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第74話:帝の信頼

死闘の末、帝の暗殺を阻止した新八たち。

血と硝煙の匂いが立ち込める戦場に、ありえない人物、孝明天皇ご本人が姿を現します。

歴史には記されていない帝との邂逅に、新八は激しく動揺します。

 血と脂、そして鉄錆の匂いが混じり合ったむせ返るような空気が、京の路上に澱んでいた。先程までの怒号と剣戟の嵐が嘘のように、今はただ、負傷者たちの苦悶の呻きと、荒い呼吸だけが聞こえる。俺は、斬り伏せた刺客の骸が転がる道の真ん中で、左腕から止めどなく流れる血に霞む視界を、必死に前へと向けていた。


 その、静寂を破ったのは、荘厳な鳳輦の扉が開く、軋んだ音だった。

 誰もが息を呑む。まさか、というありえない予感が、その場にいた全ての者の背筋を凍りつかせた。そして、その予感は、最悪の、いや、最高の形で現実のものとなる。


 衣冠束帯をまとった一人の人物が、ゆっくりと鳳輦から降り立ち、血と死の匂いが満ちるこの場所へと、その足を踏み入れたのだ。


 万世一系の象徴。この国の、絶対的な権威の中心。

 主上、孝明天皇、ご本人だった。


 時が、完全に止まった。

 俺の脳が、目の前の光景を理解することを拒絶する。歴史上、ありえない。あってはならない。帝が、自ら血で汚れた戦場の中心に立つなど。俺の知る、どの史実、どの文献にも、このような記述は一片たりとも存在しなかった。


(なぜ、帝ご本人が……こんな場所に……)


 全身の血液が、急速に温度を失っていくのがわかった。

 不敬だ。無礼千万。血と死の穢れを、天顔に晒している。国家公務員として百年後の世で叩き込まれた序列の意識と、この時代で武士として芽生えた忠義の心が、脳内でけたたましく警鐘を乱れ打つ。平伏せねば。この場に、今すぐ、ひれ伏さねばならない。それが臣下として、いや、この国の民としての絶対的な義務だ。


 だが、俺の身体は、主の意思に全く従わなかった。

 斬り裂かれた左腕の傷は深く、骨にまで達しているかのような激痛が、思考を容赦なく焼き切る。そして、限界を超えた失血が、俺の身体から全ての力を奪い去っていた。膝をつこうとするが、ぐらりと視界が大きく傾ぎ、足がまるで自分の物ではないかのように震える。意識が明滅し、世界の輪郭が白と黒の激しいノイズに包まれ始めた。


(まずい、倒れ――)


 俺の身体が、抗いようもなく傾ぎかけた、その刹那。

 凛として、それでいてどこか父性的な温かみを帯びた声が、俺の頭上から静かに降り注いだ。


「面を上げよ」


 その声は、ただの音の連なりではなかった。張り詰めた場の空気を震わせ、俺の朦朧とし始めた意識の根を掴み、強引に現世へと引き戻す、不思議な力が宿っていた。俺は、まるで糸で引かれる操り人形のように、ゆっくりと、おそるおそる顔を上げた。


 そこにあったのは、穏やかな瞳だった。

 だが、その静かな水面の奥には、底知れない深淵が広がっている。全てを見通すかのような、深く、どこまでも澄んだ光。それは、ただ玉座に座して報告を聞くだけの為政者の目ではない。自らの足で立ち、自らの目で現実を確かめ、そして自らの言葉で語りかける、真の君主だけが持ちうる眼差しだった。


 帝は、俺の背後に無惨に転がる刺客たちの骸や、凄惨な戦場の跡には一切目もくれず、ただじっと、俺の瞳の奥を、その魂の在り処を探るように見据えている。


「其方の名は何と申す」


 再び、帝の言葉が発せられる。静かだが、有無を言わせぬ響きがあった。

 俺は、乾ききった喉を懸命に動かし、声にならない声で喘いだ。空気が漏れるだけで、言葉にならない。もう一度、腹の底から、この身体に残された最後の気力を振り絞る。


「はっ……。壬生浪士組、新選組二番隊組長……永倉、新八と、申します」


 それが、俺の言える全てだった。

 永倉新八。それは、この時代を生きる俺の名だ。だがその魂は、百年後の未来から来た、一人の官僚。その途方もない事実が、帝の神聖な眼差しの前で、決して許されざる大罪であるかのように感じられた。俺は、この国の歴史を、自らの知識と判断で歪めてしまったのだ。その裁きを、今、この場で受けるのかもしれない。俺の胸中を、官僚としての計算と、一人の人間としての畏怖が、嵐のように駆け巡る。


 俺の葛藤すらも見抜いているかのように、帝は静かに頷かれた。


「永倉、新八……」


 帝は、俺の名をゆっくりと反芻する。まるで、その響きを確かめるかのように。そして、その視線をわずかに動かし、俺が血塗れの手で、最後の気力で握りしめている密書――岩倉具視の売国の陰謀が記された動かぬ証拠――を捉えた。


「其方の働き、しかと見届けた。その先見の明なくば、朕がどうなっていたか。そして、この国が、どうなっていたか、計り知れぬ」


 帝の言葉に、俺は息を呑んだ。隣に立つ土方さんが、鬼の形相のまま、完全に硬直しているのが気配でわかる。沖田や斎藤くんも、おそらく同じだろう。会津藩の兵たちや、遠巻きに事態を窺っていた見廻組の者たちも、この歴史的、いや、神話的とさえ言える瞬間を前に、ただ立ち尽くすしかない。


 帝は、続けた。その声は、もはや俺一人に向けられたものではなかった。この場にいる全ての者たちへ、そして、この国の未来へ向けて宣言するかのように、力強く、明瞭に響き渡った。


「忠義、誠に見事であった。永倉新八。そして、其方が率いる新選組。その働き、生涯忘れぬ」


 生涯、忘れぬ。


 その一言が、天からの雷鳴のように、俺の魂を根こそぎ撃ち抜いた。

 それは、単なる労いの言葉などという生易しいものではない。

 一介の剣客集団、幕府の犬、ただの人斬り集団と蔑まれてきた俺たち新選組が、この国の最高権威者である帝から、直接的な信頼と、その存在意義そのものを、公に認められた瞬間だった。


 歴史が、地響きのような音を立てて、根底からひっくり返る。

 俺の知る「新選組」は、常に日陰者だった。幕府の駒として都合よく使われ、鳥羽伏見の戦いでは「賊軍」の汚名を一方的に着せられ、時代の大きな奔流の中で、誰にも顧みられることなく消えていく、悲劇の運命だったはずだ。


 だが、今、目の前で起きていることはなんだ?

 帝自らが、俺たちの死に物狂いの戦いを「忠義」と認め、「生涯忘れぬ」とまで言明されたのだ。


(……勝った)


 俺の脳裏で、未来から来た官僚としての冷静な思考回路が、火花を散らしながら再起動する。

 これは、政治的な勝利だ。それも、今後のあらゆる局面を覆しうる、絶大な威力を秘めた、完全無欠の勝利だ。

 帝の「お墨付き」。これ以上の権威は、この国には存在しない。これさえあれば、これから薩長がどれだけ大義名分を掲げ、錦の御旗を偽造しようとも、俺たちは「帝の盾」として、堂々とそれに対峙できる。岩倉具視のような朝廷内の敵でさえ、もはや俺たちを単なる「壬生の狼」として蔑み、切り捨てることはできなくなるだろう。


 徳川幕府を魔改造し、内戦を回避し、この国を列強と渡り合える近代国家へと導く。その途方もなく壮大な計画にとって、これほど強力な追い風はありえない。俺は、歴史という巨大な歯車に、決定的な楔を打ち込むことに成功したのだ。


 だが、その勝利の美酒に酔いしれる間もなく、凄まじいほどの重圧が、俺の両肩にのしかかってくる。

 帝の信頼。それは、未来永劫、決して裏切ることの許されない、絶対の契約だ。俺は、この信頼に応え続けなければならない。新選組を、本当にこの国を支える力へと昇華させなければならない。その責任の重さに、眩暈がした。


 様々な思いが、灼熱の奔流となって俺の頭を駆け巡る。

 その思考の渦と、限界を超えた肉体の悲鳴に耐えきれなくなったかのように、俺の身体は、ついにその機能を停止させた。


「……っ!」


 視界が、急速に暗転していく。まるで、古い映写機のフィルムが焼き切れるように。

 左腕の傷口から、最後の生命力がごっそりと流れ出していくのがわかった。

 遠のく意識の中で、俺は土方さんの、普段の冷静さからは想像もつかない、焦燥に駆られた声を聞いた気がした。


「新八! しっかりしろ、新八!」


 ああ、土方さん。聞こえていますよ。

 俺は、やりました。

 これで、あんたや近藤さん、沖田、斎藤……俺の大切な仲間たちが、ただの「賊」として、無念の内に死んでいく未来は、完全に消滅したはずです。


 俺たちは、帝に認められた、真の武士になったんですよ。


 その確かな安堵感を最後に、俺の意識は、深い、深い闇の中へと沈んでいった。

 帝から賜った「信頼」という、あまりにも重く、そして何よりも輝かしい光を、その魂に固く抱きしめながら。


お読みいただき、ありがとうございます。

帝から直接かけられる言葉は、これまで日陰者であった新選組の存在意義を根底から覆すものでした。

帝から「生涯忘れぬ」という、この上ない信頼の言葉を賜った新八。

それは、新選組が「賊軍」となる未来を覆し、日本の歴史を大きく変えるほどの力を持つお墨付きです。

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