第54話:容保への献策
話の流れで、新八は、会津藩主・松平容保へ直接献策を行うことになります。
完成した「情報地図」を手に、身分違いのプレッシャーを乗り越え、新選組の真価を問われる大一番に挑みます。
一介の隊士による前代未聞のプレゼンテーションが、京の未来を左右します。
第54話:容保への献策
「永倉、お前さんに頼みがある」
屯所の一室で、完成したばかりの相関図を前に戦略を練っていた俺に、土方さんが静かに、しかし有無を言わせぬ力強さで告げた。その真剣な眼差しから、ただ事ではないと直感する。
「なんでしょうか、副長」
「この『地図』、容保公にご覧いただく。お前さんの口から、直接その価値を説明しろ」
「……は?」
思わず、素っ頓狂な声が出た。松平容保公。京都守護職にして、会津藩二十三万石の藩主。徳川宗家に連なる名門中の名門。新選組という浪士集団の後ろ盾であり、俺たちにとっては雲の上の存在だ。
「副長、ご冗談でしょう。俺はただの一隊士です。そのような高貴な御方に、俺のような者が直接言葉を交わすなど……」
「身分がどうした。この『地図』の前では、そんなものは些事に過ぎん」
土方さんは、壁に広がる情報の海図を顎でしゃくった。その目には、俺の能力への絶対的な信頼と、これを政治的に利用せんとする策略家の光が宿っている。
「いいか、永倉。この『地図』は、我ら新選組の価値を、会津藩、いや幕府全体に知らしめる絶好の機会だ。もはや我らは、ただ腕っぷしが強いだけの剣客集団ではない。京の裏も表も知り尽くし、敵の動きを予測し、先んじてこれを叩くことができる、唯一無二の『実力組織』なのだと証明するのだ。そのためには、お前さんの口から、この『地図』の真価を語らせるのが一番効く」
彼の言葉は、俺の心を見透かしているようだった。前世の記憶を持つ俺は、心のどこかで、この時代の身分制度を「乗り越えるべき壁」と捉えている。だが、いざ雲の上の存在を前にすると、現代日本人としての感覚とは別に、この体に染み付いた武士としての階級意識が、見えない枷となって俺を縛り付ける。
「……ですが」
「問答無用だ。これは命令だ、永倉」
土方さんの声が、有無を言わせぬ響きで部屋に落ちた。彼の脳裏には、もう俺が容保公の前でよどみなく献策する姿が見えているのだろう。そして、それが新選組の地位を飛躍的に向上させる未来も。
俺は、深く息を吸い込んだ。そうだ、何をためらう必要がある。この献策は、新選組の未来を、ひいては徳川幕府の未来を左右するかもしれない、重要な一歩なのだ。俺がやらねば、誰がやる。
「……御意。この永倉新八、身命を賭して大役、果たしてご覧に入れます」
「それでいい」
土方さんは、満足げに口の端を吊り上げた。その笑みは、俺という新たな「刀」の切れ味を、天下に示すことを楽しみにしているかのようだった。
数日後、俺は土方さんと共に、黒谷にある会津藩の本陣、金戒光明寺の奥深く、通常は重臣クラスでなければ立ち入ることのできない一室に通されていた。
部屋の中央、一段高くなった上座に座すのは、一人の青年。年の頃は三十に届くかどうか。涼やかな目元に、気品と、そしてその奥に宿る深い憂いを湛えた人物。彼こそが、京都守護職・松平容保その人だった。
その左右には、いずれも会津藩の宿老であろう、厳めしい顔つきの武士たちが控えている。彼らの視線は、上座の容保公に向かうものと、そして俺たち――特に、土方さんの隣に座る若輩の俺に突き刺さるものとがあった。
(……空気が重い)
まるで、水銀を吸い込んでいるかのような重圧だ。側近たちの視線が、「なぜこのような場に、壬生浪士風情が」「土方殿はともかく、その後ろの若造は何者だ」と雄弁に語っている。肌がひりつくような、あからさまな侮蔑と懐疑。霞が関で、予算査定のために乗り込んだ各省庁の会議室で感じた敵意とは、また質の違う、生まれ持った身分差という絶対的な壁がそこにはあった。
俺は、背筋を伸ばし、呼吸を整える。隣の土方さんは、そんな周囲の空気を意にも介さず、泰然自若としている。やがて、容保公が静かに口を開いた。
「面を上げよ。其方らが、新選組局長代理・土方歳三と、永倉新八か」
「はっ。お目通り叶い、光栄の至りに存じます」
土方さんが流れるような所作で頭を下げるのに倣い、俺も深く礼をした。
「うむ。して、土方。此度、そなたが私の時間を割いてまで、是非とも献上したい『策』があるとのこと。聞かせてもらおうか」
容保公の言葉は穏やかだが、その裏には為政者としての厳格さが滲んでいる。時間を無駄にするようなことであれば、容赦はしない、と。
「はっ。ですが、その策を申し上げるのは、私ではございません。ここに控えております、我が隊の組長、永倉新八にございます」
土方さんの言葉に、側近たちの間に動揺が走った。「何だと?」「あの若造が?」「土方殿は何を考えておられるのだ」という囁きが、遠慮なく俺の耳に届く。
容保公は、わずかに眉を動かしたが、制止はしない。その涼やかな視線が、真っ直ぐに俺を射抜いた。
「永倉新八……。聞き覚えのある名だ」
その一言で、場の空気が変わった。容保公は、俺の顔を値踏みするように見つめながら、静かに続ける。
「我らがそなたたちを預かるきっかけとなった、あの見事な嘆願書。あれを起草したのもそなただと聞いている。土方が推挙するだけのことはある。面白い。許す、申してみよ」
俺の背筋に、冷たい汗と熱いものが同時に走った。覚えていたのか。あの時、俺たちが生きるか死ぬかの瀬戸際で差し出した、一枚の紙のことを。そして、それを書いた俺の名を。
側近たちの俺を見る目が、単なる侮蔑から、怪訝と興味の入り混じったものへと変化する。俺は、この好機を逃さなかった。
「はっ!失礼仕ります!」
俺は持参した風呂敷包みを解き、中から巨大な巻物を取り出した。それは、山崎君に手伝わせて、何枚もの和紙を繋ぎ合わせて作った、特製の「相関図」だった。
俺がその巻物を広げ始めると、側近の一人がたまらず口を挟んだ。
「お待ちください、殿!そのような得体の知れぬものを、御前にて広げるなど!」
「よい、構わぬ」
容保公の静かな一言が、側近の声を遮った。俺は無言で巻物を広げ続ける。やがて、畳の上に現れたのは、無数の名前と、それらを結ぶ赤、黄、紫、黒の線で埋め尽くされた、異様な「図」だった。
部屋が、どよめきと困惑に包まれる。
「な、なんだこれは……地図か?」
「いや、人の名前ばかりではないか……気味が悪い」
そのざわめきを切り裂くように、俺は声を張り上げた。前世、何百人もの官僚や政治家を前にプレゼンテーションを行った、あの時のように。
「申し上げます!これは、池田屋事件以降の、京に潜伏する不逞浪士ども、その新たな繋がりの全体像を可視化した『情報地図』にございます!」
俺の声に、部屋がシンと静まり返った。
「池田屋の一件で、我らは宮部鼎蔵をはじめとする首魁を討ち取り、大きな打撃を与えました。しかし、敵もさる者。長州の桂小五郎を中心に、驚くべき速さで組織を再編しております。それは、もはや単なる浪士の集まりではございません。京の地下に張り巡らされた、もう一つの『権力構造』と呼ぶべき代物!」
俺は立ち上がり、図の中心、赤い墨で書かれた「桂小五郎」の名を指し示した。
「これが、その新たな『脳』。そして、ここから伸びる幾筋もの線が、彼らの『神経』でございます!」
俺は、まず黄色い線を指差した。
「この黄色い線は『金脈』!長州藩邸からの公式な支援とは別に、桂が独自に確保した資金源にございます。例えば、この祇園の呉服商『扇屋』。表向きは会津藩御用達の商人ですが、その主人は桂と同郷。売上の一部を偽の勘定に付け替え、桂の活動資金として提供しております!また、こちらの両替商は、薩摩藩の某家老と繋がり、薩摩の名を隠れ蓑に、公家からの支援金を受け取る窓口となっております!」
「なっ……!扇屋がだと!?」
「馬鹿な、あの主人が長州と……!」
側近たちが色めき立つ。彼らにとって、扇屋は馴染みの、そして信用のおける商人だったはずだ。
俺は構わず、次に紫の線を指す。
「この紫の線は『武器』の流れ!堺の商人『和泉屋』が、鉄砲百丁、刀五十振りを『陶器』と偽り、船で淀川を遡上させ、京の隠れ家へ運び込む手筈となっております!その荷が京に到着するのは、おそらく五日後!」
「鉄砲百丁だと!?」
今度は、容保公の隣に座る武骨な家老が身を乗り出した。彼の顔から血の気が引いている。
そして、俺は最も複雑に絡み合った黒い線を、手のひらで覆うように示した。
'「そして、最も厄介なのが、この黒い線!市井に潜む、無数の協力者のにございます!大工、畳屋、小間物屋、遊郭の女郎に至るまで……彼らは日々の暮らしの中に溶け込み、我らの情報を抜き、浪士たちを匿い、連絡を取り合っております。例えば、この大工。先日、さる公家屋敷の修繕に入り込み、警備の配置図を盗み見て、桂に報告しております!」
俺が具体的な名前と手口を挙げるたびに、側近たちの顔が驚愕から蒼白へと変わっていく。彼らの情報網では、到底掴むことのできない、生々しく、そして致命的な情報の奔流。それは、剣客の勘や噂話の類ではない。金の流れ、物の動き、人の繋がりという、動かぬ「事実」に基づいた、冷徹な分析の結果だった。
「この『地図』があれば、我らは敵の動きを予測できます。金の流れを断ち、武器の流入を未然に防ぎ、協力者たちを一人ずつ、効率的に無力化することが可能となります。闇雲に市中を駆け回り、怪しい者を手当たり次第に捕らえるような、非効率な戦いは終わらせることができるのです!」
プレゼンの終盤、俺はいつしか、前世の官僚として、国家の未来を左右する重要案件を説明している時と同じ感覚に陥っていた。目の前にいるのが藩主だろうが大臣だろうが関係ない。この情報の価値を理解させ、正しい判断を促す。それが、俺の役割だ。
気づけば、部屋は水を打ったように静まり返っていた。侮蔑と懐疑に満ちていた側近たちの目は、今や畏怖と驚嘆の色に染まっている。
沈黙を破ったのは、上座の松平容保だった。
「……永倉新八。やはり、そなたはただの剣客ではなかったな」
その声は静かだったが、部屋の隅々まで響き渡った。
「あの嘆願書もさることながら、この『地図』、誠に見事であった。そなたの才、しかと見届けた。その功、決して忘れぬ。そして、その類稀なる才、これからも存分に、この京の安寧のために振るってもらいたい。会津藩は、そなたたちの働きに、最大限の支援を約束しよう」
それは、一介の浪士集団に過ぎなかった新選組が、京都守護職という公儀の権力と、真に一体となった瞬間だった。
俺は、深く、深く頭を下げた。床に額がつくほどの礼をしながら、俺は武者震いを抑えることができなかった。
歴史の歯車が、また一つ、俺の意図する方へと大きく動き出した。この手応えは、確かなものだ。だが同時に、これは新たな、そしてより巨大な戦いの始まりを告げる号砲でもあるのだ。俺は、自らが作り出したこの最強の武器を手に、これから押し寄せるであろう、更なる困難に立ち向かう覚悟を、改めて固めるのだった。
新八の献策は松平容保の心を動かし、新選組は会津藩の全面的な支援を得ることに成功します。
剣ではなく情報という新たな武器で、彼らは公儀の権力と一体となりました。
しかし、これはより大きな戦いの序曲に過ぎません。




