第62話:見えざる敵意
池田屋事件の黒幕を追う新八は、ついに朝廷の重鎮・岩倉具視に辿り着きます。
しかし、それはまだ状況証拠に過ぎません。
決定的な証拠を掴むため、新八は監察方を動かし、岩倉邸の監視を強化します。
「――やはり黒幕は、岩倉卿で間違いないようです」
俺の静かな、しかし確信を込めた声が、部屋の重い沈黙をさらに深く沈めた。
屯所の一室、ろうそくの心もとない炎が揺らめき、壁に映る俺たちの影を巨大な怪物のように震わせる。向かいに座す土方歳三は、切れ長の双眸をさらに細め、俺の顔の奥底を探るように凝視していた。彼の表情に驚きはない。すでに数日前、俺から岩倉具視という雲の上の存在の名を聞かされ、その可能性を共に検討してきたからだ。だが、俺の今日の声色に含まれた揺るぎない響きは、この推論がもはや仮説の域を出て、冷徹な確信へと変わりつつあることを雄弁に物語っていた。
「新八……。金の流れだけではない、何か決定的な証拠でも掴んだか」
土方の声は、常の厳格な響きを保ちながらも、確かな手応えを求める焦燥を隠しきれていない。無理もない。一介の浪士集団に過ぎない我々新選組が、帝の側近たる公家の重鎮を「黒幕」と断じ、敵と見なすのだ。それは、虎の尾を踏むどころか、その喉笛に手をかけるに等しい行為。この鬼の副長が誰よりもその危険性を理解しているからこそ、軽々には動けない。
「ええ。先夜お伝えした通り、池田屋で押収した長州藩士の金の出入りを記した証文、そして山崎に命じて徹底的に洗わせた京での不審な金の流れ。それらがすべて、岩倉具視という一点を指し示しているのは間違いありません。ですが、それだけでは状況証拠に過ぎない。そこで、次の一手として奴の屋敷周辺に監察方を二十四時間体制で張り付かせ、人の出入りを徹底的に探らせていました。その結果が、今しがた山崎からもたらされたばかりです」
俺は、部屋の半分を占める巨大な京の地図を指し示した。無数の赤い線と付箋で埋め尽くされたそれは、俺の思考の軌跡そのものだ。未来の知識を持つ俺が、現代日本の官僚組織で培ったプロの捜査技術と洞察力を駆使して、この幕末の混沌とした京の闇に潜む、不気味な真実を浮かび上がらせていた。
土方は黙って地図に視線を落とす。彼は、俺がただの勘や思いつきで物を言う男ではないことを、誰よりも理解してくれている。試衛館時代から、俺の献策がいかに突飛で常識外れであっても、その根底に冷徹なまでの合理性と緻密な計算があることを見抜いてきた。だからこそ、彼は俺の言葉を一言も聞き漏らすまいと、真剣に耳を傾けているのだ。
「それで、何が分かった。ただの客人の出入りだけでは話にならんぞ」
「もちろんです。ここ数日、岩倉邸に極めて奇妙な連中が出入りしています」
俺は懐から数枚の紙を取り出し、彼の前に丁寧に並べた。そこには、山崎配下の監察方が描いた複数の男たちの人相書きが、それぞれの特徴的な癖や所持品、そして目撃された時間と場所と共に、驚くほど詳細に記されていた。
「いずれも、これまで京の町では見かけなかった顔です。一見すればただの浪士風情ですが、監察方の報告には看過できない点がいくつもありました。まず、彼らの目。ぎらついてはおりますが、そこらの食い詰め浪士のような焦りや卑屈さがない。むしろ、獲物を品定めするような、冷たい光を宿しております。山崎の報告によれば、『まるで血の匂いを知る狼のようだ』と」
「狼、か……」
「ええ。そして、歩き方。複数人で歩いていても、決して無駄口は叩かず、自然と互いの死角を補うような位置取りをとり、常に周囲への警戒を怠らない。先日、監察の一人がわざと酔漢を装ってぶつかってみたそうですが、その男はぶつかられる寸前に柳のように体をかわし、その一瞬、懐に忍ばせた短刀の柄に手が触れたのを、別の場所から見ていた者が確認しています。これは、一朝一夕で身につくものではありません。幾度となく修羅場をくぐり抜けてきた、紛れもない手練れの動きです」
俺の具体的な報告は、土方の表情をみるみる険しくさせた。彼の脳裏にも、ただならぬ者たちの姿が、生々しい輪郭を伴って浮かび上がったはずだ。
「人数は?」
「我々がこの三日間で確認しただけで、十五名。いずれも、先ほどの男と同等か、それ以上の腕利きと見受けられます。一団となって動くことはなく、二、三人ずつの組に分かれて時間差で屋敷に出入りし、人目を避けるようにして接触を図っている模様です」
十五名の、プロの暗殺者集団。それが、公武合体を掲げる孝明天皇の側近であり、公家の重鎮である岩倉具視の屋敷に、密かに出入りしている。
パズルの最後のピースが、カチリと音を立てて嵌った瞬間だった。
池田屋で長州の過激派を叩き潰した結果、京における倒幕派の物理的な力は大きく削がれた。だが、岩倉のような黒幕にとって、それは使い捨ての駒を失ったに過ぎない。彼は、より質の高い、そして外部の者には素性の割れない新たな「刃」を手に入れたのだ。
「……暗殺者集団、だと? 岩倉の奴、そこまで腐っていたか。いったい何を企んでやがる」
土方が吐き捨てるように言った。その声には、ようやく敵の正体が見えてきたことへの獰猛な喜色と、事態の深刻さに対する戦慄が奇妙に混じり合っていた。新選組がこれまで相手にしてきたのは、思想に駆られ、血気に逸る浪士たちが主だった。だが、今度の敵は違う。思想も大義もない。ただ金で雇われ、冷徹に役目を果たすプロの暗殺者だ。その危険度は、これまでの相手とは比較にすらならない。
「まだ断定はできません。ですが、これだけの腕利きを、ただの用心棒として雇うはずがない。何らかの破壊工作か、あるいは……幕府、もしくは朝廷の要人の暗殺か」
俺の言葉に、土方はゴクリと息を呑んだ。彼の鋭い目が、獲物を前にした獣のように細められる。
「永倉、お前の考えを聞かせろ。奴らは誰を狙っている?」
土方の目が、真剣な光を帯びて俺を射抜く。彼はもはや、俺の見立てを疑ってはいない。俺の知恵が導き出す「解」を、新選組が進むべき道標を求めている。
俺は一度、目を閉じて思考の海に深く潜った。
岩倉具視。史実の彼は、後に王政復古のクーデターを主導し、明治政府の中心人物となる男だ。だが、この時点での彼は、過激な攘夷論を唱え、公武合体を推進する孝明天皇や幕府を快く思っていないはずだ。長州の過激派を裏で操っていたのも、京に混乱をもたらし、幕府の権威を失墜させるための布石だった。だが、池田屋事件でその手駒は壊滅した。
ならば、次の一手は何か。より直接的で、より効果的な一撃。幕府と朝廷の間に決定的な亀裂を生み、日本を大混乱に陥れるための、最悪の一手とは。
「……まだ、最も重要な手掛かりが足りません」
俺はゆっくりと目を開け、土方に向き直った。
「敵の戦力は分かりました。ですが、最も肝心な『標的』がまだ見えない。それを知る必要があります。そして、そのためにはまず、奴らの潜伏先を突き止めねばなりません」
「潜伏先か……。山崎は何か掴んでいるのか」
「ええ。岩倉邸に出入りしていた連中のうち、複数名が同じ場所へ向かっていることが判明しています。尾行は困難を極めましたが、監察方を総動員し、交代で追跡させることで、ようやく」
俺は地図上の一点を、人差し指で強く指し示した。それは、御所にもほど近い、とある神社の名前だった。人通りも少なく、それでいていざという時には四方八方に逃走可能な、絶好の隠れ家だった。
「この神社の社務所を、奴らは潜伏先として利用している可能性が極めて高いかと」
「……よし。よくやった、新八。大手柄だ」
土方は満足げに頷くと、立ち上がって俺の肩を強く叩いた。金の流れという掴みどころのない手掛かりから、ついに敵の具体的な戦力と、その拠点たるアジトの可能性まで突き止めたのだ。これは、この見えない戦争における、決定的な一歩だった。
「直ちに山崎に伝えろ。今夜から、監察方の総力を挙げて、その神社の監視を強化しろ。だが、決して接触はするな。敵は手練れだ、こちらの気配をわずかでも察知されれば、すべてが水の泡となる」
土方の言葉は、俺が考えていたことと寸分違わなかった。俺たちは、すでに一つの頭脳のように思考を共有し、同じ結論に至っていた。
「承知しています。山崎にはすでに新たな指令を下してあります。奴らに与えた役目はただ一つ。奴らが『何を』調べているのかを突き止めること。誰かの動向を追っているのか、どこかの屋敷の警備状況を探っているのか、あるいは特定の場所を何度も下見しているのか。どんな些細な行動でもいい。奴らの動きの一つ一つから、その狙いを読み解くんだと」
見えざる敵意は、今やそのおぼろげな輪郭を現しつつある。それは、夏の京を覆う湿った空気のようにまとわりつき、この国そのものを揺るがしかねない、巨大な悪意の塊だ。
俺の脳裏に、断片的に残る日本史の記憶が浮かび上がる。そこには、この時期の公家の動向について、いくつかの記述があったはずだ。だが、これほど具体的で組織的な暗殺計画など、一行たりとも記されてはいなかった。
歴史は、俺という異分子の存在によって、すでに俺の知る流れから大きく逸脱を始めているのかもしれない。ならば、俺が為すべきことは一つ。
「いいか、新八。この戦は、情報戦であり、謀略戦だ。我々が先に敵の狙いを知れば、我々の勝ちだ。奴らが牙を剥く前に、その喉笛を食い破る」
土方の言葉に、俺は力強く頷いた。
見えざる敵よ。お前たちが誰で、何を企んでいようと、この永倉新八の持つ未来の「知識」と現代の「知恵」、そして土方歳三率いる新選組という最強の「牙」からは逃れられない。必ずやお前たちの企みを白日の下に晒し、完膚なきまでに叩き潰してみせる。
俺と新選組が守るのは、もはや京の治安という小さな枠組みではない。この日本の、未来そのものなのだから。
部屋に満ちる濃密な緊張感の中、俺たちは来るべき決戦の時を、獲物を待つ狼のように静かに待っていた。
お読みいただきありがとうございます。
新八の緻密な捜査により、黒幕・岩倉具視の存在と、彼に仕える手練れの浪士たちの影が明らかに…
公家の重鎮という、これまでとは比較にならない巨大な敵。
圧倒的な権力と謎の実行部隊を前に、新八と土方はどう立ち向かっていくのか?




