第67話:下された特命
帝暗殺計画という驚愕の事実を会津藩主・松平容保に直訴した新八。
しかし、あまりに突飛な内容に重臣たちは猛反対します。
窮地に立たされた新八は、緻密な分析資料を提示し、容保の決断を迫ります。
「永倉新八、とくと分かった」
松平容保のその一言は、張り詰めた書院の空気を切り裂く、一振りの真剣のように響き渡った。疑念と拒絶の視線を一身に浴びていた俺にとって、それは乾いた大地に染み渡る慈雨にも等しい言葉だった。
俺の隣で息を詰めていた土方さんが、わずかに安堵の息を漏らすのが分かった。だが、まだ終わってはいない。本当の戦いは、ここから始まるのだ。
容保は、俺が提示した相関図と御所周辺の地図から、一度も目を離すことなく、ゆっくりと口を開いた。その声には、先ほどまでの苦悩の色はなく、京の守護職たる者の、揺るぎない覚悟が宿っていた。
「…信じよう。そなたの言葉を」
その言葉に、書院に居並ぶ老臣たちが、今度こそはっきりと息を呑んだ。「殿!」「なりませぬ!」「一介の浪士の戯言を…」口々に上がる反対の声を、容保は静かに、しかし有無を言わせぬ力強さで手で制した。
「静まれ。皆の懸念はもっともだ。だが、永倉の申すこと、今や単なる推測の域を越えておる。金の流れ、人の動き、そして、この恐ろしく緻密な襲撃計画。これを、何の根拠もなく作り上げられると思うか?」
容保は家臣たちを見渡し、静かに続けた。
「永倉の言う通りだ。万が一、いや億が一、この計画が真実であった場合、我々は何の手も打たなかったという、取り返しのつかぬ大罪を犯すことになる。帝の御命を守護し奉るという、我らが最も重き役目を、自ら放棄することに他ならぬ。その責めを、誰が負えるというのだ」
彼の言葉は、もはや誰の反論も許さなかった。それは、会津藩主として、そして京都守護職としての、最終決定だった。
「万が一があってからでは遅すぎる。…いや、この情報を得た今、すでにして『万が一』などという言葉は使えぬ。これは、起こるべくして起ころうとしている、明確な危機なのだ」
容保はすっくと立ち上がると、俺と土方さんの前に進み出た。その双眸が、俺たちの覚悟を問うように、真っ直ぐに射抜く。
「新選組局長、近藤勇代理、土方歳三。そして、副長助勤、永倉新八」
名を呼ばれ、俺と土方さんは背筋を伸ばし、改めて深く頭を垂れた。
「両名に、会津藩主、松平容保の名において、特命を下す」
特命。その言葉の重みが、ずしりと両肩にのしかかる。
「きたる主上の参内において、その行列を極秘裏に警護せよ。これは、表向きの警備とは全く別の、影の部隊としての任務である」
俺の分析通り、いや、それ以上の決断だった。表の警備に悟られぬよう動くことで、敵にこちらの動きを察知される危険性を最小限に抑える。リスク管理の要諦を、この男は完全に理解している。
「この特命は、会津藩の中でもごく一部の者しか知らぬ、極秘任務と心得よ。お主たちの存在そのものが、我らにとって最後の切り札となる。必要な兵員、物資については、最大限の便宜を図ろう。詳細は追って伝えるが、まずはこれを受けよ」
容保は懐から一通の書状を取り出し、土方さんに手渡した。参内の正式な日程と、行列が通る経路が記された、極秘文書だった。
「新選組を、もはや単なる京の治安を守るための浪士集団とは見なしておらぬ。この日ノ本の中枢、帝をお守りするための、国家の剣として信じ、この任を託す」
その言葉は、俺の胸の奥深くを、熱く震わせた。
前世で俺が夢見た、真に国に尽くす組織。俺がこの幕末の世で、新選組という組織を魔改造してまで成し遂げたかった、一つの理想の形が、今、ここにあった。
池田屋事件で、我々は京の治安を守る「壬生の狼」として名を馳せた。だが、この瞬間、新選組は、その存在意義を大きく変えたのだ。単なる治安部隊ではない。国家の枢要を守るための、実力組織へ。歴史の表舞台に、我々は確かな一歩を刻み込んだ。
「…御意。この土方歳三、身命を賭して、必ずや大任を果たしてご覧に入れます」
土方さんが、震える声で、しかしはっきりとそう答えた。彼の横顔からは、かつてないほどの緊張と、武士としての誇りが滲み出ていた。
俺もまた、深く頭を下げた。
「永倉新八、拝命つかまつります。我ら新選組の全てを懸け、必ずや帝をお守りいたします」
俺たちの返答に、容保は満足そうに頷くと、力強く言った。
「うむ。頼んだぞ」
もはや、書院に反対の声を上げる者はいなかった。容保の覚悟と、俺たちが示した情報の緻密さが、彼らの疑念を封じ込めたのだ。
◇
会津藩邸を辞し、屯所である壬生村に戻る道すがら、俺と土方さんは一言も口を利かなかった。交わす言葉など必要なかった。互いの胸の内にある、燃え盛るような使命感と、肌を刺すような緊張感は、痛いほどに伝わっていたからだ。
屯所の門をくぐり、自分たちの部屋に戻るや否や、土方さんは懐から例の書状を取り出し、机の上に広げた。
「…新八」
静寂を破ったのは、土方さんだった。
「お前の言う通りになったな。いや、お前がそうなるように仕向けた、と言うべきか」
その声には、わずかな畏怖の念が混じっている。
「仕向けた、などと。俺はただ、起こりうる最悪の事態を提示し、それを回避するための道筋を示しただけです。最終的に決断を下されたのは、容保公ご自身ですよ」
俺はそう答えながら、机の上に広げられた地図――俺が容保の前で広げた、あの警備計画の草案――に視線を落とした。
「だが、これからが本番だ。絵に描いた餅を、食える餅にしなけりゃ意味がねえ」
「ああ、分かっている」
土方さんの目が、鋭く光る。
「早速、幹部連中を集める。この任は、我ら新選組の総力を挙げなければ、到底成し遂げられん」
俺は頷いた。
「はい。沖田、斎藤、原田…各隊長の力を最大限に引き出す必要があります。俺の頭の中には、すでに具体的な人員配置の案があります」
現代の警察や軍隊における、タスクフォースの編成。それぞれの部隊の特性を活かし、有機的に連携させることで、組織の戦闘力を何倍にも高める。俺が霞が関で学んだ、組織論の真髄だ。
「敵の襲撃部隊は、おそらく三手。ならば、こちらもそれに対応する三つの部隊を編成します。敵の陽動に惑わされず、本命を叩き、そして退路を断つ。それぞれの役割を、寸分の狂いなく実行させる必要があります」
俺は地図の上で指を滑らせながら、頭の中にある作戦の骨子を語り始めた。土方さんは黙ってそれを聞き、時折、鋭い質問を投げかけてくる。俺の現代知識に基づく作戦理論と、土方さんの実践的な経験知が、火花を散らしながら融合し、より強固な作戦へと練り上げられていく。
この作戦に、失敗は許されない。
もししくじれば、帝の命が、そしてこの国の未来が失われる。
だが、俺は不思議と冷静だった。史実を知るがゆえの苦悩も、近藤さんへの罪悪感も、今は胸の奥底に沈んでいる。
目の前にあるのは、ただ一つ。
「国家の危機」という、明確な課題。
そして、それを乗り越えるための、「最適解」を導き出すという、官僚としての本能。
俺は、永倉新八という一人の剣客であると同時に、この国の未来を背負う、一人の公僕なのだ。
「…よし」
一通り俺の説明を聞き終えた土方さんが、顔を上げた。その顔には、もはや迷いの色はなかった。
「永倉。お前の策、とことん乗らせてもらう。今すぐ、幹部をここに呼べ」
彼の声が、部屋の外まで響き渡る。
「新選組の真価が問われる時が来た。我らの剣が、この日ノ本の行く末を決めるのだ」
机の上に広げられた地図の上で、俺と土方さんの視線が、静かに、そして熱く交錯した。帝都の守護者として、新選組がその歴史的な一歩を踏み出すまで、あと数日に迫っていた。
ついに会津藩主・松平容保を動かした新八の分析。
新選組は、帝を極秘裏に警護するという特命を拝命。
屯所に戻った新八は、未来の知識を活かした部隊編成を土方に提案します。




