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第56話:組織の足元

組織の急成長は、隊士たちの気の緩みと、ずさんな経理という新たな問題を生み出します。

新八は、組織の足元に潜む危機に気づいていました。

 会津藩主・松平容保公から直々に将器を認められ、新選組の立場は劇的に向上した。これまで「壬生浪みぶろ」と蔑まれ、半ば厄介者として扱われてきた俺たちは、名実ともに京の護り手として、会津藩という強大な後ろ盾を得たのだ。


 屯所である八木邸や前川邸は、かつてない活気と高揚感に包まれていた。

「聞いたか!会津の殿様が、永倉組長と土方副長をえらくお認めになったそうだ!」

「おうよ!これで俺たちも、晴れて武士様だ!」

「これからは給金も上がるらしいぞ!」


 廊下をすれ違う隊士たちの顔は、誰もが誇りと期待に輝いている。池田屋での大勝利、そして今回の会津藩からの正式な信任。立て続けに舞い込んだ吉報は、血気盛んな若者たちを浮き足立たせるには十分すぎた。


 だが、俺はその喧騒の中心にありながら、一人、静かな冷や水を頭から浴びせられているような感覚に陥っていた。


(浮かれている場合じゃない……)


 土方さんに釘を刺された言葉が、耳の奥で反響する。

『お前のその『地図』は、強力すぎる刃だ。使い方を誤れば、俺たち自身を斬り刻むことになる』


 その通りだ。情報という武器は、組織という強固な鞘があって初めて、その真価を発揮する。今の新選組は、確かに勢いがある。だが、その内実はどうだ?急激に膨れ上がった組織は、至る所で軋み始めていた。


 俺の懸念が、具体的な形で目の前に現れたのは、その数日後のことだった。


「永倉組長!ちいとよろしいですかい?」


 俺が自室で報告書の整理をしていると、二番組の若い隊士が威勢よく入ってきた。手には、真新しい鎖帷子と鉄甲。


「見回り中にチンピラ浪士に絡まれましてね。この通り、具足が役に立ちやした。これも組のおかげです。つきましては、この代金を経費でお願いしやす!」

 そう言って、彼は一枚の紙を差し出した。それは武具屋の署名だけが書かれた、いわゆる「白紙の領収書」だった。金額はこちらで書け、ということだろう。


「……なるほど。ご苦労だった。ところで、これはいくらしたんだ?」

「へい!確か……ええと、五両と二分だったかと!なに、これも京の安寧のため。安いもんでさ!」


 男は悪びれもせず、胸を張る。五両二分。法外な値段ではないが、本当にその値段だったという保証はどこにもない。彼の懐に一両か二両、余分に入ったとしても、それを証明する術はなかった。


 俺は黙ってその紙を受け取り、「わかった。勘定方に回しておこう」とだけ答えた。隊士は「ありがとうございやす!」と元気よく頭を下げ、意気揚々と部屋を出ていく。


 俺は、その場に一人残され、深く長い溜息をついた。

 これだ。これが、今の新選組が抱える、最も根深く、そして危険な病巣だった。


 池田屋事件以降、新選組の名は京に轟き、入隊希望者が殺到した。隊士は二百名近くまで膨れ上がり、それに伴って屯所の維持費、隊士たちの食費、被服費、そして市中見回りに必要な諸経費は、鰻登りに増え続けている。


 会津藩からの支援金は確かにありがたい。だが、金の入りが良くなったことで、かえって全体の金の流れが不透明になり、隊士たちの金銭感覚を麻痺させつつあった。いわゆる「どんぶり勘定」。組織が崩壊する、典型的な兆候だ。


 このままでは、いくら会津藩からの支援があっても、いずれ底をつく。いや、それ以前に、組織の規律そのものが、内部から腐り落ちていく。


(手を打つなら、今しかない)


 俺は席を立った。向かう先は、屯所の片隅にある勘定方の部屋だ。


 障子を開けると、算盤と墨の匂いが鼻をついた。部屋の主である勘定方・河合耆三郎かわい きさぶろうが、山と積まれた帳簿を前に、青い顔で頭を抱えていた。


「河合さん、少しよろしいか」

「あ……永倉組長。これはご丁寧に……」


 河合は、人の好さそうな顔をさらに困らせて、慌てて居住まいを正した。彼はもともと大坂の商家出身で、剣の腕は立たないが、算術の才を買われて勘定方を任されている。史実では、金策に苦しみ、その責任を一身に背負って切腹に追い込まれる悲劇の男だ。


「いや、組長などと畏まらないでくれ。少し、金の流れについて確認したいことがあってな」

 俺はそう言うと、彼の目の前にある帳簿を指さした。


「最近、支出がかなり増えていると聞く。帳簿を見せてもらっても?」

「は、はい……ですが、その、お見せできるようなものでは……」

 河合は口ごもり、視線を泳がせる。その反応だけで、俺は全てを察した。


「構わん。見せてくれ」

 俺が有無を言わせぬ口調で言うと、河合は観念したように、恐る恐る一冊の大福帳を差し出した。


 頁をめくった俺は、改めて事態の深刻さを思い知らされた。

 収入の欄には「会津藩御預かり金」「商家からの献金」などと大雑把な記載があるだけ。支出の欄に至っては、さらに酷い。


『隊服新調一式』

『刀剣購入費』

『酒食代』

『交際費』


 項目だけが並び、具体的な日付や支払先、そして何より、誰が、何のために支出したのかという肝心な情報がほとんど抜け落ちている。これでは、金の流れを追跡することなど不可能だ。使途不明金が、そこかしこに転がっている。


「……河合さん。あんた、これでよく今までやってこられたな」

 俺の静かな声に、河合の肩がびくりと震えた。


「も、申し訳ありませぬ!当初は、数も少なく、これでも何とかなっておりました。しかし、池田屋以降、人が増え、金の出入りが急激に……。土方副長からは『とにかく隊士に不自由をさせるな』とだけ言われ、私もどうすればよいのか……」

 彼の声は、涙で震えていた。真面目な男なのだ。だからこそ、この混沌とした状況に、一人で苦しみ抜いていたのだろう。


 俺は帳簿を閉じ、静かに言った。

「あんた一人の責任じゃない。これは、新選組全体の仕組みの問題だ。俺も、今まで気づけなかったのが迂闊だった」


「永倉組長……」

 河合が、すがるような目で俺を見る。


「だが、もう猶予はない。このままでは、新選組は内側から腐る。早急に、金の流れを立て直す必要がある」


 俺の言葉に、河合はこくこくと頷く。だが、彼の顔には「具体的にどうすれば?」という不安が色濃く浮かんでいた。


 俺は、その不安を払拭するように、穏やかながらも、きっぱりとした口調で言った。

「まず、井上源三郎先生のところへ行くぞ。この改革には、源さんの協力が不可欠だ」


「なるほど……。それは、儂も薄々感じておったことだ」


 俺と河合から事情を聞いた井上源三郎は、柔和な顔に深い皺を刻み、重々しく頷いた。六番組組長であり、試衛館時代からの最古参である源さんは、その温厚篤実な人柄で、若い隊士たちから「先生」と慕われるまとめ役だ。近藤局長や土方副長に直接言いにくいことでも、源さんを通せば角が立たない。


「金は、組織の血液のようなものだからのう。その流れが濁れば、体も病気になる。しかし、新八。具体的に、どう立て直すというのだ?今さら、隊士たちに『金を使うな』と言っても、不満が募るだけではないか?」


 源さんの懸念はもっともだ。一度緩んだ財布の紐を、ただ締め上げるだけでは、必ず反発が起きる。


「ええ。ですから、ただ締め上げるのではありません。『仕組み』を作るのです」

 俺は懐から紙を取り出し、源さんと河合の前に広げた。そこには、「予算管理」と「経費精算」の概念図が、この時代の人々にも理解できるよう、簡略化して書き記してあった。


「まず、第一に『目安箱』ならぬ『遣い金の見積もり』を、各組、各部署から提出させます。ひと月あたり、組の運営にどれくらいの金が必要か。武具の補充、隊士の食費、情報収集のための交際費など、項目ごとに、必要な金額を事前に見積もらせるのです」


「ほう、『見積もり』か」

 源さんが興味深そうに身を乗り出す。


「はい。そして、勘定方はその見積もりを精査し、組ごとに『今月の遣い金の上限』を定めます。これが『予算』です。隊士たちは、原則として、その予算の範囲内で活動する。もし、どうしても予算を超える支出が必要な場合は、事前に局長、副長、そして源先生の許可を得ることを義務付けます」


「なるほどな。無駄な支出を事前に抑制できる、というわけか」


「その通りです。そして第二に、支出の『証文』を徹底させます」

 俺は先ほどの隊士が持ってきた白紙の領収書を二人に見せた。


「このような、誰が、いつ、どこで、何に、いくら使ったのか分からぬ紙は、今後一切認めません。全ての支出に対し、必ず店主から日付、品名、金額、そして店の印が押された『仕切書』あるいは『受取』をもらうことを、隊の規則とします。この証文がなければ、一銭たりとも金は出さない。これを徹底するのです」


 河合が「そ、そんなことが本当に可能でしょうか。隊士たちが素直に従うとは……」と不安げに呟く。


「だからこそ、源先生のお力が必要なのです」

 俺は、井上の顔を真っ直ぐに見た。


「これは、単なる会計改革ではありませぬ。新選組という組織の規律を、根底から作り直す作業です。土方副長が『局中法度』という『外』の規律で隊士を縛るなら、我々は『会計』という『内』の規律で、組織の足元を固めるのです。源先生には、この改革の意図を、丁寧に、粘り強く、隊士たちに説いていただきたい。これは、俺たち全員が、武士として生き残るための戦いなのだと」


 俺の言葉に、源さんはしばらく目を閉じ、深く考え込んでいた。やがて、ゆっくりと目を開けると、その瞳には、確固たる決意の光が宿っていた。


「……わかった。新八、お主の言う通りだ。儂も、このままではいかんと思っていた。お主のその『仕組み』、儂が責任をもって、隊全体に浸透させてみせよう。河合殿も、それでよいな?」


「は、はい!井上先生がお力添えくださるなら、これほど心強いことはありませぬ!私も、この身命を賭して、勘定方の務めを果たします!」

 河合の顔には、もはや先ほどの絶望の色はなかった。やるべきことが明確になったことで、かえって闘志が湧いてきたようだった。


 こうして、新選組の静かなる内部改革が始まった。

 情報戦という華々しい戦果の裏で、俺は組織の土台を固めるという、地味だが、しかし決定的に重要なもう一つの戦いに着手した。


 剣の腕前でも、戦略眼でもない、組織運営のノウハウ。それこそが、この時代を生き抜くための、俺だけの最強の武器なのかもしれない。


 俺は、窓の外に広がる京の町並みを見つめた。徳川幕府を史上最強の近代国家に魔改造する。その壮大な目標への道は、まず、この小さな組織のどんぶり勘定を正すことから始まるのだ。


新八が提案した「予算管理」と「経費精算」の仕組みは、組織の腐敗を防ぐための大手術です。

井上源三郎と河合耆三郎はこの改革案に賛同しますが、金銭に甘くなっていた隊士たちからの反発は必至でしょう。

新選組の内部改革という、地味ながら最も重要な局地戦がはじまります。

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