第51話:情報の海図
近藤、土方から正式な任命を受け、山崎烝と共に膨大な押収文書の分析に挑む新八。
しかし、それはまさに情報の海。
新八が取ったのは、キーワードを色分けし、関係性を線で結ぶという、この時代としては画期的な手法。
紙と墨で巨大な「情報の海図」を描き出し、敵の神経網を丸裸にする。
剣ではなく知略で戦う、新選組の新たなる戦端が開かれます。
近藤さんと土方さんから正式な任命を受けてから数日。屯所の一角に、俺と山崎君のためだけの特別な一室が与えられた。かつて物置として使われていたその部屋は、今や池田屋から運び込まれた膨大な量の文書で埋め尽くされていた。紙と墨の匂いが濃密に立ち込めるこの場所が、俺たちの新しい戦場だった。
目の前には、和紙の山、山、山。書簡、密約書、会計帳簿、志士たちの間で交わされた連判状。それらが、まるで意思を持っているかのように、雑然と積み上げられている。
「……これは、想像以上ですね」
隣で腕を組んだ山崎君が、呆然と呟いた。彼の表情には、監察方としての使命感と、目の前の情報の奔流に対する畏怖が入り混じっている。
「ああ。だが、これはただの紙切れの山じゃない。長州派の、いや、この国を覆そうとする者たちの神経網そのものだ。ここから、俺たちは敵の全てを読み解くんだ」
俺はそう言って、一番上にあった書簡を手に取った。一見すると、どこにでもある時候の挨拶を綴った手紙だ。しかし、注意深く読めば、特定の文字が不自然に強調されていたり、時候の挨拶にそぐわない単語が紛れ込んでいたりする。
「『暑さ厳しき折、御身大切に。さて、先日お頼み申した“薪”の件、首尾よく運んでおります』か……」
山崎君が、別の書状を手に取り、眉をひそめる。
「永倉さん、この『薪』という言葉、他の書状にも頻繁に出てきます。おそらくは隠語でしょう。前後の文脈から察するに、武器、それも鉄砲あたりを指しているかと」
「その通りだ。他にもある。『米』は金、『桜』は幕府側の人間、『紅葉』は味方、つまり討幕派の志士を指している可能性が高い」
山崎君は、さすが監察方だ。忍び働きで培った経験から、隠語の存在を即座に見抜き、その意味するところを的確に推測している。しかし、彼のやり方は、あまりにも属人的で、時間がかかりすぎる。一枚一枚の文書を丹念に読み解き、記憶と経験則を頼りに、点と点を繋いでいく。これでは、この情報の海を泳ぎ切る前に、溺れ死んでしまうだろう。
「山崎君、そのやり方では日が暮れるどころか、年が暮れてしまう。少し、俺のやり方でやらせてくれないか」
「永倉さんの、やり方……?」
「ああ。これは力仕事じゃない。仕組みを作るんだ。一度作ってしまえば、あとは誰がやっても同じ結果が出る、そういう仕組みをな」
俺は山崎君に指示して、部屋の壁一面に大きな和紙を貼り合わせさせた。そして、色の異なる墨をいくつか用意させ、筆と、それから大量の紙の切れ端(短冊)を準備させた。前世の研修で嫌というほど叩き込まれた、情報整理と分析の基本だ。この時代には存在しない、俺だけの武器。
「まず、全ての文書に目を通し、注目する単語を拾い出す。人名、場所、日時、金額、そしてさっき言ったような隠語。それらを、種類ごとに違う色の墨で印をつけていくんだ」
「色で……分けるのですか?」
「そうだ。例えば、人名は赤、場所は青、日時は緑、金額は黄、隠語は紫。こうやって視覚的に分類するだけで、情報の性質が一目でわかるようになる」
俺は手本を見せるように、数枚の書状を手に取り、淀みない手つきで印をつけていった。
『五月二十日、河原町の“桔梗屋”にて“梅田”と会合。“米”五両を渡す』
この一文から、「五月二十日」に緑、「河原町」「桔梗屋」に青、「梅田」に赤、「米」「五両」に黄の印をつける。
最初は戸惑っていた山崎君も、すぐに俺の意図を理解したようだ。彼は驚くべき集中力で、俺と同じ作業を始めた。二人で黙々と作業を続けること、半日。全ての文書に、色とりどりの印がつけられた。
「次に、この印をつけた言葉を、全て短冊に書き出す。一つの短冊に、一つの言葉だ」
再び、地道な作業が始まる。だが、山崎君の表情に疲れの色はなかった。むしろ、彼の目は好奇心と興奮で輝いていた。これまで闇雲に歩き回っていた暗い森に、確かな道筋がつけられていく感覚。それが、彼を奮い立たせているのだろう。
全てのキーワードを書き出した短冊は、数百枚にも及んだ。俺はそれを、壁に貼り付けた巨大な和紙の上に、種類ごとに分類して並べていく。
「そして、ここからが本番だ」
俺は、赤で書かれた人名の短冊「梅田」を手に取り、壁の中央に貼った。
「この『梅田』という男が、今回の調査の起点だ。こいつは複数の書状に登場する。金の受け渡し役であり、志士たちの連絡役も務めているようだ」
次に、俺は「梅田」の短冊から一本の線を墨で引き、その先に青の短冊「桔梗屋」と、緑の短冊「五月二十日」を貼る。さらにそこから線を引き、黄の短冊「米五両」を繋げる。
「こうやって、単語同士の関係性を線で結んでいく。誰が、いつ、どこで、誰と会い、何をしたのか。金の流れ、武器の流れ、人の流れ。それらを全て、この壁の上で再現するんだ」
それは、この時代には未だ概念すら存在しないであろう「相関図」や「フローチャート」そのものだ。
山崎君は、壁に生まれつつある巨大な情報の海図を、息を詰めて見つめている。彼の頭の中では、これまでバラバラの点として存在していた情報が、急速に繋がり、意味のある線となっていくのが見えているはずだ。
「すごい……これなら……」
「ああ。これなら、金の出所も、武器の隠し場所も、そして、まだ我々が把握していない大物の存在も、全て炙り出せる」
俺たちは再び作業に没頭した。俺が全体像を構築し、山崎君が個々の情報の繋がりを検証していく。彼の監察方としての知識と経験が、俺の作る骨格に、確かな肉付けを施してくれた。隠語の解読も、この図の上では格段に容易になった。例えば、「薪」という言葉が、決まって堺の商人や、大坂の蔵屋敷の名前と共に登場することから、それが薩摩藩名義で密輸された洋式銃であることが、ほぼ確定した。
作業が佳境に差し掛かった頃、不意に部屋の戸が静かに開いた。
「……何の騒ぎかと思えば、これは見ものだな」
そこに立っていたのは、煙管を片手にした土方さんだった。彼は、部屋の異様な光景――壁一面に広がる情報の海図と、それに没頭する俺たちを見て、面白そうに目を細めた。
「副長……」
「構わん、続けろ」
土方さんは部屋に入ってくると、値踏みするように、ゆっくりと壁の図に視線を巡らせた。彼の鋭い目が、人名から金の流れへ、そして武器の密輸ルートへと、俺たちが描き出した線の意味を正確に追っていく。
「なるほどな。古高屋敷から押収した金の出所は、やはり大坂の蔵屋敷か。そして、この『月琴』という署名は、公家の誰かだな。金の流れの最終地点に、常にこいつがいる」
「ご明察です。まだ断定はできませんが、おそらくは長州と繋がりの深い、あの大物でしょう」
「……ふん。面白い。実に面白い」
土方さんは、煙管の煙をゆっくりと吐き出した。その横顔は、満足げに歪んでいるように見えた。
「剣を振るうだけが戦ではない、か。永倉、お前の言った意味がよく分かった。これさえあれば、敵の動きは手に取るように分かる。どこを叩けば一番痛いかも、誰を捕まえれば根こそぎにできるかも、全てな」
彼の言葉に、俺は静かに頷いた。しかし、その内心は複雑だった。
史実を知る俺にとって、この海図は、未来を知るための羅針盤でもある。この図に記された名前の多くが、これから数年のうちに、非業の死を遂げることを俺は知っている。この海図は、長州派の神経網であると同時に、彼らの死亡者リストにもなり得るのだ。
誰を救い、誰を見捨てるか。
その神のような選択を、俺はこれから何度も迫られることになるだろう。その重圧に、胸が軋むような痛みを感じる。
だが、感傷に浸ることは許されない。俺が選んだ道なのだ。
「副長。この海図は、まだ完成ではありません。ですが、これを使えば、近いうちに大きな釣果を上げられるはずです」
「ほう。例えば?」
「堺の商人による、次回の武器密輸。その日時と経路が、ほぼ特定できました。先回りして、人と物、ともに押さえることが可能です」
俺の言葉に、土方さんの目がギラリと光った。それは、獲物を見つけた狩人の目だった。
「いいだろう。その件、引き続きお前に任せる。必要な人員は、俺が手配しよう。せいぜい、派手にやってみせろ」
土方さんはそう言い残し、満足げに部屋を去っていった。
嵐の後の静けさが、部屋に戻る。
俺は、再び壁の海図に向き直った。そこには、俺がこれから変えていくべき未来の縮図が広がっている。
「山崎君、もう少しだ。この戦争、必ず俺たちが勝つ」
俺は、隣に立つ信頼できる相棒に声をかけた。
山崎君は、力強く頷いた。彼の瞳には、もはや迷いの色はなかった。
俺たちの「見えざる戦争」は、まだ始まったばかりだ。この情報の海図を手に、俺は仲間たちを、そしてこの国を、暗黒の未来から救い出す。そのために、俺は悪にも、神にもなろう。
お読みいただき、ありがとうございます。
新八の「情報の海図」は、土方歳三にもその価値を認められました。
新八は仲間を救うため、次なる武器密輸の阻止へと動きます。
史実の運命に抗う彼の「見えざる戦争」は、まだ始まったばかりです。
次回の活躍にご期待ください。




