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第69話:決行前夜

帝の命運を左右する極秘警護作戦の決行を明日に控え、参謀として作戦を立案した新八は、その重圧に押し潰されそうになっていました。

自らの分析と予測が、仲間たちを死地に追いやるかもしれないという恐怖。

歴史の知識を持つがゆえの葛藤に、新八は一人苦悩します。

 しん、と静まり返った壬生屯所の夜は、墨を流したように深く、そして冷たかった。虫の音すら潜めるほどの静寂の中、俺は一人、道場の板間に立っていた。手にした木刀の、ひやりとした感触だけが現実との唯一の繋がりであるかのように感じられる。


 月の光が、開け放たれた戸口から白く、長い帯となって差し込んでいる。その光に照らされた俺の影が、一挙手一投足に合わせ、まるで意思を持ったかのように揺らめいた。


 ヒュッ、と空を切る音。


 一歩踏み込み、木刀を振り下ろす。重心移動の最適化、テコの原理の応用、力のベクトルの誘導。かつて、分厚い参考書と格闘しながら培った物理学と運動力学の知識。それが今、幕末の京都で、人を斬るための技術として俺の血肉となっている。皮肉なものだ。


 だが、今夜の素振りは、剣の腕を磨くためではなかった。むしろ、祈りに近い。いや、もっと切実な、精神を摩耗させる重圧から逃れるための、ただ一つの逃避行動だった。


 明日。


 その二文字を思うだけで、胃の腑が鉛を流し込まれたように重くなる。


 明日、俺が立てた作戦が実行される。帝、すなわち孝明天皇ご自身の命運を左右する、前代未聞の極秘警護作戦。俺の分析、俺の予測、俺の描いたシナリオに、新選組の、いや、この日本の未来が懸かっている。


(――官僚だった俺が、帝の命運を左右する作戦を指揮している)


 改めてその事実を反芻すると、乾いた笑いがこみ上げてきそうになる。過労死したしがない国家公務員の魂が、幕末の剣客の体に宿り、歴史知識を武器に足掻いてきた。仲間を救いたい。理不尽な死の未来を変えたい。その一心で、俺は「詳説日本史研究」の記憶をフル活用し、参謀として立ち回ってきた。


 池田屋での勝利も、その延長線上にあった。だが、今回は違う。次元が違う。


 相手は、公家の頂点に立つ岩倉具視という黒幕。その手足となるのは、素性も知れぬ手練れの暗殺者集団。そして、俺たちが守るべき対象は、この国の最高権威である帝ご自身。


 失敗は、すなわち帝の崩御を意味する。そうなれば、岩倉の思う壺だ。倒幕の大義名分を薩長に与え、日本は史実以上の速さで内乱の渦に飲み込まれるだろう。俺が夢見る、徳川幕府を中心とした平和的な近代国家への道は、完全に閉ざされる。


(俺の分析は、本当に正しいのか?)


 脳裏に、昨日幹部たちの前で広げた京の地図が浮かぶ。襲撃予想地点、敵の兵力、陽動と主攻の可能性、連携、情報伝達、そして負傷者の救護。現代の危機管理理論に基づき、考えうる限りのシミュレーションを重ねた。沖田の突破力、斎藤の隠密性、原田の突進力。仲間たちの能力を最大限に引き出すための人員配置も行った。


 我ながら、完璧に近い作戦だと自負している。だが、戦場は常に不確定要素の塊だ。予測不能なアクシデントが一つ起これば、この緻密に組み上げたガラス細工のような作戦は、脆くも崩れ去るかもしれない。


 その時、死ぬのは誰だ?


 一番組を率いて敵の主攻に斬り込む沖田か。敵の指揮官を狙い、闇に紛れる斎藤か。それとも、陽動部隊を叩き潰す役割を担う原田か。


 そして、彼らをその死地に送り込んだのは、この俺だ。


「……っ!」


 木刀を握る手に、思わず力が籠る。仲間たちの顔が、次々と脳裏を過っては消える。百姓から武士になることを夢見た純粋な近藤さん。豪快に笑い、誰よりも仲間思いの原田。いつも飄々としているが、その実、誰よりも新選組の未来を案じている沖田。


 史実では、彼らの多くが非業の死を遂げる。俺はその未来を知っている。だからこそ、俺だけが生き残る未来など、断固として拒絶する。だが、俺の選択が、逆に彼らを死に追いやることになったとしたら?


 その罪の意識、その重圧が、巨大な奔流となって俺の心を押し潰そうとしていた。


「眠れねえか、新八」


 不意に、背後から静かな声がかけられた。月光の差し込まない道場の隅、闇に溶け込むようにその男は立っていた。


 新選組副長、土方歳三。


 いつからそこにいたのか。気配を全く感じさせない、まるで影のような佇まい。その鋭い眼光だけが、闇の中で昏く光っている。


「土方さん……」


 俺は素振りをやめ、振り返った。


「ええ、まあ。少し、考え事を」


「考え事、ね。お前さんが考え事を始めると、ろくなことがねえ」


 土方さんはそう言って、ふ、と口の端で笑った。だが、その目は全く笑っていない。俺の心の奥底まで見透かすような、深く、静かな光を宿している。


 彼はゆっくりと俺の方へ歩み寄ると、俺の隣に立ち、同じように月明かりに照らされた庭を眺めた。


「怖いか」


 単刀直入な問いだった。飾りも、気遣いもない、土方さんらしい言葉。


 俺は一瞬言葉に詰まったが、正直に頷いた。この人の前で、虚勢を張っても意味はない。


「怖いです。俺の予測が外れたら、全てが終わる。皆を……死なせることになるかもしれない」


「……」


「俺は、危険を分析し、最悪の事態を回避するのが仕事だと考えていた。でも、今は違う。最も危険な道に、俺自身の言葉で皆を導いている。これが、本当に正しいことなのか……分からなくなる時があるんです」


 それは、誰にも明かしたことのない、俺の最も深い場所にある葛藤だった。歴史の介入者としての、孤独な本音。


 土方さんは、黙って俺の言葉を聞いていた。やがて、彼はゆっくりと口を開いた。


「永倉」


 静かな、しかし有無を言わせぬ力強さを秘めた声だった。


「お前が立てた策だ」


 彼は俺の目を真っ直ぐに見据えて、言った。


「俺は、そして新選組は、お前を信じる」


 その言葉は、決して大声ではなかった。だが、俺の心の隅々まで、雷鳴のように響き渡った。


 試衛館で出会った日。俺の合理的な剣を「面白い」と言ったこと。市中の騒動を腕力ではなく交渉で収めた俺の手腕に、初めて興味を示した夜。将棋盤を挟んで、俺の語る机上の戦術に戦慄した顔。


 土方歳三という男は、常に俺の「異質さ」を誰よりも早く見抜き、その価値を理解し、そして利用してきた。俺の知識が、彼の野望と、近藤さんの夢を叶えるための武器になると、彼は最初から直感していたのだ。


 だからこそ、その言葉は、いかなる慰めや激励よりも重かった。それは、感傷ではない。冷徹なまでの合理主義者である土方歳三が、俺という「参謀」の能力を絶対的に評価し、信頼しているという、何より雄弁な証明だった。


「……ありがとうございます」


 俺の口から漏れたのは、ただその一言だけだった。だが、それで十分だった。


 多くを語らずとも、二人の間には、確かに絶対的な信頼が通っていた。


 土方さんは俺の肩を一度、無骨な手で強く叩くと、「少しでも寝ておけ。明日は長い一日になる」とだけ言い残し、再び闇の中へと静かに姿を消した。


 一人残された俺は、もう一度、手の中の木刀を握りしめた。


 先程まで俺の心を苛んでいた重圧は、不思議と消え去っていた。恐怖がなくなったわけではない。だが、それはもはや俺一人が抱え込むべき重荷ではなかった。


 土方さんが信じてくれる。新選組が、俺の策に乗ってくれる。ならば、俺がやるべきことはただ一つ。


 俺の知識と分析能力の全てを懸けて、この作戦を成功させること。


 仲間たちと共に、この国の未来を、この手で掴み取ることだ。


 俺は木刀を置き、静かに空を見上げた。東の空が、わずかに白み始めている。


 決戦の朝は、もうすぐそこまで来ていた。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。

彼の心を静めたのは、闇に佇む副長・土方歳三からの、静かながらも絶対的な信頼を示す一言でした。

いよいよ作戦は実行の時を迎えます。

仲間たちと共に、新八は未来を掴み取ることができるのか?

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