第73話:忠義の刃
死闘の末、新八たちは帝の暗殺を阻止しました。
激しい戦いの傷跡が残る中、新八は襲撃の黒幕が公家の重鎮、岩倉具視であることを示す決定的な証拠を掴みます。
「ハァッ、ハァッ、ハァッ……」
荒い呼吸が、血と鉄錆の匂いが充満する空気を震わせる。俺の全身は、斬り結んだ刺客たちの返り血と、自らが流した血でぐっしょりと濡れていた。左腕に受けた斬撃が、骨に響くような鈍い痛みを絶え間なく送り続けてくる。
目の前には、俺が打ち倒した刺客たちの骸が転がり、その向こうには鳳輦が静かに鎮座している。御簾の奥から注がれる視線は、先ほどと変わらず、ただじっと俺の一挙手一投足を見つめているかのようだ。
(終わった……のか?)
周囲を見渡せば、俺が指揮した二番隊の隊士たちが、数名の負傷者を出しながらも、鳳輦の周囲を固めている。そして、遠くで響いていた怒号と刃鳴りは、徐々にその数を減らし、やがて潮が引くように静けさが戻りつつあった。どうやら、土方さんや沖田たちが率いる本隊も、大勢を決したらしい。
俺たちの勝利だ。歴史上、起こるはずのなかった天皇暗殺計画を、俺たちは、阻止してみせたのだ。
安堵からか、急に全身の力が抜け落ちそうになる。しかし、ここで倒れるわけにはいかない。前世で叩き込まれた危機管理の鉄則が、まだ仕事は終わっていないと警鐘を鳴らす。
「……生き残りはいるか!」
俺は、痛む腕を庇いながら声を張り上げた。隊士の一人が、俺が最後に斬り伏せた男たちの一人を指差す。
「隊長! こいつ、まだ息があります!」
見れば、刺客の一人が呻き声を上げながら、必死に身を起こそうともがいていた。俺が体勢を崩し、峰打ちで昏倒させた男だ。
(よし……!)
俺はふらつく足でその男に歩み寄ると、抵抗する間も与えずその上に跨り、刀の柄で鳩尾を強かに打ち据えた。
「ぐっ……!」
短い悲鳴を上げて、男は再び意識を失う。
「縄を! こいつを生きたまま会津藩邸に引き渡す! 何があっても逃がすな!」
俺の命令に、隊士たちが素早く動き出す。この男が、今回の襲撃が誰の差し金であったかを自白する、重要な証人となる。
だが、それだけでは足りない。自白は覆される可能性がある。必要なのは、動かぬ物証だ。俺は、意識を失った刺客の懐に、躊躇なく手を入れた。生々しい血の温もりが、指先に不快にまとわりつく。
(どこだ……どこにある……)
俺の予測が正しければ、これほどの決死隊を動かすからには、必ず元凶との繋がりを示す「何か」があるはずだ。それは金銭の出所を示すものか、あるいは直接的な指令書か。
指先が、硬い和紙の束に触れた。引きずり出すと、それは油紙で厳重に包まれている。丁寧に封を解くと、中から現れたのは一枚の密書だった。
そこに記された流麗な筆跡と、末尾に押された特徴的な花押を見た瞬間、俺は全身の血が逆流するような感覚に襲われた。
(……あったぞ)
間違いない。この花押は、俺が池田屋で押収した機密文書にあったものと寸分違わない。公家の重鎮にして、この未曾有の凶行を裏で操る黒幕。
「岩倉……具視……!」
俺は、絞り出すような声でその名を呟いた。これで、奴の罪は確定した。この密書こそが、朝廷を、いや、この国を根底から揺るがす動かぬ証拠となる。
「新八!」
その時、聞き慣れた鋭い声が俺の名を呼んだ。土方さんだ。鬼の副長は、刀身に付着した血を荒々しく振り払いながら、沖田や斎藤を伴ってこちらへ向かってくる。
「無事か! そっちの状況は!」
「土方さん……! 見てください、これを」
俺は密書を掲げて見せた。土方さんはそれを受け取ると、険しい表情で目を通し、やがて「……やはりな」と低く唸った。彼の隣で、いつもは飄々としている沖田も、顔から表情を消して密書に見入っている。
「敵は、ほぼ鎮圧しました。残党が市中に逃げ込みましたが、山崎に追わせています」
斎藤が、淡々と戦果を報告する。彼の冷静な声が、この異常な事態の中で妙な安心感を俺に与えた。
「死傷者は?」
「我らの犠牲は死者五名、負傷者二十名。会津藩士、見廻組も同程度の損害かと。刺客側は、死者およそ四十。捕縛した者は十名ほどです」
「……そうか」
土方さんは、犠牲者の数に一瞬だけ苦渋の表情を浮かべたが、すぐに顔を引き締めた。
「よくやった、新八。お前の予測がなければ、今頃は……」
そこまで言って、土方さんは言葉を切り、鳳輦へと視線を向けた。俺たち全員が、改めてその存在の重さを認識し、しばし沈黙する。
この作戦は、新選組の独断ではない。会津藩主・松平容保公の特命によって実行された、帝の極秘警護任務だ。俺たちは、その責務を果たした。
だが、その代償は決して小さくはなかった。京の都大路は、今や凄惨な戦場跡と化している。この光景を、鳳輦の主はどうご覧になっているのだろうか。
その時だった。
「……御簾が」
誰かが、かすれた声で呟いた。
見ると、あれほど固く閉ざされていた鳳輦の御簾が、内側から静かに持ち上げられたのだ。
場の空気が、一瞬にして凍りつく。
会津藩の警護兵たちが、慌てて鳳輦に駆け寄ろうとする。
「お、お待ちください、帝! お出になられてはなりませぬ!」
だが、その制止を振り切るように、一人の人物が鳳輦から静かにその身を現した。
豪華絢爛な衣冠束帯。それは、この国の最高権威者にのみ許される姿。
「……帝」
主上(孝明天皇)、その人であった。
帝が、公衆の面前、それも血と死の匂いが立ち込める路上に、自らの足で降り立つ。ありえない光景だった。それは、俺が知る歴史の、どのページにも記されていなかった出来事だ。
周囲の誰もが、何が起きているのか理解できず、ただ呆然と立ち尽くしている。俺も、土方さんも、沖田も、例外ではなかった。
帝は、周囲の喧騒や混乱など意にも介さぬ様子で、ゆっくりと辺りを見回した。その視線が、転がる刺客たちの骸を捉え、次に血を流して倒れる新選組隊士や会津藩士の姿を映し、そして――最後に、血と埃にまみれて立ち尽くす俺の上で、ぴたりと止まった。
時が、止まった。
帝が、俺に向かって、一歩、また一歩と、静かに歩み寄ってくる。
その足取りに、迷いや恐れの色は一切ない。
「……っ!」
俺は、はっと我に返った。
帝に対して、血に汚れた姿で立ち尽くすなど、不敬にもほどがある。俺は深手を負った左腕の激痛を奥歯で噛み殺し、その場に片膝をつこうとした。
だが、体が言うことを聞かない。極度の緊張と、失血による目眩が、俺の意識をぐらりと揺さぶる。
(まずい、倒れ……)
世界が暗転しかけた、その瞬間。
帝は、俺の目の前で足を止めた。そして、凛として、それでいてどこか温かみのある声が、俺の頭上から静かに降り注いだ。
その声は、これから先の俺と新選組の、そして日本の運命を、大きく変えることになる響きを持っていた。
お読みいただきありがとうございます。
多くの犠牲を払いながらも、帝を守り抜いた新八と新選組。
その血に濡れた新八の眼前に、守るべき帝自らが姿を現しました。
帝が新八にかける言葉とは。
その一言が、彼らの運命を、そして日本の未来を大きく左右します。




