第57話:財政改革の狼煙
井上源三郎という心強い味方を得た永倉新八は、ついに財政改革案を完成させます。
しかし、その前に新選組の事実上の最高権力者、土方歳三という最大の壁が立ちはだかります。
井上源三郎先生という強力な味方を得て、俺は会計改革案の策定を急いだ。河合耆三郎を交え、三日三晩、屯所の片隅で知恵を絞り、ようやく具体的な改革案をまとめることができた。
残る最大の関門は、新選組の事実上の最高権力者である土方歳三の説得だ。
「―――以上が、俺が考える新しい会計制度の骨子です」
副長室の静寂を、俺の声だけが満たしていた。土方さんは腕を組み、目を閉じたまま、俺が提出した分厚い建議書に目を通すこともなく、ただ黙って耳を傾けている。その表情からは、賛成なのか反対なのか、一切の感情を読み取ることはできない。
俺が提示した改革案の柱は、大きく三つだ。
第一に、「複式簿記」の導入。全ての金の出入りを「借方」と「貸方」に分けて記録し、財産の増減とその原因を常に一対で把握する。これにより、誰がいつ、何のために金を使ったのか、金の流れがガラス張りになる。河合のような真面目な人間が一人で帳簿と格闘し、使途不明金に頭を悩ませることもなくなるはずだ。
第二に、「予算制度」の確立。各組、各部署から月々の活動に必要な経費の見積もりを提出させ、それを勘定方と幹部が査定し、月々の予算を割り当てる。これにより、無駄な支出を事前に抑制し、計画的な財政運営を可能にする。
そして第三に、「相見積もり」の義務化。隊で必要な物品を購入する際は、必ず複数の業者から見積もりを取り、最も安く、質の良いものを選ぶことを規則とする。特定の御用達商人と癒着し、不当な高値で品物を掴まされることを防ぐためだ。
これらは、俺が予算編成や執行に携わっていた頃に叩き込まれた、財政規律のイロハだった。この時代の武士の組織に、そのまま持ち込むのは無理があるかもしれない。だが、このエッセンスだけでも導入できれば、新選組の財政は劇的に改善されるはずだ。
俺が説明を終えても、土方さんはしばらく沈黙を続けていた。やがて、ゆっくりと目を開くと、その視線が俺を射抜いた。
「永倉」
「はっ」
「お前は、新選組を何だと思っている?」
その声は、氷のように冷ややかだった。
「……京の治安を守り、ひいては幕府をお支えする、武士の集団であると心得ております」
「違うな」
土方さんは、俺の言葉をあっさりと切り捨てた。
「新選組は、戦うための組織だ。俺たちに必要なのは、敵を斬る腕と、死を恐れぬ覚悟。それだけだ。お前の言うことは、まるで商家の番頭じゃねえか。算盤勘定にうつつを抜かして、いざという時に剣が振るえなくなっては本末転倒だ。隊士たちには、そんなくだらん雑事に気を取られず、戦働きに集中させろ」
予想通りの、しかし、あまりにも手厳しい拒絶だった。土方さんにとって、組織とはただ、近藤勇という太陽を輝かせるために存在する。そのためには、清濁併せ呑むことも厭わない。金の流れが多少不透明だろうが、隊士たちがそれで士気を高く保ち、戦場で命を懸けてくれるなら、それでいい。それが彼の考え方なのだろう。
だが、ここで引き下がるわけにはいかない。俺は一歩も引かず、土方さんの目を真っ直ぐに見返した。
「土方副長。戦は、金がなければ続けられません」
「……何?」
「池田屋の一件で、我々は確かに名を上げました。会津藩からの覚えもめでたい。ですが、それはあくまで一時的なもの。これから先、新選組がさらに大きくなり、京の護り手としての務めを果たし続けるためには、今とは比較にならないほどの金が必要になります」
俺は、建議書の中から一枚の紙を抜き出し、土方さんの前に差し出した。
「これは、俺が試算した、来月以降に必要となる経費の見込みです。隊士の増員に伴う人件費、屯所の増改築費、洋式銃や大砲の購入費……。これらを全て会津藩からの支援金だけで賄うのは、もはや不可能です」
紙に目を落とした土方さんの眉が、わずかに動いた。そこに並んだ数字の羅列が、俺の言葉が単なる机上の空論ではないことを物語っていた。
「俺は、隊士たちから剣を取り上げろと言っているのではありません。むしろ逆です。彼らが心置きなく剣を振るえるようにするためにこそ、この改革は必要なんです。金銭の不正は、組織の規律を内側から蝕む病です。今はまだ小さな膿でも、放置すればいずれ全身に転移し、新選組という屈強な肉体を食い破る。そうなってからでは、もう手遅れです」
俺は言葉を続けた。
「それに、土方副長。あなたは、この新選組をいずれ、一介の浪士集団ではなく、幕府直参の、正式な武士の組織にしたいと願っているはず。ならば、なおのこと、金に汚いという評判が立つことだけは避けなければなりません。武士の誉れは、剣の腕前だけで決まるものではない。清廉潔白さもまた、武士の徳です。この改革は、新選組が名実ともに、日の本一の武士集団となるための、いわば『身分証明書』なのです」
俺の熱のこもった言葉に、土方さんは再び目を閉じ、深く息を吐いた。部屋に、再び沈黙が訪れる。だが、先ほどの冷え冷えとした空気とは、明らかに何かが違っていた。
「……新八」
「はっ」
「お前は、そこまで見越して、この建議書を書いたのか」
「見越す、などと大それたことでは……。ただ、俺は、この新選組が好きです。近藤局長や、土方副長、そして仲間たちと共に、一日でも長く、この道を歩みたい。そのためには、避けては通れない道だと信じているだけです」
俺の偽らざる本心だった。史実を知るがゆえの焦りも、もちろんある。だが、それ以上に、この時代で得た仲間たちと、この組織を守りたいという想いが、俺を突き動かしていた。
土方さんは、閉じていた目をゆっくりと開くと、初めて俺が差し出した建議書を手に取った。そして、一頁、また一頁と、丹念に目を通し始めた。その真剣な横顔を、俺は固唾を飲んで見守った。
どれくらいの時間が経っただろうか。建議書の最後の頁を読み終えた土方さんは、それを静かに机の上に置くと、俺に向かって、ふっと口元を緩めた。それは、いつもの不敵な笑みとは違う、どこか面白がるような、それでいて、何かを認めたような、不思議な表情だった。
「……面白い。そこまで言うなら、やってみろ」
「!」
「ただし、条件がある」
土方さんは、人差し指を一本立てた。
「この件は、お前が全責任を負え。勘定方の河合、そして井上源三郎の補佐は認める。だが、もしこの改革が原因で隊内に不協和音が生じ、組織の力が削がれるようなことがあれば、その時は……分かっているな?」
斬る、とは言わなかった。だが、その瞳が持つ鋭さは、何よりも雄弁にその先の言葉を物語っていた。
「御意。この永倉新八、命を懸けて、この任、果たしてご覧に入れます」
俺は、その場で深々と頭を下げた。
顔を上げた俺に、土方さんはニヤリと笑いかけた。
「せいぜい、隊士たちから後ろ指をさされんよう、上手くやることだな。金勘定にうるさい組長殿、か」
その言葉は、皮肉のようでありながら、どこか俺への期待が込められているようにも聞こえた。
こうして、新選組の財政改革は、ついにその狼煙を上げた。それは、血飛沫も上がらず、鬨の声も響かない、静かな戦いの始まりだった。だが、この戦いの先にこそ、新選組が、そして徳川幕府が生き残る未来があると、俺は確信していた。
副長室を辞した俺の足は、自然と勘定方の部屋へと向かっていた。障子の向こうで、不安げに俺の帰りを待っているであろう、二人の仲間へ、吉報を届けるために。
武士の組織に商家のやり方は不要とする土方に対し、新八は組織の未来を懸けて説得を試みました。
永倉の熱意と組織への想いは、ついに「鬼の副長」土方歳三を動かしました。
しかし、それは改革の失敗が自らの命で償うことを意味する、厳しい条件付きの許可です。
隊士たちの反発も予想される中、新選組の未来を賭けた新八の戦いが続きます。




