第59話:見える化の力
会計と兵站の改革に乗り出した主人公は、「決算書」を手に、土方へ報告に向かいます。
数字に強い土方は、金の流れが詳細に記された帳簿から、組織に潜む無駄や不正を即座に見抜きました。
改革の第一歩は、組織の現状を「見える化」することから始まります。
大規模な棚卸しから十日後。俺と井上先生、そして勘定方の河合耆三郎は、膨大な帳簿を抱えて土方副長の部屋の前にいた。河合の顔には、連日の過酷な作業による疲労と、それを上回る達成感が浮かんでいる。
「永倉さん、本当にこれで……?」
「大丈夫です、河合さん。俺たちが不眠不休で作り上げた、新選組の初めての『決算書』ですから。自信を持ってください」
俺はそう言って、実直な勘定方を励ました。俺の言葉に、井上先生も穏やかに頷く。深呼吸を一つして、俺は障子を叩いた。
「永倉です。会計および兵站の改革について、第一回のご報告に上がりました」
中から「入れ」という、短く鋭い声が返る。俺たちは顔を見合わせ、部屋へと足を踏み入れた。
部屋の中央には、鬼の副長・土方歳三が腕を組んで座っていた。その鋭い眼光は、まるで獲物を前にした狼のように、俺たちが抱える帳簿の山に向けられている。
「随分と大層なものを持ってきたじゃねえか。で、俺たちの懐具合はどうだったんだ?」
土方さんの問いは単刀直入だった。俺は、一番上にあった一枚紙の帳面――前世で言うところの「損益計算書」と「貸借対照表」を簡略化したサマリーを、彼の前に差し出した。
「まずは、こちらをご覧ください。今月の、新選組の全収入と全支出をまとめたものです」
土方さんは怪訝な顔でその紙を手に取った。そこには、会津藩からの拝領金や、商家からの献金といった「収入の部」と、食費、被服費、屯所の維持費、そして各幹部や隊士への支給金といった「支出の部」が、項目ごとに整理され、具体的な金額が記されている。
「ほう……。収入がこれで、支出がこれか。差し引き、残りは……なるほどな」
数字に強い土方さんは、すぐに金の流れの概要を掴んだようだった。だが、彼の眉間の皺は深まるばかりだ。
「だが永倉、これだけじゃ、今までの帳面と大して変わらねえ。金の出入りが書いてあるだけじゃねえか」
「ここからです、副長」
俺は、分厚い帳簿の束の中から、数枚を抜き出して彼の前に並べた。
「これは、支出の詳細です。例えば、この『交際費』。誰が、いつ、どこで、何のために使った金なのか。全て記録してあります。こちらの『仕入費』も同様です。どの商人から、何を、いくらで買ったのか。先月、先々月の価格と比較して、どう変動しているのかも一目瞭然です」
俺が導入した複式簿記の真価は、この詳細な記録と追跡能力にある。金の流れを、水の流れのように透明にする。いわば、組織の金の流れを「見える化」する力だ。
土方さんは黙って帳簿のページをめくっていく。その表情が、徐々に険しくなっていくのが分かった。特に、特定の幹部が頻繁に利用している料亭への支出や、ある特定の商人から仕入れている物資の価格が、他の倍近くすることを示すページで、彼の指がピタリと止まった。
「……なるほどな。面白い。実に面白い」
土方さんの口から漏れたのは、怒りではなく、冷たい感心の声だった。
「誰が甘い汁を吸い、どこに無駄が潜んでいるか。手に取るように分かる。まるで、敵陣の配置図を見てるみてえだ」
「ご理解いただけましたか。これが『見える化』の力です。問題点が分かれば、対策が打てます。例えば、この高値で物資を納入している商人。今後は複数の商人から見積もりを取る『相見積もり』を導入し、最も安く、質の良いところから仕入れるようにします。不透明な交際費も、今後は目的と効果を明確に報告させ、本当に必要なもの以外は認めない。これだけで、月々、かなりの額が浮くはずです」
俺の言葉に、土方さんは深く頷いた。彼の合理主義の魂に、火が付いたのが分かった。
「いいだろう。そのやり方、徹底させろ。文句を言う奴がいたら、俺が叩き斬ってやる」
鬼の副長の全面的な支持を取り付けた俺は、次なる一手に打って出た。
数日後、屯所の大広間の壁に、大きな紙が貼り出された。それは、俺が土方さんに見せた会計報告を、さらに簡略化して図やグラフを多用し、誰にでも分かりやすく作り直したものだった。
「なんだありゃ?」
「永倉さんが貼り出したらしいぜ。なんでも、俺たちの稼いだ金がどう使われてるか、分かるようにしたんだと」
稽古を終えた隊士たちが、物珍しそうに貼り紙の前に集まってくる。最初は遠巻きに眺めていた彼らも、誰かが声を上げたのをきっかけに、ざわめきが広がった。
「おい、見ろよ!俺たちが毎月汗水たらして稼いでる金、こんなことに使われてたのか!」
「なんだこの『交際費』ってのは!俺たちが毎日食ってるメシ代の何倍もあるじゃねえか!」
不満の声が上がるのは、想定内だった。むしろ、それこそが狙いだった。今までは漠然と「上が使っている」としか思っていなかった金の流れが、具体的な数字として目の前に突き付けられたのだ。当事者意識が芽生えないはずがない。
もちろん、不満だけではない。貼り紙には、会計報告と並べて、棚卸しの結果判明した物資の在庫状況と、今後の補充計画も掲示してある。
「ほう、来月には新しい稽古着が全員に支給されるのか」
「見てみろ、打粉と丁子油の在庫が潤沢だ。これなら、心置きなく刀の手入れができる」
「薬も、今までの倍の量が常備されるって書いてあるぞ。これなら、ちょっとした怪我でビクビクしなくて済むな」
不満と期待。その両方が、隊士たちの間で渦巻き始めた。
そんな中、一人の若い隊士が、腕組みをして貼り紙を睨みつけていた俺に、おずおずと話しかけてきた。
「あの……永倉先生」
「ん、どうした?」
「先生は、俺たちにどうしろって言うんですか?こんなの見せられても、俺たち平隊士にできることなんて……」
彼の問いに、周りの隊士たちも同意するように頷く。俺は待ってましたとばかりに、彼らに向き直った。
「誰かを責めるために貼り出したんじゃない。これは、新選組という俺たちの『家』の家計簿だ。どうすれば、この家をもっと良くできるか、みんなで考えるためのもんだ」
俺は、支出の項目を指さした。
「例えば、この酒代。確かに、日々の疲れを癒すのに酒は必要だろう。だが、もし全員が今より一杯ずつ我慢したら、どうなると思う?」
俺は懐から炭を取り出し、貼り紙の余白に計算式を書き始めた。
「浮いた金で、新しい槍が十本買える。もっと我慢すれば、冬に備えて全員分の厚手の布団が揃えられる。さあ、どっちがいい?今まで通りダラダラ酒を飲むのと、新しい武具や布団を手に入れるのと」
隊士たちは、ゴクリと唾を飲んで俺の言葉に聞き入っている。俺はさらに続けた。
「これは命令じゃない。提案だ。俺たちの暮らしを良くするも、悪くするも、俺たち一人一人の心掛け次第だということを、知ってほしかっただけだ」
その日を境に、屯所の空気は明らかに変わった。
夕食の席で、酒を飲み過ぎようとする仲間がいれば、「おい、その一杯が槍になるんだぞ」と冗談めかして窘める声が聞こえるようになった。
稽古が終われば、竹刀を乱暴に放り出す者はいなくなり、一本一本丁寧に布で拭い、道具蔵に収めるのが当たり前になった。
共有の薬箱から薬を取り出す者も、本当に必要な分だけを使い、無駄遣いをしなくなった。
それは、俺が強制した「節約」ではない。隊士たちが自らの意志で始めた「改善」だった。自分たちの行動が、組織全体の利益に繋がり、ひいては自分たちの装備や生活の質の向上に跳ね返ってくる。その当たり前の事実を、「見える化」された数字と物資が実感させたのだ。
改革に懐疑的だった古参の隊士たちも、文句の言いようがなかった。なぜなら、彼らが最も重視する武具の質が、目に見えて向上したからだ。常に手入れの行き届いた刀、ささくれ一つない竹刀、潤沢に供給される消耗品。剣に生きる彼らにとって、これ以上の説得材料はなかった。
ある日の夕暮れ時。俺が一人、道場の隅で素振りをしていると、背後から静かな声がかかった。
「永倉」
振り返ると、そこに立っていたのは土方さんだった。いつものように腕を組み、射抜くような目で俺を見ている。
「……感心したぜ。まさか、貼り紙一枚でこうも空気が変わるとはな」
屯所内を巡回してきたのだろう。その口調には、驚きと、隠しきれない称賛の色が滲んでいた。
「やっぱ、ただの剣術バカじゃねえな。てめえ、面白い知恵を隠し持ってるじゃねえか」
「新選組を、日本最強の組織にするためですから」
俺は汗を拭いもせず、静かに答えた。土方さんはフッと鼻で笑うと、背を向けた。
「その意気だ。せいぜい、その知恵を絞り続けるんだな。この新選組のためによ」
去っていく鬼の副長の背中を見送りながら、俺は木刀を握りしめた。
カネとモノの流れを正常化し、組織にコスト意識を芽生えさせる。それは、前世の官僚時代に叩き込まれた組織論の基本だ。だが、この幕末の京都で、それがこれほどの力を持つとは。
「見える化」は、単なる経費削減の手段ではない。組織に共通の目的意識を与え、一人一人を当事者にする力がある。バラバラだった二百人以上の隊士たちが、今、「新選組を良くする」という一つの目標に向かって、少しずつ心を一つにし始めている。
これでまた一つ、内部崩壊に繋がるフラグを叩き折れたはずだ。
俺は静かに安堵の息をつき、再び木刀を構えた。
土方副長の承認を得て、主人公は会計報告を隊士全員に公開しました。
金の流れが明らかになったことで、隊士たちの間に不満と期待が渦巻きます。
それは、組織全体で課題を共有し、解決へと向かうための重要な一歩です。
当事者意識が芽生えた隊士たちと共に、新選組の改革が前進します。




