第76話:密勅
帝の問いに、新八は未来図より先に岩倉具視の処し方を進言します。
性急な断罪を避け、影響力を削ぐ策を提示する新八。
怒りを理に変えた帝は、その冷静な計略を採用します。
静寂が、帝の書斎を支配していた。
窓の外では、時折、鹿威し(ししおどし)の乾いた音が響く。それ以外には、何も聞こえない。俺は、畳に両手をつき、深く頭を垂れたまま、帝――孝明天皇の言葉を待っていた。
「永倉。其方が思う、これからの日の本の在るべき姿を、朕に聞かせてはくれぬか」
帝から発せられた問い。それは、一介の浪士が受けるには、あまりにも重く、あまりにも巨大な問いだった。俺の脳裏には、未来の知識に基づいた壮大な国家改造計画――徳川幕府を基盤とした中央集権的な近代国家の青写真が、明確に存在している。だが、それを今この場で、全て披瀝することが果たして賢明だろうか。
いや、違う。
俺の直感が、警鐘を鳴らす。帝が今、本当に聞きたいのは、百年先の未来図ではない。目の前に突きつけられた、喫緊の課題。すなわち、自らの命を脅かし、朝廷を蝕む元凶――岩倉具視という「病巣」を、いかにして処断すべきか、その具体的な方策だ。
俺は、ゆっくりと顔を上げた。帝の瞳の奥に、燃えるような怒りと、深い苦悩が渦巻いているのが見て取れた。
「恐れながら、主上。日の本の未来を語る前に、まず、我らが為すべきことがございます。それは、主上の御身辺に巣食う、国賊の排除にございます」
俺は、あえて「国賊」という強い言葉を選んだ。帝の怒りに、寄り添うように。
「左様。岩倉のことであるな」
帝の声は、冬の夜気のように冷たく、鋭い。
「朕を欺き、あまつさえその命を奪わんとした罪、万死に値する。永倉、其方の働きにより、奴の陰謀は白日の下に晒された。今すぐにでも兵を差し向け、捕縛し、朝敵として断罪すべきであろうか」
帝の言葉には、即時処断も辞さないという、断固たる意志が感じられた。だが、俺は静かに首を横に振った。
「主上。お気持ちは痛いほどに拝察いたします。なれど、今、岩倉様を断罪するのは、得策ではございませぬ」
「……何故だ。其方は、奴が国賊であると申したではないか」
訝しげに眉をひそめる帝に対し、俺は官僚として培ったロジックを、一つ一つ丁寧に組み立てていく。
「はっ。岩倉様が国賊であることに、疑いの余地はございません。しかし、彼の方を断罪するには、三つの障壁がございます」
俺は、人差し指を一本立てた。
「一つ。岩倉様は、長きにわたり朝廷に仕え、多くの公卿たちからの信望も厚い。今、性急に彼の方を罰すれば、朝廷内に無用の混乱と亀裂を生むことになりましょう。岩倉派の者たちが、一斉に反発することも考えられます。それは、主上の御威光を損なう結果になりかねませぬ」
次に、二本目の指を立てる。
「二つ。我らが手にした密書は、確かに岩倉様の関与を示す有力な証拠。なれど、彼の方ほどの老獪なお方、必ずや『下の者が勝手にやったこと』と、蜥蜴の尻尾切りの如く逃げ道を用意しておりましょう。決定的な物証がなければ、彼の方を完全に追い詰めることは困難にございます」
そして、三本目の指。
「三つ。これが最も肝要にございますが、今、岩倉様を罰すれば、彼の方は倒幕派の『殉教者』に祭り上げられ、かえって薩摩や長州の連中を勢いづかせる結果となりましょう。奴らは、岩倉様を悲劇の英雄に仕立て上げ、幕府、ひいては朝廷への攻撃の、新たな大義名分として利用するに違いありませぬ」
俺の言葉に、帝は腕を組み、深く目を閉ざされた。その表情は、怒りから、より深い思慮の色へと変わっていた。俺の進言が、単なる感情論ではなく、冷徹な政治的計算に基づいていることを、この聡明な君主は瞬時に理解したのだ。
「……では、永倉。其方は、このまま岩倉を放置せよ、と申すのか。朕の命を狙った逆賊を、みすみす見逃せと?」
「いいえ。放置ではございません。罰するのではなく、その牙を抜き、爪を剥ぎ、力を削ぐのでございます」
俺は、畳に手をつき、さらに身を乗り出した。
「まずは、主上の側から、岩倉様を遠ざけるのです。表向きは、先の騒動の責任を取らせるという名目で、蟄居閉門を命じ、政治の中枢から完全に隔離する。これにより、彼の方が朝廷内で影響力を行使することは能わなくなります」
「うむ……」
「次に、彼の方の力の源泉である、資金と人脈を断ちます。これは、我ら新選組の監察方、山崎烝の最も得意とするところ。彼の方の屋敷に出入りする者、資金を提供する豪商、その全てを洗い出し、内密に、しかし確実に、その繋がりを断ち切ってご覧に入れます」
「……泳がせる、という訳か」
「御意。そして、厳重な監視下に置き、あえて生かしておくことで、彼の方に与する他の不穏分子を炙り出すのです。根を絶やさずして、幹だけを切り倒しても、いずれまた新たな芽が吹きましょう。我らが狙うは、この国に巣食う倒幕という病の、完全なる根治にございます」
俺の口上は、もはや一介の剣客のそれではない。国家の安全保障を担う、官僚そのものの言葉だった。
長い沈黙が、再び部屋を支配した。
やがて、帝は、ふっと息を吐き、閉じていた目を開かれた。その瞳には、先程までの怒りは消え、代わりに、俺という未知の存在に対する、純粋な感嘆と興味の光が宿っていた。
「……見事だ、永倉。其方のその冷静な判断力、そして長期的な視野……。朕の周りには、己の感情や面子ばかりを優先する者しかおらぬ。其方のような男が、なぜ今まで、ただの浪士に埋もれていたのか……」
帝は、ゆっくりと立ち上がると、再び窓辺へと歩み寄った。その背中からは、先程とは違う、どこか晴れやかな、それでいて国の未来を担う者としての、新たな決意のようなものが感じられた。
「岩倉の件、其方の策、採用しよう。詳細は、会津藩主・松平容保と、そして其方とで、内々に詰めよ」
「ははっ!」
俺は、深く頭を下げた。第一関門は、突破した。
だが、帝の言葉は、まだ終わらなかった。
「永倉。朕は、先の其方の働きと、今の進言を聞き、確信したことがある」
帝は、ゆっくりとこちらに振り返った。その眼差しは、どこまでも真剣だった。
「朕は、これまで頑なに攘夷を唱えてきた。異人を打ち払い、神国日本の安寧を守ることこそが、天子たる朕の務めであると信じてきた。だが……本当に、それだけで良いのだろうか」
その声には、深い自問の色が滲んでいた。
「其方のように、遥か先を見通す目を持つ者から見れば、朕の考えは、あまりに狭く、浅はかなものに映るのかもしれぬな。異国の力は、それほどまでに強大なものなのか。このままでは、日の本は、いずれ……」
帝の言葉が途切れる。その胸中をよぎる不安が、俺には痛いほどに伝わってきた。
そうだ。この英明な君主は、気づき始めているのだ。攘夷という理想だけでは、もはやこの国を守れないという現実に。そして、その答えを、俺が持っているのではないかと、期待している。
帝は、俺の目の前まで歩み寄ると、その両の目で、俺の魂を射抜くように、真っ直ぐに見つめた。
「永倉新八に、命ずる」
その声は、厳かで、しかしどこか懇願するような響きを帯びていた。
「朕に、世界のことを教えてはくれぬか」
それは、問いではなかった。
歴史上、前例のない、一人の君主から、一人の臣下への、極めて個人的で、そして国家の運命を左右する、密勅だった。
天皇が、一介の浪士を、己の師としようとしている。ありえない。史実では、絶対にありえない光景が、今、俺の目の前で繰り広げられている。
俺の前世の公僕としての魂が、武者震いした。
徳川幕府の魔改造。その壮大な計画を成し遂げるための、これ以上ない布石。帝を、天皇を、自らの計画の最大の理解者とし、後ろ盾とすること。それが、今、現実になろうとしている。
俺は、込み上げる興奮を必死に抑え込み、最も恭しい礼を以て、その場に平伏した。
「――御意。この永倉新八、身命を賭して、主上に世界の全てを御進講申し上げます」
心臓が、早鐘のように鳴り響いている。
何から話すべきか。まずは、この国の者が抱く、中華思想という名の、古びた世界観を破壊することからだ。そのためには、言葉よりも、一目で理解できるものがいい。
そうだ、あれだ。
俺は、最初の進講のテーマを決めた。
後の世に「天子の家庭教師」と密かに呼ばれることになる俺の、本当の戦いが、この密勅から始まった。俺は、この国の頂点に立つ男の知性を、未来の知識で「武装」させるのだ。薩長でも、幕府でもない。帝こそが、この国の変革の、真の中心となるために。
お読みいただきありがとうございます。
新八の進言は密勅へと結実し、帝は「世界を教えよ」と命じます。
剣ではなく知で国を動かす段へ。
新八が最初に示す世界観の地図と衝撃の講義が、帝の視座を一変させます。




