第75話:新たな布石
帝の暗殺を阻止した新八に、御所から密かな召喚が届きます。
待っていたのは孝明天皇ご本人でした。
一介の浪士である新八は、帝と二人きりという前代未聞の状況で、何を語るのか?
あれから、三日が過ぎた。
俺は、会津藩が用意した隠れ家の一室で、分厚い包帯を巻かれた左腕の鈍い痛みに耐えながら、ただ静かに天井の木目を眺めていた。あの路上での出来事が、まるで遠い昔の夢であったかのように、現実感が薄い。
帝の御前で意識を失った俺は、土方さんたちの必死の処置と、駆けつけた会津藩の藩医の手によって、どうにか一命を取り留めた。傷は深く、全治には数ヶ月を要するだろうと告げられた。だが、肉体の痛みなど、俺の心を占める途方もない緊張感の前では、些細な事に過ぎなかった。
「生涯、忘れぬ」
帝から賜った、あの言葉。
それは、俺たち新選組の運命を、歴史の根底から覆す、神の一声に等しかった。
京の街は、あの事件の噂で持ちきりだという。会津藩の兵や見廻組の者たち、そして多くの民衆が見守る中で、帝自らが血塗れの戦場に降り立ち、一介の浪士に過ぎない俺たちに、直々の言葉をかけられたのだ。その衝撃は、池田屋事件の比ではなかった。
これまで俺たちを「幕府の犬」「壬生の狼」と蔑み、日陰者として扱ってきた者たちも、今や手のひらを返したように、新選組の動向に戦々恐々としているらしい。薩摩や長州の連中が、苦虫を噛み潰したような顔で情報を集めている姿が目に浮かぶようだ。
俺は、歴史に、なかなかに巨大な楔を打ち込んでしまった。
その事実に、武者震いにも似た興奮と、底知れない恐怖が、同時に押し寄せる。未来を知るに過ぎない一公僕であった俺が、この国の形を、自らの手で大きく変えてしまったのだ。その責任の重さに、潰されそうになる。
「永倉様、お加減は如何にございますか」
障子の向こうから、控えめな声がかかった。会津藩から俺の世話役として付けられた、若い武士だった。
「ああ、変わりない。それより、何か動きはあったか?」
「はっ。それが……御所より、内密の使いが参っております」
御所、という言葉に、俺の心臓が大きく跳ねた。
来たか。俺は、ゆっくりと身を起こした。傷が走り、思わず顔をしかめる。
「……分かった。お通ししろ」
すぐに、一人の公家が、音もなく部屋に入ってきた。年の頃は四十代半ばだろうか。派手さはないが、上質な衣をまとった、いかにも育ちの良さそうな男だ。だが、その顔には、隠しようもない緊張と、俺に対する値踏みをするような鋭い光が宿っていた。
「お初にお目にかかる。帝の側近くに仕える者でござる。永倉新八殿、で相違ないかな」
「はっ。……して、ご用件は」
俺は、あえて単刀直入に切り出した。回りくどい宮中の作法に付き合っている時間はない。男は、俺の無遠慮な物言いに一瞬眉をひそめたが、すぐに気を取り直したように、懐から一通の書状を取り出した。
「主上より、直々の思し召しである。誰にも気取られぬよう、これより密かに参内されたし、とのこと」
書状には、菊の御紋が記されていた。紛れもなく、帝からの召し出し命令だ。
俺の背筋を、冷たい汗が伝う。
先の路上での一件は、あくまで緊急事態における例外的なものだ。だが、今回は違う。正式な、そして極秘の召喚。一介の浪士が、帝に単独で拝謁するなど、前代未聞。歴史上、ありえないことだ。
もし、これが罠だとしたら?
俺を危険視する何者かが、帝の名を騙って俺を誘き出し、暗殺しようとしている可能性もゼロではない。だが、俺の前世で培った危機管理能力が、これは本物だと告げていた。あの帝の眼差しは、本物だった。あの場で終わるような、薄っぺらい興味ではない。帝は、俺という人間に、そして俺が持つ情報に、本質的な価値を見出されたのだ。
「……謹んで、お受けいたします」
俺は、深く頭を下げた。
◇
会津藩が用意した粗末な駕籠に揺られ、俺は厳重な警備網を幾重にも潜り抜け、御所の奥深くへと導かれた。案内されたのは、公式な謁見の間ではない。書物がうず高く積まれた、帝個人の書斎とでも言うべき部屋だった。そこには、狩衣を召した、幾分くつろいだ姿の孝明天皇が、静かに座して俺を待っていた。
人払いがされている。この広大な空間に、帝と俺、二人だけ。
息が詰まるような沈黙。俺は、その場に平伏し、帝の言葉を待った。
「面を上げよ、永倉新八」
あの時と同じ、凛とした声が響く。
俺は、ゆっくりと顔を上げた。帝は、値踏みするような、それでいてどこか親しみのこもった不思議な眼差しで、俺を見据えていた。
「傷の具合はどうか」
「はっ。御身のお気遣い、痛み入ります。この通り、命に別状はございませぬ」
「そうか。大儀であった」
短い言葉。だが、その一言一言に、万鈞の重みがあった。
帝は、すっと目を細め、本題に入った。
「さて、永倉。先の襲撃、その詳細を、改めて其方の口から聞かせよ。そして……その黒幕についても、だ」
俺は、ゴクリと唾を飲み込んだ。
ついに、核心に触れる時が来た。俺は、懐から例の密書――岩倉具視の陰謀が記された証拠――を取り出し、恭しく帝の前に差し出した。
「全ては、この書状にございます。これは、長州藩の過激派浪士が、公家の岩倉具視様と交わした密約書。奴らは、岩倉様の手引きによって、主上を弑し奉り、偽の帝を立て、その威光を以て幕府を討つ計画でございました」
俺は、前世で培ったプレゼンテーション能力を、この一瞬に全て注ぎ込んだ。単なる事実の羅列ではない。事件の背景、敵の組織構造、金の流れ、そして最終的な目的。それらを、冷静に、論理的に、そして何よりも分かりやすく説明していく。
俺の話を聞くうちに、帝の穏やかだった表情が、みるみるうちに険しいものへと変わっていく。そして、岩倉具視の名を口にした瞬間、帝の瞳に、燃えるような怒りの炎が宿ったのを、俺は見逃さなかった。
「……岩倉が、だと?」
地を這うような、低い声だった。
帝にとって、岩倉は長年にわたり、攘夷という志を同じくする、信頼の置ける公家の一人であったはずだ。その裏切りが、どれほどの衝撃であるか、想像に難くない。
「にわかには信じられぬことかと存じます。ですが、これが厳然たる事実。岩倉様は、ただの倒幕派ではございませぬ。己の野心のために、帝すらも利用し、この国を私しようと企む、真の国賊にございます」
俺は、敢えて強い言葉を使った。生半可な覚悟では、この国の頂点に立つ男の心は動かせない。
帝は、しばらくの間、目を閉じて黙り込んでいた。その表情からは、怒り、悲しみ、そして深い苦悩が読み取れた。やがて、ゆっくりと目を開くと、その瞳は、驚くほど静かな光を取り戻していた。
「……分かった。其方の言うこと、信じよう。其方のその目、その言葉に、偽りはない」
そして、帝は、俺の魂の奥底を見透かすような、真っ直ぐな視線を向けた。
「永倉。其方は、ただの剣客ではないな。その分析、その洞察力、そこらの公卿や幕臣にも劣らぬ。いや、それ以上のものすら感じる。一体、何者なのだ?」
核心を突く質問に、俺の心臓が凍りついた。
まさか、百年後の未来から来た官僚です、などと口が裂けても言えるはずがない。
俺は、必死に頭を回転させ、最も無難で、それでいて説得力のある答えを探した。
「……恐れながら。私は、ただの一剣客に過ぎませぬ。ですが、この国を憂い、主上を敬う心は、誰にも負けぬと自負しております。その一心で、独学ながら、古今東西の書物を読み漁り、世の情勢を学んで参りました」
半分は本当で、半分は嘘だ。だが、その言葉に込めた「国を憂う」という思いだけは、紛れもない本心だった。
帝は、俺の答えに、満足したように深く頷かれた。
「そうか。……そうか。ならば、永倉新八。其方に、朕から問いがある」
帝は、すっと立ち上がり、書斎の窓辺へと歩み寄った。その背中からは、帝という記号ではなく、一人の人間としての、深い苦悩が滲み出ているようだった。
「異国の黒船が我が国の平和を脅かし、内では尊王だ佐幕だと、同胞同士が血で血を洗う争いを繰り広げている。朕は、この国の行く末を、夜も眠れぬほどに案じているのだ」
帝は、ゆっくりとこちらに振り返った。その瞳には、神聖な、そして切実な光が宿っていた。
「永倉。其方が思う、これからの日の本の在るべき姿を、朕に聞かせてはくれぬか」
それは、問いではなかった。
命令だった。
この国の最高権威者からの、絶対的な命令。
そして、それは、俺がこの時代に来てから、ずっと心の奥底で描き続けてきた計画――徳川幕府を史上最強の近代国家に魔改造する――その壮大な構想を、初めて口の端に乗せる、最高の舞台だった。
俺は、一度固く目を閉じ、呼吸を整えた。そして、この国の未来をその双肩に担う覚悟を決め、静かに口を開いた。
お読みいただき、ありがとうございます。
帝との謁見で、ついに黒幕・岩倉具視の陰謀を暴いた新八。
その類まれなる洞察力は帝に認められ、国の未来をどう描くのか、その壮大な構想を問われます。




