第64話:凶刃のシナリオ
帝の暗殺計画という驚愕の事実が明らかになり、新八と土方は戦慄します。
現代の危機管理能力を駆使し、新八は犯行の目的、手段、そして場所を特定
それは、情報、地形、心理を組み合わせた冷徹なシナリオでした。
しん、と静まり返った屯所の一室。山崎烝が退出した後も、俺と土方さんの間には、まるで凍りついたような沈黙が続いていた。卓上には、先ほど山崎が残していった数枚の地図と人相書きが散らばっている。その一つ一つが、俺の脳内で警鐘を乱打していた。
「奴らの狙いは、帝ご自身だ」
自ら口にした言葉が、現実の重みを持って部屋の空気を支配する。天皇暗殺。その四文字が持つ意味は、単なる一つの事件に留まらない。日本の歴史そのものを根底から覆しかねない、未曾有の国難。その可能性に気づいてしまった以上、もはや後戻りはできない。
「新八」
静寂を破ったのは、土方さんだった。その声は低く、地を這うようだったが、不思議と冷静な響きを保っている。俺はゆっくりと顔を上げた。彼の双眸は、闇の中で獲物を狙う狼のように、鋭く、そして昏い光を宿していた。
「……お前の考えを聞かせろ。奴らが主上を狙うとして、一体いつ、どこで、どう仕掛けてくる?」
その問いは、俺が霞が関で官僚として働いていた頃、幾度となく繰り返したシミュレーションの開始合図と酷似していた。危機管理対策室の白い壁に囲まれた部屋で、モニターに映し出される仮想のテロ計画。目的、手段、兵力、タイミング、場所。あらゆる変数を考慮し、最悪のシナリオを想定し、そしてそれを未然に防ぐための最適解を導き出す。あの頃の俺は、まさか百年以上前の過去で、本物の国家転覆計画を相手に、同じ思考を巡らせることになるとは夢にも思わなかった。
俺は一度目を閉じ、脳内の情報を整理し始める。霞が関で、そして永田町で培ったプロファイリング能力。それは、断片的な情報から対象の行動原理や計画の全体像を炙り出す、思考の技術だ。
まず、目的(What & Why)。孝明天皇の暗殺。これは、岩倉具視を黒幕とする勢力にとって、何を意味するのか。今上帝は、頑ななまでの攘夷論者として知られている。その存在は、幕府にとっては厄介な重しであると同時に、尊皇攘夷を掲げる過激派にとっては、自らの行動を正当化するための錦の御旗でもある。だが、岩倉のような老獪な政治家が、本当に攘夷の実現を望んでいるとは思えない。彼の狙いは、あくまで倒幕。ならば、なぜ帝を?
答えは、一つしか考えられない。公武合体の阻止と、混乱だ。
帝という絶対的な権威が、何者かによって暗殺される。その犯人が、例えば「幕府の差し金」であるという噂を流せばどうなる? あるいは「異国かぶれの開国派の仕業」だと吹聴すれば? 帝を失った朝廷は機能不全に陥り、京は未曾有の大混乱に包まれる。幕府は、その責任を追及され、権威を大きく失墜させるだろう。攘夷派は過激化し、統制を失った暴力が都に溢れる。岩倉は、その混沌の先にある、新たな秩序の再編、すなわち自らが主導権を握る新政府の樹立を見据えているのだ。そのために、帝は「生ける象徴」ではなく、「死せる殉教者」でなければならない。
「……恐ろしい男だ、岩倉具視という公家は」
思わず、心の声が漏れた。
次に、兵力(Who & How many)。山崎の報告によれば、敵は専門的な訓練を受けた少数精鋭の暗殺集団。その数は、多く見積もっても二十名から三十名といったところだろう。大っぴらな合戦ではなく、あくまで「暗殺」が目的である以上、大軍はかえって目立ち、作戦の隠匿性を損なう。彼らは、最小限の人数で、最大限の効果を上げることを信条とする、死のスペシャリスト集団だ。
そして、最も重要なのが、場所(Where)とタイミング(When)だ。
俺は卓上の京の地図を指でなぞりながら、思考を加速させる。
「土方さん。もし自分が暗殺者なら、どこを狙いますか?」
「……警備が手薄な場所、だろうな」
「その通りです。では、帝の周囲で最も警備が手薄になるのはいつ、どこか」
御所の中は論外だ。幾重にも張り巡らされた警備網を突破するのは、いかに手練れの暗殺者といえども不可能に近い。狙うとすれば、帝が御所の外に出られる時。すなわち、参内や行幸の行列だ。
山崎が掴んだ情報によれば、岩倉の手の者たちは、孝明天皇が特定の神社へ参内される日程を執拗に調べていた。これだ。この日がXデーになる可能性が極めて高い。
「行列を狙うにしても、闇雲に襲撃しても成功率は低い。敵は必ず、成功率が最も高くなる一点を狙ってきます」
俺は地図上の一本の道筋を、指で強く押さえた。
「敵が襲撃地点を選ぶ条件は、大きく分けて三つあります」
俺は指を一本ずつ折りながら、土方に説明する。
「一つ、『隠匿性』。事前に潜み、襲撃後も姿をくらませやすい場所。つまり、路地裏や物陰が多く、人混みに紛れやすい場所です。さらに言えば、屋根からの奇襲も考慮に入れるべきでしょう。高所からの攻撃は、防御側にとって極めて対応が難しい」
「二つ、『脆弱性』。行列の警備が、物理的に最も手薄になる地点。例えば、道幅が狭まり、警備の隊列が間延びせざるを得ない場所。あるいは、大きな辻や広場を抜けた直後など、警備の意識が瞬間的に緩むポイントです」
「そして三つ、『離脱性』。襲撃後、速やかに現場から離脱し、追跡を振り切るための逃走経路が複数確保できる場所。袋小路になるような場所は、自ら死地に飛び込むようなものです」
俺は、官僚時代に叩き込まれた危機管理マニュアルのページを、脳内で一枚一枚めくっていく。テロリストの思考パターン、襲撃計画の立案プロセス。それらの知識が、幕末の京の地図の上で、恐ろしいほど鮮明な輪郭を結び始めていた。
「これらの条件を全て満たす場所が、今回の参内経路の中に、ただ一点だけ存在します」
俺は地図上の一点を、トン、と人差し指で叩いた。前世であれば、京都市役所にほど近い、商業ビルの谷間に、古くからの商店やこぢんまりとした飲食店が軒を連ね、ショーウィンドウを覗き込む人やカフェで談笑する人々の姿が見える繁華街だった場所。
「ここです。河原町通りから、姉小路通へと折れる、この角」
土方さんは、俺が指し示した場所を、食い入るように見つめている。
「この一帯は、町家が密集し、見通しの悪い路地が複雑に入り組んでいます。行列がこの角を曲がる際、警備の列は一瞬、乱れる。さらに、通りの両側には背の高い商家が立ち並び、屋根に身を隠すには絶好の場所です。そして何より、襲撃後は四方八方の路地へ散って逃げることができる。追跡は極めて困難です」
俺は息を継ぎ、最後のピースをはめ込む。
「おそらく、敵の計画はこうです。まず、行列が角に差し掛かる瞬間、屋根の上と路地裏に潜んでいた第一陣が、行列の先頭と後方の警備部隊に同時に襲いかかり、混乱を引き起こします。これは陽動です。警備の意識がそちらに集中した瞬間、本命である第二陣が、最も手薄になった行列の中央、すなわち帝の輿を直接強襲する。目的を達成した後は、あらかじめ定めておいた経路で、京の町に溶け込むように消える……」
そこまで語り終えた時、俺は自分が冷や汗をびっしょりとかいていることに気づいた。それは、恐怖からではなかった。自らが組み立てたシナリオの、あまりの緻密さと、そしてそれが寸分の狂いもなく実行されるであろうという、確信からくる戦慄だった。
「…………」
土方さんは、何も言わなかった。ただ、固く握りしめられた彼の拳が、指の関節が白くなるほどに力が込められ、カタカタと微かに震えているのが見えた。彼の表情からは、普段の鬼気迫るような覇気は消え失せ、代わりに、底知れない何かに直面したかのような、一種の愕然とした色が浮かんでいた。
「……新八。それは、お前のただの憶測か?」
絞り出すような声だった。俺は、静かに首を横に振る。
「いいえ。これは、憶測ではありません。現在の情報から導き出した推理です。敵の立場に立ち、彼らが持ちうる情報と目的、そして能力を基に導き出した、最も現実的な見通し。言い換えれば、一種の『科学的予測』です」
「かがくてき……よそく……」
土方さんが、初めて聞く言葉を反芻する。その顔には、もはや驚きを通り越して、畏怖に近い感情さえ見て取れた。俺が語った計画は、この時代の武士の発想からは、あまりにもかけ離れていた。それは、個人の武勇や精神論ではなく、情報、地形、心理、確率といった、冷徹なまでの要素を組み合わせて作られた、巨大な機械仕掛けの罠のようだった。
やがて、土方さんは深く、長く息を吐いた。そして、まるで自分に言い聞かせるように、呟いた。
「……池田屋の時もそうだった。お前は、俺たちの誰もが見えていなかったものを見ていた。あの時、俺がお前の言葉を信じていなければ、今頃、新選組はなかったかもしれん」
彼はゆっくりと立ち上がると、窓の外に広がる夜の闇に目を向けた。
「だが、新八。今度ばかりは、話の次元が違いすぎる」
その声には、決然とした響きが宿っていた。
「帝の御身に万が一のことあれば、この国は終わる。これはもはや、俺たち新選組だけでどうこうできる問題じゃねえ。京の治安維持などという、生易しい話でもない」
土方さんは、こちらに振り返った。その瞳には、先ほどまでの動揺は跡形もなく消え、代わりに、覚悟を決めた男の、鋼のような光が宿っていた。
「これは、我らだけで抱えられる話ではない」
彼の言葉は、俺が心のどこかで予期していたものだった。そうだ。これは、一介の浪士隊が、その独断で対処できるレベルを遥かに超えている。国家転覆を企む、朝廷内部の巨大な敵。その陰謀を阻止するためには、もっと大きな力、公的な権威と、それを支える強大な武力が必要不可欠だ。
「すぐに支度をしろ、永倉。近藤さんにも声をかける」
「どこへ?」
俺の問いに、土方さんは短く、しかし力強く答えた。その言葉は、俺たちの、そして新選組の運命が、新たな段階へと突入したことを告げる号砲となった。
「決まっているだろう。会津藩邸だ。京都守護職、松平容保公に、この一件、洗いざらいぶちまけてくる」
お読みいただきありがとうございます。
新八のプロファイリングにより、敵の恐るべき計画の全貌が明らかになりました。
それは、現代的な思考に基づいた緻密なもの
この事態を重く見た土方は、会津藩との連携を決断します




