第63話:天子の動向
岩倉具視の屋敷に出入りする素性不明の浪士たち。
山崎烝の監察方がその実態を探ると、彼らが専門的な訓練を受けた戦闘集団であり、執拗に御所周辺を調べていることが判明します。
点と点が繋がり、一つの恐るべき結論へとたどり着いた時、永倉と土方は戦慄します。
「――いずれも、これまで京の町では見かけなかった顔です。我々の網には、一度もかかったことのない者たちばかり」
しんと、まるで墓所のように冷え切った屯所の一室。そこだけが、昼夜を問わぬ隊士たちの怒声や活気に満ちた日常から完全に切り離されたかのように、重く、息苦しいほどの沈黙に支配されていた。部屋の隅で燃える蝋燭の心もとない光が、俺たちの張り詰めた顔に深い影を落としている。山崎烝が静かに差し出した数枚の人相書きが、卓上の一点の灯火、その頼りない光にゆらり、ゆらりと揺らめいていた。
紙の上で、墨の濃淡のみで描かれた男たちの顔、顔、顔。どれもこれも、喜怒哀楽という人間的な感情が根こそぎ抜け落ち、まるで魂の宿らぬ能面のようだ。その目は、何も映さず、何も感じていないかのように虚ろで、見る者の心の奥底を凍てつかせる。俺と、隣に座す土方さんは、その不気味な顔の一つ一つを、まるで魂でも吸い取られんばかりの凄まじい集中力で食い入るように見つめていた。土方さんの膝に置かれた手は、いつの間にか鞘に巻かれた柄糸を、その繊維が軋むほど強く握りしめている。指の関節が白く浮き出ていた。
俺が指摘した、公卿・岩倉具視の屋敷に密かに出入りする素性の知れない浪士たち。その正体を探るべく、山崎配下の監察方を総動員して得られた、これが最初の具体的な成果だった。だが、その報告内容は、俺たちの胸に渦巻いていた漠然とした不安を、輪郭のはっきりとした、そして遥かに巨大な凶兆へと変貌させるには十分すぎるものだった。
「監察方の報告には、看過できぬ点がいくつもありました」
山崎は、常の冷静さを氷の仮面のように張り付かせながらも、その声には隠しきれない緊張が刃金のように滲んでいる。彼の言葉は、静かでありながら、この部屋の空気を一層重くした。
「まず、彼らの立ち居振る舞い。一見すれば、どこにでもいる仕官の口を求める浪士にしか見えません。しかし、複数人で行動する際の連携、周囲への警戒の配り方、互いに一瞥を交わすだけで意思を疎通させる様子は、明らかに専門的な訓練を受けた者のそれです。物陰に溶け込むように姿を消し、人混みの中では己の気配を完全に殺す。まるで、影そのものになったかのような動きだったと……。ある者は、町家の屋根から屋根へ、猫のように音もなく跳び移るのを見たと。我々の監察方も、幾度となく見失いかけたと申しております。一人の監察に至っては、背後に気配を感じて振り返った瞬間には、もう誰もいなかったと。まるで狐に化かされたかのようだったと、歯噛みしておりました」
その言葉だけで、奴らの練度の高さが肌身に粟を生じさせるほどに窺い知れた。新選組の監察方は、その多くが忍び働きや諜報活動に通じた手練れの集まりだ。闇に生き、闇を食むことを生業としてきた彼らが舌を巻くほどの隠密行動。これは、ただの剣客崩れの集団では断じてありえない。ある種の、特定の目的のために最適化された、異質な戦闘集団だ。
「そして何より……」
山崎は一度言葉を切り、懐からさらに数枚の紙片を取り出した。それは、几帳面な線で描かれた、京の御所周辺を詳細に記した地図だった。その上には、赤い墨で無数の印や線が、まるで地図の表面を這う血管のように、不気味に書き込まれている。その赤は、まるでこれから流される血の色を予感させているかのようだった。
「奴らは、この数日間、昼夜を問わず御所の周辺を執拗に探っております。まるで、自分たちの庭を隅々まで確かめるかのように」
そう言って、山崎は地図の上に細い指を滑らせた。その指が示すのは、九つある御所の門の警備が手薄になる時間帯、衛士の交代の隙。塀の高さや材質、乗り越えやすい場所。さらには、公家たちが参内する際に使う脇道や、万が一の際の逃走経路となりうる水路の位置、その深さまで。素人が興味本位で調べるには、あまりに専門的で、異常なまでの執着心だった。それは、獲物の巣穴を執念深く観察する、飢えた獣の目に似ていた。
「まるで、城攻め前の斥候だな」
土方さんが、地を這うような低い声で呟く。その声には、単なる比喩ではない、現実的な脅威を前にした冷徹な響きが籠っていた。俺たちの脳裏には、同じ疑念が暗雲のように渦巻き始めていた。これは、単なる情報収集などという生易しいものではない。明確な目的を持った、何らかの軍事作戦の、緻密な準備段階だ。この京の心臓部で、俺たちの知らぬ間に。
「山崎、奴らが特に気にしていた点は何だ? 警備の交代時間か? それとも特定の場所か?」
俺が核心に迫るべく問いかけると、山崎は重々しく首を横に振った。その動きが、やけにゆっくりと見えた。部屋の空気が、さらに密度を増したように感じられる。
「永倉さんのご推察通り、警備の交代時間や死角となる場所も、繰り返し調べておりました。ですが、それ以上に……奴らが異常なまでに固執していた情報があります」
山崎は、地図の上に置かれた報告書の一枚を、俺たちの前に押し出した。そこに記された文字の羅列に、俺は息を呑んだ。まるで冷水を浴びせられたかのように、全身の血が急速に冷えていくのを感じた。
「……これは」
「帝の、ご動向です」
山崎の静かな、しかし部屋の隅々にまで染み渡るような声が、俺たちの鼓膜を震わせた。報告書には、孝明天皇が御所を出て、二条城や特定の神社仏閣へ参拝する際の日程、現時点での予定経路、そして行列の警備体制に関する情報が、浪士たちの最優先調査対象として克明に記されていた。
「先日の加茂神社への行幸の際も、奴らは沿道の物陰から、行列の長さ、警備にあたる会津藩兵の配置、そして……帝の鳳輦が通過する速度、その構造、担ぎ手の数に至るまでを、執拗に確認していた、と」
その言葉が、俺の頭の中で鳴り響いていた警鐘を、けたたましいサイレンへと変えた。点と、点が繋がり、線となる。池田屋で押収した、長州藩士の不自然な金の流れ。その金の出所として浮かび上がった、岩倉具視という巨大な貯水池。そこに集う、素性不明の暗殺者集団。彼らが執拗に繰り返す、御所周辺の軍事的な偵察と、天皇その人の動向調査。バラバラだった情報が、俺の脳内で一つの恐るべき結論を形作り始める。それは、あまりにもおぞましく、冒涜的で、この国の根幹を、歴史そのものを破壊しかねない、最悪の絵図だった。
「……新八?」
俺が言葉を失い、顔から血の気が引いていくのを、土方さんが訝しげに見つめている。俺は、わななく唇を必死に抑えつけながら、ゆっくりと顔を上げた。視線が、鬼の副長と、稀代の監察方の顔を捉える。二人の目に映る俺の顔は、きっと幽鬼のようだったに違いない。
「土方さん……山崎……。奴らの狙いは、警備の突破でも、御所への放火でもない」
俺は、地図の中心、この国の聖域である禁裏御所を示す一点を、震える指で突き刺すように指し示した。指先が、紙を突き破らんばかりに食い込む。
「奴らの狙いは、帝……主上、ご自身だ」
その瞬間、部屋の空気が完全に死んだ。今までかろうじて揺らめいていた蝋燭の炎が、まるで時が止まったかのように動きを止め、壁に映る俺たちの影が、永遠に動かぬ石像のように固まる。
「……なんだと?」
土方さんの声は、怒りでも驚きでもなく、純粋な不信に満ちていた。鬼の副長と呼ばれ、数多の修羅場を潜り抜けてきたこの男でさえ、俺の言葉が持つ冒涜的な意味を即座には理解できなかった。いや、理解することを、本能が、この国に生きる者としての魂が、猛烈に拒絶したのだ。
「馬鹿な……。帝を、弑し奉るだと?そのようなこと、一体誰が……何のために……」
山崎もまた、血の気の失せた顔で喘ぐように言った。その声は、か細く震え、報告を読み上げていた時とは別人のようだった。彼の氷の仮面は砕け散り、そこには純粋な恐怖が浮かんでいた。
「あり得ない、と思うのが当然です。誰も考えつきもしない。神武の昔から、この国は帝を中心に回ってきた。武家がどれだけ力を持とうと、そこだけは決して揺らがなかった。天すら恐れぬ所業だ。だからこそ、奴らはそこを突いてくるんです。誰もが『あり得ない』と信じている、その一点を。その常識の死角こそが、奴らにとって最大の武器なんです」
俺の言葉に、部屋は再び墓場のような沈黙に包まれた。孝明天皇の暗殺。その前代未聞にして、万死に値する計画が、今この京の闇の中で、密かに、しかし着実に進行している。これはもはや、京の治安維持という次元の話ではない。日本の歴史そのものを根底から覆し、この国を万劫末代の混沌へと突き落とす、未曾有の大逆だ。
俺は、これからこの身に降りかかってくるであろう、想像を絶する嵐の巨大さを前に、ただ唇を強く噛みしめることしかできなかった。その唇から、じわりと滲んだ血の味が、やけに生々しく口の中に広がった。それは、これから始まるであろう、血で血を洗う戦いの、最初の味だったのかもしれない。俺たちの戦場は、もはや京の町ではない。この国そのものの存亡なのだと、その鉄錆の味が告げていた。
お読みいただきありがとうございます。
浪士たちの真の狙いが、前代未聞の「帝の暗殺」であることが明らかになりました。
誰もが「あり得ない」と信じるからこそ、その計画は静かに、しかし着実に進行しています。
この未曾有の大逆に、新選組はどう立ち向かうのか?
日本の歴史そのものが、今大きな岐路に立たされています。




