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第70話:運命の御親拝

ついに帝の御参拝当日を迎え、新八は固唾を飲んでその時を待ちます。

自ら立案した警護作戦が、この国の命運を握っているという恐ろしいほどの重圧。

歴史を知るがゆえに、襲撃が予測通りに始まることに身がすくみます。

京の静寂を切り裂き、ついに運命の火蓋が切られます。

 夜が明けた京の空は、まるで磨き上げられた瑠璃のように、一点の曇りもない蒼穹が広がっていた。昨日までの、息を詰めるような重苦しい静寂が嘘のように、東山から昇る朝陽は街を黄金色に染め上げ、鴨川のせせらぎはきらきらと光を弾いている。大通りでは、店の戸を開ける音、天秤棒を担ぐ威勢のいい掛け声、そして子供たちのはしゃぐ声が混じり合い、いつもの朝の活気が満ち溢れていた。


 だが、このありふれた日常の風景の裏側で、この国の歴史そのものを根底から揺るがす巨大な奔流が、まさにその向きを変えようとしていることを、行き交う町人たちは誰も知らない。


 俺は、藍染の着古した着流しという、どこにでもいるありふれた町人姿に身をやつし、参内行列が通過する大通り沿いの雑踏に、気配を殺して紛れ込んでいた。手には、何の変哲もない、使い古された煙管。しかし、その羅宇らうに仕込まれた火皿の底には、いざという時に仲間たちへ合図を送るための、特殊な発煙筒が隠されている。ひとたびこれを焚けば、色付きの煙が立ち上り、作戦開始の合図となる手筈だ。


(――来る。間違いなく、今日、ここで)


 現代日本の記憶を持つ俺には、この穏やかすぎる朝の光景が、巨大な台風が上陸する直前の、不気味なほどの嵐の前の静けさにしか感じられなかった。胃の奥が、鉛を流し込まれたように重い。このプレッシャーは、官僚時代に経験した国家予算を左右するプロジェクトの比ではなかった。あの頃は、失敗しても誰かのクビが飛ぶだけだ。だが、今は違う。俺の判断一つで、この国の最高権威である帝の命、ひいては日本の未来そのものが、文字通り紙一重の差で変わってしまう。


 俺の立てた作戦計画に従い、新選組の隊士たちは、それぞれの持ち場についているはずだ。表向きはいつも通りの市内巡察を装う一団。あるいは俺と同じように、物売りや職人、ただの通行人に扮して、群衆の中に溶け込んでいる者たち。


 おそらく今頃、沖田は子供のような無邪気さの裏に隠した剣士の顔で、今か今かとその時を待ちわびているだろう。斎藤は、路地の物陰にでも身を潜め、完全に景色の一部と化しているに違いない。原田は、得意の槍を仕込んだ長柄の箒でも持って、掃除人のふりをしているかもしれない。そして、屯所の指揮所にいるはずの土方さんは、鬼の形相で盤面全体を睨みつけ、俺からの合図を待っているはずだ。俺たちは、巨大な蜘蛛の巣のように、この京の街に網を張った。あとは、獲物がかかるのを待つだけだ。


 不意に、遠くで時を告げる鐘の音が響いた。それを合図とするかのように、御所の南側、建礼門が、地響きにも似た重々しい音を立てて、ゆっくりと開かれていく。


 最初に現れたのは、先導役を務める公卿たちの乗る牛車だった。きらびやかな装飾が施された車体が、牛の歩みに合わせて厳かに進む。その後ろには、色とりどりの雅な装束に身を包んだ百官が、粛々と列をなして続く。彼らの顔に表情はない。ただ、古来より続く儀式の一部として、自らの役割を全うしているかのようだった。


 そして、その中心。幾重にも連なる屈強な警護の武士たちに固く守られた、豪奢な鳳輦ほうれんが、ついにその姿を現した。金の鳳凰が屋根で輝き、四方には御簾が下ろされている。あの中に、この国の最高権威、孝明天皇がおわします。


 俺は、込み上げてくる胃の圧迫感を、深く、静かな呼吸で無理やり腹の底に押し殺した。鳳輦が門をくぐり、行列が完全に大通りへと姿を現すと、それまでざわついていた沿道の民衆が、まるで潮が引くように一斉に静まり返り、ぴたりと地面にひれ伏した。頭を上げようとする者は一人もいない。絶対的な権威を前にした、純粋な畏敬の念が、その場の空気を支配していた。


 その完全な静寂が、逆に俺の聴覚を、病的なまでに鋭敏にさせた。


 風が土塀の角を撫でていく微かな音。遠くで鳴く鳥の声。行列の衣擦れの音。誰かが緊張に耐えかねて、乾いた咳を一つ漏らす音。そして、俺自身の、肋骨の内側で早鐘のように打ち鳴らされる心臓の鼓動。その全てが、やけにクリアに耳に届いた。


 俺の視線は、ひれ伏す群衆の中に潜む、僅かな不審な動き、沿道に立ち並ぶ建物の屋根、物陰、格子窓、あらゆる可能性を、休むことなくスキャンし続けていた。危機管理の要諦は、常に最悪の事態を想定し、その兆候を決して見逃さないことだ。敵は必ず、こちらの想定の隙を突いてくる。


(敵の狙いは、鳳輦そのものへの猪突猛進ではない。そんな愚策は採るまい。連中の目的は、あくまで帝の身柄。ならば、まずは混乱を引き起こし、警護の列を分断する。その上で、手薄になった一点を、精鋭部隊で突破するはずだ)


 俺の脳内では、昨日までに土方さんと共に練り上げた、何百通りもの襲撃パターンが、高速で再生されては消えていく。陽動の規模は?主攻の人数と練度は?敵の指揮官はどこから戦況を見ている?そして、俺の知らない不確定要素は?思考が、熱を帯びて加速していく。


 行列は、まるで時が止まったかのように、ゆっくりと、しかし着実に進んでいく。一つ目の角を曲がり、二つ目の辻を越える。緊張で、口の中がカラカラに乾いていた。煙管を握る掌が、じっとりと汗で湿る。


 そして、ついに。


 行列が、俺が襲撃地点として最も可能性が高いと予測した、三条通の最も道幅が狭まる地点に差し掛かった。両側を高い土塀に挟まれた、見通しの悪い一本道。襲撃側にとっては、奇襲を仕掛け、こちらの反撃を分断し、そして離脱するのに絶好の場所だ。まさに、天然のキルゾーン。


(――ここだ!)


 俺は煙管を握る手に、ぐっと力を込めた。全身の神経が、まるで一本の鋭い針のように尖っていく。


 その、瞬間だった。


 空気が、まるで張り詰めすぎた琴の弦のように、びん、と震えた。時間が、まるで粘性を帯びたかのように、ねっとりと引き伸ばされるような奇妙な感覚に陥る。


 最初に動いたのは、音だった。


「ギャアアアアアッ!」


 静寂を切り裂く、鼓膜を突き破るような絶叫。


 沿道の群衆の中から、突如として悲鳴が上がった。見れば、数人の町人が、背中から血を流してうつ伏せに倒れている。それをきっかけに、ひれ伏していた民衆が、堰を切ったようにパニックに陥り、阿鼻叫喚の地獄絵図を描きながら、我先にと逃げ惑い始めた。典型的な陽動だ。警護の武士たちの意識が、一瞬、そちらに引きつけられる。


 だが、俺の目は、その素人目にも分かりやすい混乱の中心ではない、別の場所を、寸分違わず捉えていた。


 行列の進行方向、左手の土塀の上。

 そして、右手にある旅籠の二階の、固く閉ざされていたはずの窓。


 そこから、まるで地面から湧き出たかのように、黒装束に身を包んだ男たちが、次々と姿を現した。その数、ざっと二十。顔は黒い布で覆われ、覗く眼光だけが、殺意にぎらついている。手には、鞘から抜き放たれた、朝陽を鈍く反射する刀。


 彼らは一切の躊躇なく、塀や屋根から飛び降りると、民衆の混乱を盾にするようにして警護の列の隙間を突き、ただ一点、鳳輦へと向かって、獣のような速さで殺到した。


 全てが、俺の予測通りだった。


 だが、予測通りであることが、これほどまでに恐ろしいと感じたことは、生まれて初めてだった。


「来たか……!」


 俺は奥歯を、砕けんばかりに強く噛み締めた。


「曲者だ! 帝をお守りしろ!」


 警護の武士たちが迎撃しようと太刀を抜くが、黒装束の男たちの動きは、明らかに常人のそれではない。公家の警護という、儀礼的な役割に慣れた武士たちとは、練度が違いすぎた。それは、幾度となく修羅場を潜り抜けてきた者だけが持つ、一切の無駄を削ぎ落とした、殺人のための動きだった。数人の警護が、一合も打ち合えぬまま、まるで人形のように手足を斬り飛ばされ、鮮血を迸らせて崩れ落ちていく。


 鳳輦が、担ぎ手たちの悲鳴と共に、嫌な軋みを上げて停止する。


 間に合え。間に合ってくれ……!


 心の中で、血を吐くように叫んだ、その時。


 一人の刺客が、ついに鳳輦のすぐ側まで到達し、その刃を、御簾ごと中の帝を貫かんと、高く振り上げた。


 間に合うか――。


 刹那。


 俺は、ありったけの声を、肺の底から絞り出して、絶叫した。


「敵襲ーーッ! 帝をお守りしろッ!!」


 その声が、この歴史的瞬間を切り裂く、俺たちの反撃の狼煙だった。


お読みいただきありがとうございます。新八の立てた作戦通り、ついに帝を狙う刺客たちが姿を現しました。

張り詰めた空気の中、彼の叫びが反撃の狼煙となります。

各所に潜む仲間たちと共に、この状況を覆すことはできるのか?

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