第66話:信用の証明
帝暗殺計画という驚愕の事実を会津藩主・松平容保に直訴した新八。
しかし、公家の岩倉具視が黒幕だという常軌を逸した内容に、重臣たちは疑念の目を向けます。
「証拠はあるのか」と迫られる中、新八は懐から取り出した一枚の図を広げます。
「証拠はあるのか、証拠を!」
老臣の悲痛な叫びが、凍りついた書院の空気を震わせた。それは疑いというよりも、むしろ祈りに近い響きを持っていた。あってはならぬこと、信じたくないこと。その思いが、俺、永倉新八を取り囲む会津藩重臣たちの顔に、ありありと浮かんでいた。
無理もない。俺が今語ったのは、公家の頂点に立つ一人である岩倉具視が、この国の象徴たる帝の暗殺を企てているという、あまりにも常軌を逸した筋書きだ。一介の浪士の言葉を、鵜呑みにできるはずがない。
四方から突き刺さる、疑念と拒絶の視線。だが、俺は怯まなかった。この反応は、前世で骨の髄まで叩き込まれた「想定内」の事態だ。どれほど正しく、緊急性の高い情報であっても、組織の上層部、特に旧来の価値観に縛られた人間を動かすには、論理だけでは足りない。彼らが直感的に「これは本物だ」と理解できる、圧倒的な証拠が必要なのだ。
俺は静かに懐に手を入れた。そして、ゆっくりと取り出したのは、幾重にも折り畳まれた一枚の和紙だった。
「証拠は、ここに」
俺はそれを、松平容保の前に広げた。瞬間、居並ぶ重臣たちから、息を呑む気配が伝わってくる。
そこに描かれていたのは、単なる地図や人相書きではなかった。中央に「岩倉具視」の名を据え、そこから無数の線が放射状に伸び、様々な名前や組織、そして金の流れを示す矢印が複雑に絡み合った、巨大な相関図。霞が関時代、俺が腐るほど作成してきた、いわゆる「ポンチ絵」の幕末版だった。
「これは…?」
最初に声を発したのは、固く目を閉じていたはずの松平容保だった。彼の双眸が、驚きに見開かれている。
「池田屋にて押収した書状、そして山崎配下の監察方が命懸けで集めた情報の全てを、金の流れと人の繋がりという観点から整理し、図式化したものにございます」
俺は図の一点を指し示した。そこには、池田屋事件で討ち取った過激派浪士たちの名が並んでいる。
「まず、こちらをご覧ください。池田屋に集った者たち、あるいは京で騒乱を起こしていた他の浪士たち。彼らの背後には、複数の商人が資金提供を行っておりました。一見、バラバラに見える金の流れですが、その大元を辿っていくと、全てが一つの場所に繋がります」
俺の指が、図の中央に鎮座する「岩倉具視」の名へと滑る。
「岩倉様、その人でございます。もちろん、岩倉様ご自身が直接手を下すことはございません。幾人もの人間を介し、金の出所が分からぬよう、巧妙に偽装されております。しかし、金の流れを一つ一つ丹念に追えば、この結論以外には行き着かないのです」
「馬鹿な! そのような…」
一人の家臣が反論しようとしたが、俺はそれを遮るように言葉を続けた。
「次に、人の流れです」
俺は図の別の箇所を指す。そこには「柳生新陰流」「北辰一刀流」といった流派名と共に、山崎が掴んだ腕利きの浪士たちの名が記されていた。
「これらは、現在、岩倉様の屋敷に頻繁に出入りしている者たちの名簿です。我らの調べによれば、彼らは金で雇われた暗殺稼業の者たち。その目的は、ただ一つ。帝の暗殺計画の実行部隊となることです」
俺は一度言葉を切り、容保の顔を真っ直ぐに見据えた。
「なぜ、彼らが帝の暗殺という手段を選ぶのか。それは、費用対効果が最も高いからにございます。帝が崩御されれば、京は未曾有の大混乱に陥ります。朝廷は機能不全となり、幕府はその権威を完全に失墜させるでしょう。そうなれば、岩倉様は『朝敵』を討つという大義名分を掲げ、新たな帝を擁立し、倒幕の主導権を完全に掌握することができます。最小限の兵力で、最大限の政治的効果を得る。これこそが、彼らの狙いです」
俺の口から放たれる言葉は、もはや剣客のものではなかった。それは、国家の危機管理を担う官僚の、冷徹なまでの分析だった。書院は水を打ったように静まり返り、家臣たちの額には、じっとりと汗が滲んでいる。彼らは、俺が提示した図と、淀みない説明の前に、反論の言葉を失っていた。
だが、俺はまだ核心を語っていない。
「そして、最も重要なのが、襲撃計画の具体的内容です」
俺は懐からもう一枚、別の紙を取り出した。それは、御所とその周辺を詳細に描いた地図だった。
「敵は、主上が参内される特定の日に、特定の経路で計画を決行します。なぜなら、その日が最も警備が手薄になり、かつ襲撃が成功しやすいからです」
俺は地図の上で指を滑らせ、朱で記された幾つかの地点を示した。
「こちらが、現在の御所の警備体制です。会津藩と、我ら新選組が主だった警備を担っておりますが、ご覧の通り、いくつかの『穴』が存在します。特に、参内の行列がこの地点を通過する際、警備の連携に一瞬の隙が生まれる。敵が狙うとしたら、ここ以外にはあり得ません」
それは、俺が現代の知識――テロ対策や要人警護のセオリー――を基に導き出した、警備上の脆弱性だった。この時代に、これほど客観的かつ俯瞰的に警備体制を分析できる人間は、俺をおいて他にいない。
「襲撃部隊は、おそらく三手以上に分かれます。第一陣が混乱を引き起こし、第二陣が本命の襲撃を行う。そして第三陣は、追撃を妨害するための陽動部隊です」
俺はさらに、地図上に敵の侵入経路と、予想される配置を書き込んでいく。それは、まるで未来を見てきたかのような、あまりにも具体的で、緻密なシミュレーションだった。
「そして、万が一、計画が失敗した場合。彼らはあらかじめ用意しておいた、こちらの逃走経路を使って離脱を図るでしょう」
俺の指が、京の複雑な路地を縫うように走る、幾筋もの線を示す。それは、山崎の監察方が足で稼いだ、生きた情報だった。
「…そこまで、調べ上げていたというのか」
絞り出すような声で呟いたのは、松平容保だった。彼の顔からは、もはや驚きというよりも、畏怖に近い感情が読み取れた。他の重臣たちも同様だった。彼らは、目の前の浪士が持つ情報の質と量、そしてその分析能力の深さに、完全に圧倒されていた。
俺が提示したのは、単なる状況証拠の寄せ集めではない。
動機(Why)、主体(Who)、時期(When)、場所(Where)、方法(How)、そして目的(What)。
それら全てを網羅し、複数のシナリオを想定した、完璧なまでの危機管理ブリーフィングだった。
「申し上げた通り、これらは全て状況証拠からの推測に過ぎませぬ。岩倉様が直接指示を下したという書状が出てこない限り、物的な証拠とはなり得ないでしょう」
俺は静かにそう告げ、広げた図と地図を畳んだ。
「しかし、」と俺は続けた。
「もし、万が一、我らの分析が正しかった場合。そして、我らが何の手も打たなかった場合。その時、失われるのは、帝の御命だけではございません。徳川二百年の治世、そしてこの日ノ本の未来、その全てでございます。その責めを、我々は負うことができるのでしょうか」
俺の言葉が、重い問いとなって書院に響き渡る。
土方さんが、俺の隣で固唾を飲んで成り行きを見守っている。近藤さんは、固く拳を握りしめ、俺の背中をじっと見つめていた。
再び、長い沈黙が場を支配する。
誰もが、松平容保の決断を待っていた。この国の命運を左右する、あまりにも重い決断を。
やがて、容保はゆっくりと顔を上げた。その瞳には、先ほどまでの憂いの色はなく、ただ一点、覚悟を決めた者の、静かで力強い光が宿っていた。彼は、俺の目を真っ直ぐに見据えると、凛とした声で言った。
「永倉新八、とくと分かった」
その一言が、新たな時代の幕開けを告げる、鐘の音のように俺の耳に響いた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
新八が提示したのは、金の流れから人の動き、さらには具体的な襲撃計画まで網羅した、完璧な危機管理ブリーフィング
その緻密で具体的な内容に、疑っていた重臣たちも言葉を失います。
未来を知る新八の分析は、会津藩主・松平容保の心を動かすことができるのか?。




