第6話:天然理心流の懐
小田原での運命的な出会いを経て、栄吉はついに江戸の地を踏みます。
近藤勇に導かれ訪れた道場「試衛館」。そこは、後に歴史を揺るがす「新選組」の母体となる場所でした。
荒々しくも実直な剣を振るう男たちとの出会いは、栄吉に何をもたらすのでしょうか。
歴史の奔流に身を投じる、新たな物語の幕開けです。
江戸の空は、国元の松前よりも高く、そしてどこまでも青く澄み渡っていた。
小田原での運命的な出会いから十日余り。俺はついに、この国の心臓部である江戸の土を踏んでいた。旅の目的であった試合会場の練兵館には早々に挨拶を済ませ、その足で向かったのは、近藤勇に教えられた市ヶ谷甲良屋敷の一角にある道場だった。
「試衛館」
掲げられた看板の文字は、力強いがどこか素朴で、あの男の人の良さをそのまま表しているかのようだった。官僚時代の知識が、この場所が後に「新選組」という巨大な歴史の奔流を生み出す震源地となることを告げている。俺は一つ大きく息を吸い込み、固く閉ざされた門を叩いた。
「ごめんください!松前藩の永倉栄吉と申します!先日、小田原でお会いした近藤先生はいらっしゃいますか!」
しばしの沈黙の後、ギィ、と音を立てて門が開かれた。
現れたのは、あの時と同じ、人懐っこい笑みを浮かべた沖田総司だった。
「あ!やっぱり来てくれたんですね、永倉さん!」
「沖田殿。先日は世話になった」
「もう、そんな堅苦しいのはやめてくださいよ。ささ、上がって上がって!近藤先生も土方さんも喜びます!」
沖田に腕を引かれるまま道場へ足を踏み入れると、むわりとした熱気と、腹の底に響くような気合いの声が俺を包んだ。
板張りの道場では、十数人の男たちが、汗だくになって木刀を打ち合わせている。神道無念流の洗練された剣とは違う。もっと荒々しく、泥臭く、だが一撃一撃に全身全霊を込めたような、実戦そのものの剣。これが、天然理心流か。
その中心で、ひときわ大きな体躯の近藤勇が、門弟たちに檄を飛ばしていた。
「そりゃ違う!腰が入っておらん!相手を斬るという気概がなければ、剣などただの棒切れだ!」
俺の姿を認めると、近藤は顔をくしゃくしゃにして笑い、稽古を中断して駆け寄ってきた。
「おお、永倉殿!よくぞ来てくれた!長旅、疲れたであろう」
「いえ、この活気を見れば疲れなど吹き飛びます」
道場の隅では、土方歳三が腕を組んで壁に寄りかかり、相変わらずの厳しい目で俺と道場の様子を交互に見ていた。目が合うと、彼は小さく顎を引いた。肯定か、あるいは単なる挨拶か。この男の内心は、まるで霞が関の奥の院のように窺い知れない。
「さあ、紹介しよう!俺たちの大事な仲間だ!」
近藤の大声に、稽古をしていた男たちがぞろぞろと集まってきた。
「こちらは井上源三郎殿。俺たちの中では一番の年長者でな。源さんには、いつも世話になりっぱなしだ」
近藤に紹介されたのは、人の良さそうな初老の男だった。皺の刻まれた顔に柔和な笑みを浮かべ、「まあまあ、勝さん(近藤の幼名)はいつも大袈裟で」と謙遜しながら、俺に深々と頭を下げた。その物腰から、彼がこの荒くれ者たちの集団における「良心」であり、潤滑油であることが瞬時に理解できた。
「よお!あんたが永倉か!俺は原田左之助だ!槍働きなら任せとけ!」
太陽のような笑顔で、快活に声をかけてきたのは、日に焼けたたくましい男だった。その隣で、「僕は藤堂平助です。永倉さんと歳も近いみたいだし、仲良くしてください!」と、人懐っこく笑う少年がいる。原田の豪放さと、藤堂の快活さ。彼らがいるだけで、この場の空気がぱっと明るくなるのが分かった。
俺は、霞が関で過ごした日々を思い出していた。そこにあったのは、出世を巡る足の引っ張り合いと、腹の探り合い。利害で結びつき、利害で離れる人間関係。だが、ここにいる男たちはどうだ。そこには一点の曇りもない、実直な仲間意識と、剣の道に対する純粋な情熱だけがあった。
(第二の我が家、か……)
近藤の言葉が、不意に胸に染みた。
だが、その温かい感情に浸ろうとした瞬間、俺の視線は道場の隅に釘付けになった。
一人だけ輪に加わらず、離れた柱の影で黙々と木刀を振る男がいた。
年は俺と同じくらいか、少し下か。痩身で、どこか影のある佇まい。その顔には感情というものが一切浮かんでおらず、ただ虚空を睨みつけながら、機械のように正確な素振りを繰り返している。
周囲の活気から、彼だけが切り離された別の空間にいるかのようだ。
俺の視線に気づいたのか、男がふと動きを止め、こちらを見た。
その目と目が合った瞬間、俺は背筋に氷を差し込まれたような錯覚に陥った。
感情のない、暗く、どこまでも深い瞳。それは、まるで全てを見透かしているかのようで、俺が抱える秘密の核心までをも暴き出そうとしているかのようだった。
「……あれは?」
俺が小声で尋ねると、隣にいた藤堂が声を潜めて言った。
「斎藤一さんです。少し、とっつきにくい人ですけど……剣の腕は、沖田さんと並ぶくらい凄いんですよ」
斎藤一。
後に新選組を離脱し、別の道を歩む男。その瞳の奥にある孤独の色は、あるいは未来の彼の姿を暗示しているのだろうか。彼は俺を一瞥すると、再び興味を失ったように素振りに戻った。だが、俺には分かった。彼は俺を「観察」している。
その夜、俺は試衛館の客分として、彼らと一つの食卓を囲んでいた。
井上が作った素朴だが心のこもった料理。近藤の豪快な笑い声。原田と藤堂の馬鹿話。それを見守る沖田の笑顔。そして、少し離れた席で黙々と箸を動かす斎藤と、そんな全員を厳しい目で見渡しながらも、時折口元に微かな笑みを浮かべる土方。
(ああ、ここは……温かい)
官僚として、常に合理性と効率性を追求し、人の感情すらデータとして分析してきた俺にとって、この場所はあまりにも人間臭く、そして温かすぎた。彼らの未来を知っている。近藤は斬首され、土方は箱館で散り、沖田は病に倒れ、原田も藤堂も非業の死を遂げる。
この温かい食卓が、やがて血と涙で彩られる未来を知っているのは、この中で俺だけだ。
その事実が、鉛のように俺の心にのしかかる。彼らと笑い合えば合うほど、胸の奥が軋むように痛んだ。彼らとの間に、決して埋めることのできない、透明で分厚い壁が存在することを自覚せざるを得なかった。俺は、この時代の人間ではない。歴史という名の脚本を、ただ一人知ってしまった観客なのだ。
「永倉殿、どうした?箸が進んでおらんぞ」
近藤が、心配そうに俺の顔を覗き込んだ。
「いえ……少し、旅の疲れが出たのかもしれません」
俺は、無理に笑顔を作って答えた。
食事が終わると、近藤は俺を自室へと招いた。土方も、当然のようにその後ろについてくる。
「永倉殿。単刀直入に言おう。この試衛館に、食客として残ってくれんか」
近藤の目は、どこまでも真剣だった。
「お主の剣は、俺たちの剣とは違う。だが、そこには確かな『理』がある。そして何より、お主のその思慮深さ、胆力は、これからの時代に必ず必要になる。俺たちと一緒に、この国のために何かを成し遂げんか」
俺の目的は、歴史の介入だ。彼らを救い、徳川幕府を立て直す。そのためには、この男たちの中心にいる必要がある。合理的に考えれば、この誘いを断る理由はない。
だが、俺の心を揺さぶったのは、そんな計算だけではなかった。
この男たちをもっと知りたい。この温かい場所を守りたい。史実という名の悲劇から、彼らを救い出したい。
官僚としての合理主義が警鐘を鳴らす。「情に流されるな。それは判断を誤らせる」と。しかし、俺の心は、もうとっくに決まっていた。
「……分かりました。未熟者ですが、この永倉栄吉、お仲間に入れていただきたい」
俺が頭を下げると、近藤は「おお!」と声を上げ、力強く俺の肩を叩いた。
その横で、土方は何も言わずに、ただじっと俺の目を見ていた。彼の厳しい表情は変わらない。だが、その奥に宿る光が、ほんの少しだけ和らいだように見えたのは、決して気のせいではなかったはずだ。
こうして、俺の試衛館での生活が始まった。
それは、歴史の奔流に身を投じるための第一歩であり、同時に、俺が単なる「歴史介入者」から、この時代を生きる一人の人間へと変わっていく、長い道のりの始まりでもあった。
窓の外では、虫の音が静かに響いていた。
俺は、これから始まるであろう激動の日々と、まだ見ぬ仲間たちの顔を思い浮かべながら、固く拳を握りしめた。
第6話、お楽しみいただけましたでしょうか。
ついに試衛館の一員となった栄吉。近藤や土方、沖田といった仲間たちの温かさに触れる一方、彼らの悲劇的な未来を知る栄吉は、その事実の重さに苦悩します。
歴史の介入者としてではなく、一人の人間として彼らとどう向き合っていくのか。
栄吉の本当の戦いがここから始まります。