第58話:兵站という生命線
会計改革を推し進める新八が次に着目したのは、組織の「モノ」の流れ、すなわち兵站です。
隊士の増加に伴い、必要不可欠な物資の管理が追いついていない。
組織の根幹を揺るがしかねないこの問題に、彼は現代知識を駆使して立ち向かいます。
土方副長から会計改革の全権委任を取り付けて数日。俺と井上先生、そして勘定方の河合耆三郎が主導する「財政健全化」は、静かに、しかし着実に始動していた。
まずは、金の流れを可視化するための複式簿記の導入。俺が前世の知識を元に作成した帳簿の見本を元に、河合が必死にその仕組みを学んでいる。最初は「かりかた?かしかた?」と首を傾げていた彼も、持ち前の真面目さと几帳面さで、驚くべき速度でその本質を吸収しつつあった。
「永倉さん、この仕組みは面白いですな。金が一つ動けば、必ず二つの場所に記録が残る。これなら、誰かがごまかそうとしても、すぐに足がつく」
目を輝かせながら帳簿に見入る河合の姿は、この改革の成功を予感させるには十分だった。
しかし、組織の改革とは、一つの歯車を回しただけでは前に進まない。カネの流れを整え始めた今、俺の目には次なる課題がはっきりと見えていた。それは、「モノ」の流れ――すなわち兵站の管理だ。
きっかけは、稽古終わりの屯所の縁側でのことだった。若い隊士が二人、愛刀を手に何やら困った顔で話し込んでいる。
「おい、また打粉が蔵から無くなっていたぞ」
「ええ?この前補充されたばかりじゃねえか。一体誰がそんなに使ってるんだ?」
「分からねえ。仕方ねえから、俺のやつを少し分けてやるよ。だが、こうも頻繁に無くなると、刀の手入れもままならねえ」
何気ない会話だったが、俺の耳には警鐘のように響いた。
刀は武士の魂だ。その手入れ道具が不足するというのは、銃で戦う兵士から弾を取り上げるに等しい。池田屋事件以降、隊士の数は急増し、今や二百名に届こうかという大所帯だ。組織の規模が拡大する一方で、それを支える物資の管理が全く追い付いていない。
問題は、打粉だけではなかった。俺が少し注意して屯所内を見渡してみれば、綻びは至る所に見て取れた。
袖が擦り切れたままの隊服で巡察に出る者。ちょっとした切り傷を、不衛生な布で覆っている者。稽古で使う竹刀がささくれ立ったまま放置されている道場。
これらは全て、兵站管理の欠如が原因だ。必要な物資が、どこに、どれだけあるのか。誰が、いつ、どれだけ使ったのか。そして、次にいつ、どれだけ補充すればいいのか。誰も把握していない。全てが場当たり的で、どんぶり勘定だ。
これでは、いくら会計を健全化しても意味がない。ザルの底に穴が空いているのに、必死に水を注ぎ続けているようなものだ。
「―――というわけでして、井上先生。俺は、物資の管理体制も、会計と同時に改革すべきだと考えています」
俺は早速、改革の同志である井上源三郎先生の部屋を訪ね、現状の問題点と改革の必要性を訴えた。俺の言葉に、温厚な先生は眉をひそめ、深く頷いた。
「なるほどな、永倉君。君の言う通りだ。俺も、若い者たちが困っているのは薄々気づいていた。特に薬だな。怪我人が出ても、十分な薬がないことが度々あった。だが、どこから手をつければいいものか……」
「まずは、現状を把握することから始めます。つまり、『棚卸し』です」
「たなおろし?」
聞き慣れない言葉に、井上先生は小首を傾げた。
「はい。屯所内にある全ての蔵や倉庫を開け、そこに何が、どれだけあるのかを全て数え上げ、帳面に記録するんです。刀剣の手入れ道具、隊服、医薬品、食料、炭や薪、稽古道具……。新選組の財産全てをです」
「全てを、か……。それは骨が折れる作業になりそうだな」
「ですが、これをやらなければ始まりません。自分たちの財産がどれだけあるか分からなければ、計画的な使い方も、補充もできないからです」
俺はさらに続けた。
「棚卸しで在庫を把握したら、次は各組、各部署から、月々どれくらいの物資が必要になるか、見積もりを提出させます。そして、その需要予測に基づいて、計画的に物資を購入、補充していく。これが、俺の考える新しい兵站管理の仕組みです」
前世では、商業科の高校生だったら、その基礎知識は知っているだろう、サプライチェーン・マネジメントの初歩の初歩。だが、この時代、この組織においては、革命的な発想のはずだ。
俺の熱弁に、井上先生は腕を組んでしばらく考え込んでいたが、やがて顔を上げると、その実直な瞳で俺を真っ直ぐに見据えた。
「分かった。理屈はよく分かった。隊士たちの生活を守るため、そして新選組を強くするために、必要なことなのだろう。永倉君、俺も力を貸そう。具体的には、何をすればいい?」
井上先生という、現場を知り尽くした実務家の協力は、何よりも心強かった。俺たちはその場で、具体的な段取りを詰め始めた。まずは、棚卸しのための帳簿の作成。そして、各組長に改革の意図を説明し、協力を取り付けることだ。
数日後、俺と井上先生は、近藤局長をはじめとする幹部たちが集まる席で、兵站改革案について説明する機会を得た。会計改革の一件以来、俺が何か新しいことを言い出すと、幹部たちの間に緊張と期待が入り混じったような空気が流れるようになった気がする。
俺は、隊士たちが直面している物資不足の現状を具体例を挙げて説明し、棚卸しと需要予測に基づいた計画的な物資管理の必要性を説いた。
「……戦は、剣の腕前だけで決するものではありません」
俺は、居並ぶ幹部たち一人一人の顔を見渡しながら、語気を強めた。
「いかに屈強な兵士でも、腹が減っては戦えません。弾がなければ、最新の銃もただの鉄の棒です。破れた隊服、手入れの行き届かない刀、そして傷を癒す薬すらない。そんな状態で、どうして隊士たちに『死ぬ気で戦え』と命じることができましょうか」
俺はそこで一度言葉を切り、静まり返る部屋の中で、最も伝えたかった言葉を口にした。
「戦は剣のみにあらず。弾薬、食料、そして隊士たちの生活を支える兵站こそが、我々の生命線です。この生命線を確立することなくして、新選組の未来はありません」
俺の言葉に、近藤局長が深く、深く頷いた。その大きな瞳は、感動に潤んでいるようにさえ見えた。
「永倉君、君の言う通りだ。俺は、隊士たちを家族だと思っている。その家族が、日々の生活に困っていることに気づいてやれなかったとは……局長失格だな。井上先生、そして永倉君。その改革、すぐに進めてくれ。俺も全面的に協力する」
近藤局長の鶴の一声で、兵站改革は正式に承認された。土方副長は最後まで腕を組んだまま黙って話を聞いていたが、特に異を唱えることはなかった。彼もまた、組織を維持するための合理的な判断だと認めてくれたのだろう。
その日から、俺と井上先生の戦いが始まった。
まずは、屯所の大掃除も兼ねた、大規模な棚卸しだ。
「おい、こんな奥から古びた槍が十本も出てきたぞ!」
「こっちの蔵はひどいな。湿気で薬草の半分が駄目になっている」
「隊服の寸法がバラバラだ。これじゃあ、体の大きい奴は着るものがないじゃないか」
最初は「面倒くせえ」「剣を振るう方がマシだ」と文句を言っていた隊士たちも、自分たちの生活環境が、いかに劣悪な管理体制の上に成り立っていたかを目の当たりにするにつれ、次第にその顔つきが変わっていった。
井上先生は、持ち前の人の良さで、文句を言う若者たちをうまくなだめ、すかし、時には父親のように諭しながら、作業全体をまとめていく。俺は、各部署から上がってくる在庫の報告を帳簿に整理し、全体の状況を把握することに努めた。
数日後、新選組の全財産の目録が完成した時、我々は改めて愕然とすることになる。無駄に死蔵されている武具、管理不届きで使い物にならなくなった備品、そして、慢性的に不足している日用品や医薬品……。
だが、それは絶望ではなかった。むしろ、希望の始まりだった。
問題点が明らかになれば、あとは解決策を実行するだけだ。
俺は完成した在庫目録と、各組から集約した需要予測を手に、井上先生と向き合った。
「先生、これを見てください。来月は、打粉と手入れ用の油をこれだけ、医薬品をこれだけ、計画的に購入します。そして、隊服は各隊士の寸法を測り直し、新しい仕立て屋に相見積もりを取って発注しましょう」
「うむ。これなら、無駄なく、必要なものを揃えられるな」
井上先生は、感心したように帳簿に見入っている。
カネとモノ。組織を動かす二つの血液の流れが、今、俺たちの手によって正常化されようとしていた。それは、不逞浪士を斬り伏せるような華々しい戦いではない。しかし、この地道な改革こそが、新選組という組織の土台を固め、仲間たちを理不尽な死から守り、そして、俺が目指す「誰も死なない未来」へと繋がる、確かな一歩であると信じていた。
夕暮れの光が差し込む部屋で、俺は帳簿の数字を睨みながら、静かに闘志を燃やしていた。
「戦は剣のみにあらず、兵站こそが生命線」
主人公の熱い訴えは近藤局長の心を動かし、兵站改革が正式に承認されました。
会計に続き、物資管理という組織のもう一つの心臓部にもメスが入ります。
改革の道はまだ始まったばかりです。




