第55話:戦略眼
「情報地図」を認められた永倉新八に、松平容保は次なる問いを投げかけます。
それは、情報をいかにして使うかという具体的な戦略でした。
新八は、敵の資金源や武器の流れ、情報網の「急所」を的確に叩くという、冷徹かつ大胆な作戦を披露します。
新選組は新たなステージへとその一歩を進めます。
松平容保公からの、望外の言葉だった。
「その功、決して忘れぬ。そして、その類稀なる才、これからも存分に、この京の安寧のために振るってもらいたい。会津藩は、そなたたちの働きに、最大限の支援を約束しよう」
俺は床に額がつくほどに下げていた頭を、ゆっくりと上げた。顔を上げると、先ほどまで侮蔑と懐疑の色に染まっていた会津藩の重臣たちが、まるで得体の知れない化け物でも見るかのような目で俺を見つめている。その視線には、もはや侮りは欠片もなかった。あるのは、驚愕と、そしてわずかな畏怖。
部屋の重苦しい空気は一変していた。俺が広げたこの巨大な『情報地図』が、彼らの常識を根底から覆してしまったのだ。
沈黙が支配する中、上座の容保公が再び静かに口を開いた。その声は、先ほどよりもさらに深く、思慮に富んだ響きを帯びていた。
「永倉新八。その『地図』、見事なものだ。京の裏側に、これほどまでの闇が広がっていようとは……。だが、問題はこれからだ。この『地図』を、我らはいかにして使うべきか。そなたの存念を聞かせよ」
来たか。俺の真価が問われる、第二の質問だ。
情報を集め、分析するだけなら、ただの優秀な「書記」だ。為政者が求めるのは、その先。分析から導き出される、具体的かつ効果的な「次の一手」。つまり、戦略だ。
俺は居住まいを正し、再び『地図』へと向き直った。
「はっ。御前にて失礼とは存じますが、この『地図』を用いて愚見を述べさせていただきます」
俺は立ち上がり、複雑に絡み合った無数の線を指し示した。
「まず、ご理解いただきたいのは、この黒い線で示された協力者の繋がり、これを全て根絶やしにしようと試みるのは、下策中の下策である、ということにございます」
「下策だと?」
側近の一人が、怪訝な声を上げた。敵の協力者ならば、一人残らず捕縛するのが当然ではないか、という表情だ。
「いかにも。彼らの多くは、確固たる思想を持たぬまま、わずかな金銭や、あるいは同郷の誼、義理人情で動かされているに過ぎませぬ。これらを全て捕縛すれば、市井の混乱は計り知れず、かえって民の心を幕府から引き離す結果を招きましょう。それは、敵の思う壺にございます」
俺の言葉に、容保公が深く頷いた。彼の憂いは、常に京の民の安寧にある。その心を、俺は正確に突いた。
「では、どうするのだ」と、別の家老が問う。
「『急所』を叩くのです」
俺は、地図の上に置いた指を滑らせ、いくつかの点を力強く叩いた。
「この図をご覧ください。全ての線が、平等に繋がっているわけではございません。ある特定の人物を経由して、情報や金が流れている『結節点』とも言うべき場所が、いくつも存在いたします」
俺はまず、黄色い『金脈』の線が集中する二つの名前を指した。呉服商『扇屋』と、とある両替商だ。
「例えば、この『扇屋』。確かに桂小五郎への大きな資金源ですが、ここはあくまで表の顔。いわば『財布』に過ぎませぬ。真の『心臓』は、薩摩藩との繋がりを持つ、こちらの両替商にございます。ここが、各所から集めた資金を一つにまとめ、桂へと流す大元。扇屋とこの両替商、二つを同時に、寸分の隙もなく押さえるのです。それも、金の受け渡しが行われる瞬間に。そうすれば、金の流れという動かぬ証拠と共に、両名を捕縛できます。桂の資金源は、これで八割方、断ち切ることが可能かと」
前世で叩き込まれた、金融犯罪の捜査手法そのものだ。金の流れを追い、金の受け渡し現場を押さえる。単純だが、最も効果的なやり方だ。
次に、俺は紫の『武器』の線を指した。堺の商人『和泉屋』の名がそこにある。
「鉄砲百丁を運ぶという和泉屋。これを堺で捕らえても意味はありませぬ。相手は『陶器を運ぶだけだ』と白を切るでしょう。泳がせるのです。船が淀川を遡り、京の荷揚げ場に到着する、その瞬間を狙います。荷揚げを手伝う協力者も、武器の受け取りに来る浪士も、そして証拠となる鉄砲も、全て一網打尽にできます。これ以上ない見せしめとなりましょう」
重臣たちの息を呑む音が聞こえる。彼らの頭の中では、おそらく、怪しいと睨んだ商家に踏み込み、力づくで蔵を検める、といった程度の発想しかなかっただろう。俺の提案は、それとは次元が違った。敵の行動を完全に予測し、最も効果的なタイミングで、最小の労力で最大の結果を得るための、冷徹な計算に基づいていた。
そして最後に、俺は最も厄介な黒い『協力者』のネットワークに視線を戻した。
「この無数の協力者たち。彼らを動かしているのは、数名の『連絡役』にございます。この畳屋、そして三条大橋のたもとで小間物屋を営むこの男。彼らが、桂からの指令を末端の協力者へと伝え、逆に市井の情報を吸い上げて桂に報告する『中継地点』の役割を果たしております」
俺は、その二つの名前を指でなぞった。
「この二人を捕縛、あるいは厳重な監視下に置くだけで、組織網の大部分は機能不全に陥ります。手足はまだ残っていても、脳からの命令が届かなくなるのです。あとは、我らが意図的に偽の情報を流せば、敵の内部に疑心暗鬼を生み、自滅させることすら可能にございます」
情報戦、心理戦。それこそが、俺が前世で培った官僚としての真骨頂だった。剣の腕前だけではない。この国を動かすための、もう一つの力。
俺が説明を終えると、部屋は再び静寂に包まれた。だが、先ほどの静寂とは明らかに質が違う。それは、圧倒的な知性の奔流を前にした、畏敬の念から来る静寂だった。
やがて、容保公が、まるで宝物でも見るかのような目で俺を見つめ、深く、そして静かに言った。
「……永倉新八。そなたは剣の腕だけでなく、軍略の才も持ち合わせているか」
その言葉は、雷鳴のように俺の心に響いた。あらすじ通りの、最高の賛辞。だが、容保公の言葉は、それだけでは終わらなかった。
「土方殿」
「はっ」
泰然と控えていた土方さんが、静かに応じる。
「よき人材を得たな。いや、この者はもはや、新選組という一つの組織に収まる器ではないのかもしれぬ。まさに、国家の柱石となるべき才だ」
その言葉に、俺ではなく、隣にいた土方さんの肩が微かに震えたのを、俺は見逃さなかった。彼の驚きと、そしておそらくは誇りが、その震えに表れていた。
容保公は、満足げに頷くと、居並ぶ家臣たちに向かって、そして俺たちに向かって、厳かに宣言した。
「これより、京における不逞浪士の掃討作戦は、新たな段階に入る。作戦の指揮は、会津藩家老・田中土佐を総責とし、実行部隊の指揮は、新選組局長代理・土方歳三、そして……永倉新八、そなたにも一任する!」
「なっ……!」
「殿!?」
さすがに、重臣たちから驚きと、かすかな反対の声が上がった。一介の組長に過ぎない俺を、指揮官の一人に任命するなど、前代未聞の人事だ。
だが、容保公は手でそれを制した。
「身分や慣例を問うている時ではない。我らに必要なのは『実』だ。この男には、それがある。異論は認めぬ」
その鶴の一声で、全てが決した。俺は、土方さんと共に、再び深く頭を下げた。新選組が、そして俺が、名実ともに会津藩、いや幕府直属の戦略部隊として認められた瞬間だった。
金戒光明寺からの帰り道、土方さんは一言も口を開かなかった。夕暮れの光が、彼の横顔を険しく照らしている。屯所が見えてきた頃、彼がようやく、ぽつりと言った。
「……永倉」
「はい」
「今日の献策、見事だった。お前のおかげで、俺たちの悲願が一つ、叶った」
「副長あっての策です。俺一人では、このような機会は到底……」
「謙遜はよせ」
土方さんは俺の言葉を遮り、立ち止まった。そして、俺の目を真っ直ぐに見据えた。その瞳の奥に、複雑な光が揺らめいている。満足、賞賛、そして……ほんのわずかな、嫉妬と警戒。
「お前の才は、俺の想像をはるかに超えていた。正直、末恐ろしいとさえ思う。だがな、永倉。忘れるな。俺たちはまだ、京の町で泥水を啜る壬生浪士だ。会津の殿様からお墨付きをいただいたからといって、足元が盤石になったわけじゃねえ。一歩間違えば、俺もお前も、明日にでも斬り捨てられる身だ」
それは、土方さんなりの、最大限の信頼の証であり、同時に、俺への鋭い警告でもあった。
「先走りすぎるな。お前のその『地図』は、強力すぎる刃だ。使い方を誤れば、俺たち自身を斬り刻むことになる」
「……肝に銘じます」
俺は、彼の言葉を真摯に受け止めた。そうだ、高揚している場合じゃない。これから始まるのは、血と硝煙の匂いだけではない。嘘と真実が入り乱れる、本格的な「情報戦」だ。俺が自ら作り出したこの最強の武器を手に、俺は、この混沌の時代を、仲間たちと共に生き抜いていかねばならない。
俺は、夕暮れの空を見上げた。歴史の大きなうねりが、すぐそこまで迫っている。
新八の戦略眼は松平容保を驚嘆させ、彼は指揮官の一人として異例の大抜擢を受けました。
さらには、新選組は会津藩直属の戦略部隊へと昇格しました。
帰り道、土方は新八の才が強力すぎる刃であると警告します。
大きな力を手にした彼らを、新たな試練が待ち受けます。




