帝の視座を一変させました。
新八の連日の進講は国家改造の礎へ。
そして、江戸では和宮の手紙が静かに運命の糸を紡ぎます。




